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シモン・ボリバル  作者: 伊阪証


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第三話

三話

パリの朝は早い。

早いのに、眠っている匂いがしない。

石畳が乾き、馬の蹄が鳴り、パンの焼ける匂いが立ち上って、

街全体が「今日も勝つぞ」と言っているような空気を作る。


シモンはその空気が好きだった。

好きだから怖い。

好きなものは人避けになりやすい。


飾りの自由の匂いが、ここには確かに混じっていた。

見上げれば旗。

曲がり角には貼り紙。

窓辺には噂。

通りには兵。


言葉は飛び交い、正義は売られ、勝利は飾られ、敗北は隠される。

この街は、自由の顔をしている。

だが自由の顔ほど、よく変わる。


シモンは歩きながら、指先で紙片を折った。

言葉の刃は、もう持っていない。

持っていないのに、刃の感触だけが手に残っている。


手に残るなら、紙はいらない。

紙はいらないが、世界を動かすのは相変わらず紙だ。

その矛盾を嫌いになれないなら、使うしかない。


使うために、彼は学んだ。

学ぶために、彼は笑わない練習をした。

屋敷に戻る練習みたいで嫌だったが、

武器はだいたい嫌な形をしている。


昼、書店へ行く。

紙が溢れているのに、屋敷の紙と違って臭いがある。

インクの匂い、埃の匂い、指の油の匂い、湿気の匂い。

紙が人間の手を吸っている。


本を開く。

言葉が並ぶ。

綺麗すぎる言葉は嘘に見える。

飾りの言葉を、もう飲み込めない。


読んで、閉じ、考える。

考えて、また読む。

この繰り返しが体に合った。


屋敷の勉強は正解へ辿り着くため。

ここでの勉強は正解を疑うため。


ノートには短い言葉だけを書きつける。

長く書くと檻になる気がしたからだ。


自由は旗ではない

法は杭

共同体は重い

だが重さがなければ人は散る

散るなら鎖より悪い


夜、眠れない。

悲しみのせいだけではない。

考えが増えたからだ。


増えた考えは、いつか他人を支配する理屈に化ける。

理屈は便利だ。

便利なものはすぐ人を殺す。


「理屈は武器だ。

武器は握るが、信仰にするな」


ロドリゲスがいたら「よし」と言って机を倒したかもしれない。

だが隣にいない。

隣にいない事実が、少しだけ大人にする。

少しだけ孤独にする。


孤独が増えた分だけ、街が大きく見える。

大きい街の中心には、象徴がある。

象徴は人を束ねる。

その力が、羨ましいほど強い。


そして象徴が、近づいてきた。


その日、街は妙に整っていた。

整っているのに緊張している。

緊張しているのに祝祭の匂いもする。


兵の靴音が硬い。

装飾が派手だ。

声が短い。


吐かれる単語は一つ。

戴冠。


戴冠は屋敷の匂いがする。

王冠は鎖の匂いがする。


革命が王冠を呼ぶ。

矛盾の中心には、欲がいる。


人の流れに逆らわず、飲まれない距離で歩く。

視線の先に重い建物がある。

神の席を作る建物。


中は見えない。

だが外の空気が中身を語る。


歓声が波になる。


「皇帝」

「栄光」

「秩序」

「勝利」


秩序。

必要だから怖い。

必要なものほど、暴力の理由になる。


「自分で冠を置いたらしい」


その一言で、全身が静かになった。

胸の奥で何かがはまる。


自分で冠を置く。

最も近代的で、最も原始的な行為。

理屈の衣を着た本能。

自由の旗を被った支配。


凄い。

危険だ。

そして欲を勝利の形にできる。


惹かれる自分がいる。

吐き気がするのに、視線が外せない。


英雄は世界を変える。

そして世界を自分の形にしてしまう。


自由は旗じゃない。

杭だ。

刺さった杭は、いつか他人の足を貫く。


拳を握る。

握っても変わらない。

変わらないから、誓いの意味が増す。


腕を休ませない。


短い答えだけを選ぶ。

「王冠に勝つために」


王冠とは金属ではない。

世界が欲に屈する瞬間の象徴だ。

それに勝たなければ、南米の檻は形を変えて残る。


夜、宿で灯りをつける。

紙を広げる。

地図だ。


地図は紙なのに現実的だ。

線の一本が命の線になる。

怖いから、目を逸らさない。


指を置く。

海を渡り、風を越え、檻へ戻る。

名前の檻。

制度の檻。

スペインの檻。

檻の中の人間の呼吸。


「帰る」


声に出す。

決定になる。

戻れない。


鞄に必要なものだけを入れる。

余計な本は置く。

重いものは檻になる。

必要な言葉はもう頭にある。

刃は軽い方がいい。


窓の外に祝祭の余韻。

灯り。

酒。

笑い。


無邪気な笑いは危険だ。

王冠を正当化する。

正当化された王冠は根を張る。


世界を変えるとは、敵を倒すだけじゃない。

世界の正当化を奪うことだ。


奪うなら言葉が要る。

言葉だけでは足りない。

組織が要る。

運が要る。


運だけに賭けるのは嫌だ。

嫌なら、運を味方につける力が要る。


力。

苦い単語。


インクの染みはもうない。

だが別の染みがある気がする。

王冠を見た者の染み。

欲を見た者の染み。

限界を見た者の染み。


落ちないなら、利用するしかない。

嫌なのに、必要だ。


灯りを消し、暗闇で呟く。

「……幸福を守るには、逃げるな」


幸福はまた死ぬ。

それでも二度と、ただの不運にしたくない。

その頑固さが、政治になる。


政治は美しくない。

だが美しさで人は救えない。


窓の外の灯りが遠ざかるように見えた。

実際には遠ざかっていない。

ただ、シモンの中で「ここ」が終わっただけだ。


カラカスの空気は、甘い。

甘いのに、喉にひっかかる。

土の匂い、果実の匂い、石鹸の匂い、汗の匂い。

全部が混ざって、湿り気を含んだまま肺に入ってくる。


欧州の乾いた空気に慣れた肺は、最初それを重たく感じた。

重いと感じたのに、どこか安心もする。

ここは“知っている檻”だからだ。


港を抜け、石畳を踏み、屋敷の門が見えた時、シモンは一瞬だけ呼吸が浅くなる。

門は変わっていない。

壁も変わっていない。

噴水も、庭の草の揺れも変わっていない。

変わったのは、こちら側だ。


門をくぐる。

くぐった瞬間、屋敷の空気が肺に入ってくる。

あの頃なら、それで終わっていた。

だが今は終わらない。

息苦しさが、ただ息苦しいまま残る。

息苦しさを“当然”として飲み込めない。


「檻の形が見えるようになった」


見えるなら、壊せる。

壊せると思ってしまう。

思ってしまうから、戻る場所がなくなる。


翌朝、シモンは屋敷を出る。

出るだけで、何かを破っている気がする。

この家では「外へ出る」は行動ではなく、声明に近い。


街へ入ると、声が多い。

欧州の多さは“思想の多さ”だった。

ここは“身分の多さ”だ。


声の高さ。

言葉の速さ。

視線の向き。

服の布の厚さ。

全部が「誰が上で誰が下か」を説明している。


説明しているのに、誰も説明しない。

説明しないのが制度の強さだ。


道の端で、荷を運ぶ男の背中を見る。

背中は汗で濡れ、服は粗い。

誰に雇われているかを考える前に、答えがわかってしまう。


家だ。

制度だ。

紙だ。


紙が動けば人が動く。

人が動けば汗が出る。

汗が出ても、紙の匂いはしない。


吐き気がするほど正しく世界が回っていると、人間は怒りより先に気持ち悪くなる。


屋敷へ戻る途中、知り合いに呼び止められる。

同じ階級の男たちだ。

服が整い、靴が光り、言葉が丁寧で、目だけが焦っている。

焦りは声に出さない。

声に出すと弱さになるからだ。


「久しいな、ボリバル」


家名で呼ばれる。

それだけで肩が少し硬くなる。

硬くなるのに、逃げない。

逃げないことが、戻れない証拠だ。


応接室に集まり、ワインを飲みながら時代の話をする。

昔なら退屈だった。

今は怖い。

ここで交わされる言葉が、いつか人を殺すとわかってしまったからだ。


「欧州はどうだった?」

「革命は終わったのか?」

「噂では——フランスで、また何かが起きている」


モンテ・サクロの風を思い出す。

王冠の音を思い出す。

革命の街が王冠を作った瞬間の、あの静かな恐怖を。


だから曖昧に笑わない。

短く言う。


「革命は終わらない。形を変える」


男たちが黙る。

受け入れる黙りではない。

計算する黙りだ。


「なら、こちらも形を変えるべきだな」


世間話が、計画になる瞬間。

紙が増える前の、紙の匂いがする瞬間。


「形を変える、とは?」


直接言わない。

直接言うと紙になる。

紙になると責任になる。

責任は重い。

重い責任は、誰かに押しつけたい。


「……このまま、スペインに従うのか? いつまで?」


従う。

屋敷の中で散々教え込まれた行為だ。

だが欧州で見た従わせる側の顔が、頭にこびりついている。

従わせる側は理由を綺麗に語る。

綺麗に語るから危険だ。

危険なのに、人は綺麗な理由が好きだ。


答えない。

手にしたグラスを見下ろす。

ワインの赤は血に似ている。

似ているから嫌だ。

嫌なのに、世界は赤い液体を祝いに使う。

その矛盾に慣れたくない。


数日後、噂が先に届く。

噂は紙より早い。

早いくせに、紙の匂いがする。


「スペインが……揺れているらしい」


揺れるのは地震だけで十分だった。

共和国が割れた記憶が、嫌な形で蘇る。


「フランスの皇帝が、スペインに干渉している」


皇帝。

その単語で背中が冷える。

王冠の音が、耳の奥で鳴り直す。


「王が——どうも、まともに機能していないらしい」


制度の心臓が止まったということだ。

制度は止まってもすぐには死なない。

死なないから怖い。

死んだ制度は、死んだまま歩いて人を噛む。


空気が変わる。

この真空を誰が埋めるのか。

誰が正当だと言い張るのか。

誰が紙に署名するのか。


男たちの目が、シモンに向く。


彼らは思想ではなく旗を求めている。

旗は軽い。

軽いから担ぎやすい。

担ぎやすい旗は人を選ばない。

選ばないから、すぐ汚れる。


その視線が嫌だ。

嫌なのに逃げない。

逃げると、また幸福へ逃げることになる。

幸福へ逃げた先で幸福が死んだ。

もう繰り返せない。


「王がいないなら、誰が命令を出す?」


口が開きかけて閉じる。

答えは一つだ。

だが言うと紙になる。

紙になると戻れなくなる。

だから言わない。


言わないから、言うしかなくなる。


「……なら、ここで決めるしかない」


ここ。

この土地。

この街。

この植民地。

この檻の内側。


「自治評議会だ。暫定の——」


遮らない。

聞く。


心臓が速くなる。

彼女が死んだ夜と同じ速さだ。

嫌だ。

嫌なのに必要だ。

恐怖がなければ踏み込めない。


その夜、一人で歩く。

屋敷の庭ではない。

街の端だ。


暗い場所には人がいる。

屋敷の大人はそこを、ないものとして扱う。

ないものをないものとして扱うから、制度は長生きする。


子どもの泣き声を聞く。

泣き声は短い。

短い泣き声は言葉にならない。

言葉にならないものを、紙は拾わない。


紙に殺されるな。

紙を使え。


紙を使うなら、紙に載る言葉を選ばなければならない。

選ぶ言葉が、誰かを救い、誰かを殺す。

それが政治だ。


政治は美しくない。

だが美しさでは、泣き声は止まらない。


屋敷に戻ると、机の上に手紙が置かれていた。

封が切られていない。

封が切られていない手紙は可能性そのものだ。

可能性は怖い。

怖いのに、封を切る。


中身は短い。

「集まれ。話がある」


それだけで十分だ。

長い文章は檻になる。

短い命令は行動になる。


椅子に座らず、立ったまま窓を開ける。

夜風が入る。湿った風だ。

湿った風の中に、港の匂いが混じっている。


港は出発の匂いだ。

出発の匂いは、戻れない匂いだ。


「……王の空席を、誰が埋める」


埋めるな。

埋めると檻になる。

だが埋めないと、もっと酷い檻が勝手に生える。


幸福の死が誓いを生み、誓いが地図を生み、地図が今、現実へ降りてきた。


コートを掴み、扉へ向かう。

取っ手を握った瞬間、ふと笑いそうになる。


机を倒したあの男が、隣にいない。

だが机を倒す音は、まだ耳に残っている。

音が残っているなら、次は自分が倒す番だ。


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