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シモン・ボリバル  作者: 伊阪証


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第二話

幸福は、音が小さい。

勝利みたいに太鼓を鳴らさないし、正義みたいに旗を振らない。

ただ、朝に水が落ちる音がして、窓から光が入って、誰かが笑う。

それだけだ。


だからシモンは、幸福を“外側”に置いた。

屋敷の内側では息ができない。

ならば外に行けば息ができる。


外で、泥を踏んで、風を吸って、机を倒して笑えるなら、

きっと外には——紙ではないものがあると思った。


彼は旅に出た。

旅は自由の形をしている。

だが自由の形をしたものほど、だいたい“何かの手続き”に似ている。


手続き。

紹介状。

名刺。

金。

許可。

家名。


それでも、外へ行く価値はある。


ロドリゲスに点火された頭は、熱を持ったまま冷えなかった。

欧州の空気は、屋敷より冷たいのに、息が楽だった。


理由は単純だ。

ここでは、彼の檻がまだ完璧に機能していない。


彼の名前を知らない人間がいる。

家名にひれ伏さない人間がいる。

ひれ伏さないのに礼儀正しい人間がいる。


その中に、彼女がいた。


彼女の声は、短かった。

刃を隠さず、布にも包まれていない。

ただ、日常だった。


それがシモンには眩しい。

眩しいものは、目に刺さる。

刺さるのに、欲しくなる。


彼は彼女と話した。

世界を変える計画ではない。

思想の引用でもない。

今日の食事。

明日の行き先。

窓の外の天気。


どうでもいい話が、彼を救った。

救われるたびに、怖くなる。

こんなものが、人生にあっていいのか。


彼は恋をしたというより、逃げ込みたかった。

だが同時に、守りたいと思った。

家名でも制度でもなく、自分の手で。


結婚の準備は、屋敷の儀式に似ていた。

紙が増え、署名が増え、祝福が増える。


だがここでの紙は、檻の鍵ではなく、扉を開ける札に見えた。


式の日、彼は胸の中で確認する。

これは檻じゃない。

これは外だ。


誓いの言葉を口にする。

言葉は紙に残る。

この日は、怖くなかった。


彼女の指が、彼の指に触れたからだ。


その瞬間、理解する。

世界を変えるより難しいことがある。

人と一緒に暮らすことだ。


毎日が戦いになる。

勝ち負けじゃない。

相手の呼吸に、自分の呼吸を合わせる戦いだ。


彼はできる気がした。

そう思えただけで、自分を少し許せた。


「帰ろう。

僕の国へ」


「あなたの家へ?」


「家じゃない。

……僕たちの場所へ」


彼女は笑った。

背中の鎖が一本外れるような笑いだった。


帰国の船で、海が揺れていた。

檻がないから、怖い。

だが手を握り、誤魔化さなかった。


その時は、乗り越えられると思った。


カラカスの空気は濃かった。

湿り気と熱と土の匂い。


屋敷の壁は高い。

だが今日は息ができる。


彼女は屋敷を歩く。

侍女が固まる。

家の空気を吸う者は、外の人間に肺が痛む。


だが彼女は平気だった。

笑っていた。


短い幸福が始まった。


朝の光。

湯気。

パンをちぎる手。

水を注ぐ手。


それだけが、世界より大事だった。


だから罰は残酷だった。


彼女の咳。

小さな咳。

笑ってごまかせる咳。


大丈夫だと言われる。

休めばいいと言われる。

布で包まれ、現実が遅れる。


だが現実は遅れない。


熱が上がる。

水でも下がらない。

風も熱い。


彼女は微笑む。

呼吸が苦しいのに。


「大丈夫だ。

僕がいる」


言うほど、言葉は薄くなる。

紙みたいに。


彼は怒りたくなる。

壊したくなる。

だが意味がない。


意味がないことが、狂わせる。


世界は規則より残酷だ。

破れないからだ。


夜、彼女が手を探す。

握る。

熱い。

軽くなる。


「ごめんね」


その一言で、崩れる。


「謝るな。

……僕が、どうにかする」


「どうにか、なる?」


答えられない。

握るだけで、どうにかした気になる。


朝が来る。

世界は続く。


呼吸が止まる。

音はしない。

空気が軽くなる。


揺らしても、戻らない。


幸福は死ぬ。

英雄も家名も関係なく。


守るには何が必要だ。

——世界を変えることだ。


結論は恐ろしい。

だが他に手段がない。


葬儀の後、庭に出る。

水は落ちる。

水は死なない。


「僕は、落ちたものを拾いたい」


拾えないなら、落ちないようにしたい。


門の向こうに丘がある。

町がある。

世界がある。


彼は歩く。

止まらない。


二度と、幸福に逃げない。

欲しいなら、土台を作る。

世界を相手にする。


門の前で振り返る。

屋敷は小さく見えた。


檻の外にも、別の檻がある。

それでも出る。


不運にしたくない。

その感情が、政治になる。


「……もう一度、外へ」


誓いではない。

決定だ。

決定は、足を動かす。


海は、何も言わない。

海は慰めないし、責めもしない。

だから海は、逃げ道にも見える。

逃げ道に見えるからこそ、海は危険だ。


港の匂いは、屋敷の匂いと違った。

磨かれた銀の匂いではない。

塩と木と油と汗の匂いだ。


人間の匂いがする場所は、正直で、乱暴だ。


シモンは船へ乗り込む前に、一度だけ足を止めた。

躊躇ではない。

確認だ。


この旅が「忘れるため」ではなく、

「忘れないため」になっているかを確かめる。


ポケットの中には小さな品が入っている。

指輪でも手紙でもない。

紙の記録は怖い。

紙は残る。

残るものは檻になる。


彼女が触れていた布の切れ端。

香りが薄く残る。

薄いからこそ、呼吸に混ざる。


船員の声。

荷が動く。

ロープが軋む。

世界が動く。


世界が動くなら、シモンも動ける。


甲板へ上がる。

風が叩く。

手加減はない。

その乱暴さが、ありがたい。


「……行く」


声に出す。

決定が現実になる。

現実になった決定は戻らない。

戻らないから進める。


船が港を離れる。

カラカスが遠ざかる。

屋敷の壁が、山が、街が縮む。

縮むものを見ていると、

胸の中の檻も少し小さくなる気がした。


ヨーロッパの空気は乾いている。

乾いた空気は感情を保存しない。

蒸発するのは楽だ。

楽だから怖い。


シモンは街を歩く。

拍手を聞く。

熱の拍手。

だが熱は冷える。

冷えた後に残るのは紙だ。


布告。

勅令。

名簿。

裁判記録。

契約。

戦争の計画書。


紙は臭いがしない。

だが人間を動かす。

動かされた人間は死ぬ。


社交の笑い。

整った笑い。

血を見せない刃。


上手く息をする自分が嫌になる。

上手くなるほど、屋敷に戻る気がした。


夜。

石畳。

眠れない。


静かな夜は、彼女の死を鮮明にする。

結論が増える。

結論は増えるほど弱くなる。

紙と同じだ。


窓を開ける。

冷たい空気。

余計な結論が消える。


「意味が欲しい」


彼女の死に。

自分の生に。


意味がなければ、世界は残酷なままだ。


その欲望が、街へ押し出す。

生きている場所へ。


そこで、再会が起きる。


「おい、坊ちゃま!」


振り向く。

ロドリゲス。


「死んだ顔をしてるな」


「……先生は、相変わらずだ」


「当たり前だ」


肩を掴まれる。

許可はない。

だが振りほどけない。


「欧州はどうだ。自由か」


「……檻の種類が増えた」


笑い声。

汚い笑い。

救う笑い。


「逃げ道も増えたってことだ」


人の匂いが濃い通り。

ここでは家名は通じない。

人間のサイズに戻れる。


「何をしに来た」


「……意味を探しに」


「意味は作る」


作るなら責任が生まれる。

重い。

だが飾りよりいい。


「悲しみは持ってていい。

だが悲しみで寝るな」


許せない。

だから世界に手を突っ込む。


「行くぞ」

「どこへ」

「ローマだ」


誓いは紙に書かない。

歩いて向かう。


ローマの空は広い。

石が沈黙している。

嘘をつかない沈黙だ。


話は殴り合いだ。


「自由は旗じゃない。

杭だ」


商品。

契約。

未来の匂い。


夜。

丘を指さす。


モンテ・サクロ。


聖なる名。

だが利用する。


登る。

息が切れる。

頭が静かになる。


頂上。

灯り。

生活。

残酷で、救い。


「誓え」


「……誓う」


「この腕を休ませない」


短い。

肉体の誓い。


「いい誓いだ。

臭いがする」


「腕は折れるぞ」


「折れても、動かす」


驚き。

笑い。


使命は病だ。

だが壊れ方は選べる。


「戻れない。

だから進める」


背中を叩かれる。

熱い。


灯りを見る。

続く世界。

変えられる世界。


彼女の死を、不運で終わらせない。


——そう信じる。

それが誓いだ。


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