表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シモン・ボリバル  作者: 伊阪証


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/15

第十四話

天幕の布を叩く雨音が、ひと息ごとに厚くなっていった。川の匂いが、革と汗に混じって戻ってくる。床板の隙間から湿り気が上がり、靴底の縁に冷たくまとわりつく。灯りの芯が揺れ、火皿の油が小さく波打った。机の上の紙束には、指で押さえた跡が黒く残っている。乾かない。

伝令が入ってきたとき、彼の肩から雨が落ちた。布の端がしぼれて、床に小さな水たまりができる。男は濡れた帽子を抱えたまま、一度だけ喉を鳴らし、封を切った。紙が裂ける音が、雨の中で妙に鋭い。報告は短い。敵の動きは変わらず、村は空になり、補給は遅れている。病人の数が増えた。馬が倒れた。乾季の読みが、目の前で崩れていた。

シモン・ボリバルは紙面から目を上げない。視線だけが横へ滑り、天幕の縫い目を追った。縫い目の糸が、雨を吸って黒ずんでいる。胸の内側で、何かが一度だけ跳ねた。怒りに似た熱ではなく、予定していた形が崩れたときの、冷たい驚きだった。息が浅くなる。指の腹が、無意識に机の縁を探り、乾いた木肌を見つけられない。

机の向こうに立つ幕僚が言った。「川が増水しています」声は低く、言葉の端が濡れていた。「道が…残りません」誰かが地図を広げた。紙の上の線は、ここ数日で付け足された鉛筆の跡だらけだった。川筋の線が太くなり、渡渉点が消され、代わりに曖昧な印が増えている。彼は地図を覗き込む。距離の感覚が、雨の匂いと一緒に歪む。線の上を指が滑り、紙がふやけて、肌にまとわりついた。

外で馬がいなないた。続いて、何かが倒れる鈍い音。人の声が上がり、すぐに引き絞られたように小さくなる。天幕の外の闇は、雨で厚く塗りつぶされている。灯りの届く範囲だけが、濡れた革と金属の鈍い光を返した。兵の靴は泥を抱え、歩くたびに吸い付く音を立てている。彼らの顔は見えない。見えないまま、数が減っていく気配だけが近い。

「待てば乾く」誰かが口にした。言い終えてから、その言葉が空中で腐るのを感じたのか、男は黙った。待つ間に腐るのは地面ではない。兵の体だ。噂だ。腹の中の空気だ。ここにいる者は全員、それを口には出さずに知っている。知っているから、余計な言葉が増える。

ボリバルは椅子の背から肩を離した。上体を起こす動作が、疲労を引きずっている。袖口の布が湿り、肘に張り付く。彼は濡れた地図を一度たたみ直し、机の端へ寄せた。紙が抵抗せず、ぬるりと折れた。驚きがもう一度来る。紙が紙として扱えないことへの、理屈にならない苛立ち。彼の唇が一瞬だけ薄くなり、すぐ元に戻った。

幕僚の一人が、別の紙束を差し出した。兵の名簿と、糧食の残量。数字の列は乱れている。最後の行が雨で滲み、墨が歪んだ。ボリバルはそこを指でなぞり、滲んだ線を確かめる。滲みは戻らない。彼は紙を返さず、紙の角を折った。折り目がついた瞬間、周囲の空気が少しだけ固くなる。誰も、その折り目の意味を尋ねない。尋ねると、言葉が増える。

「荷を軽くしろ」声は大きくない。だが天幕の中の全員が動いた。「余分は置く。砲は後ろへ。馬は…」そこで一瞬だけ止まる。外でまた倒れる音がした。誰かが短く叫び、すぐ口を塞ぐ。「馬は、歩けるものだけ残す」命令が続くと、空気が少しだけ流れた。反射的な安堵が混じり、その安堵がすぐに恥に変わる。残す、という言葉が、捨てる、という言葉の裏側だからだ。

天幕の入口がめくれ、湿った風が入った。雨の匂いの奥に、腐りかけた草と、血の匂いが混じっている。泥に沈んだ死体の匂いだ。ボリバルの喉が詰まり、唾が飲み込めない。咳は出さない。咳をすると、弱さが外へ漏れる。代わりに、鼻から短く息を抜いた。鼻腔が痛む。冷えが、やっと体の中へ入り始める。

幕僚が地図の端を押さえた。「この季節に越えるのは…」言葉が途切れる。男の目が、ボリバルの指先を見る。指先は地図の線をなぞっていない。線から外れた、空白の部分を押さえていた。線がない場所。道と呼ばれていない場所。そこに指が置かれた瞬間、天幕の中で小さな驚きが連鎖した。誰も声を上げない。上げれば、否定か賛成が必要になる。

ボリバルは立ち上がった。椅子の脚が床板を擦り、乾いた音がした。その乾いた音だけが、雨の中で場違いに残る。彼は天幕の外へ一歩出る。雨が頬を叩き、瞬間的に視界が白くなる。水が眉から目に落ちる。瞬きをすると、闇の中に人影が浮いた。濡れた帽子を抱え、肩を丸めた兵。脚が泥に取られ、膝まで沈んでいる。彼は助けを求めていない。ただ立っているだけだ。立つことだけが、今できることだと体が知っている。

ボリバルは兵の方へ歩かず、河の方を見た。水面が黒く盛り上がり、岸を食っている。木の根が剥き出しになり、土が流れていく。そこに、渡れる場所はない。それでも彼は、目を逸らさない。背中で、天幕の布がばたつく。幕僚の足音が近づき、止まった。誰も、理由を言わない。言えば、雨がそれを薄めるだけだ。

「出る」ボリバルの声は雨に吸われる。だが幕僚が頷く気配が、背中越しに伝わる。「夜が明ける前に」続く言葉は短い。命令として足りるだけ。説明には足りない。足りないまま、十分だった。天幕の中で紙が束ねられる音がする。濡れた革の帯が締まる音がする。誰かが走り、誰かが転び、誰かが笑いそうになって飲み込む。

雨は止まない。止まないから、止むのを待つ話は終わった。

彼の喉の奥に残っていた詰まりが、ゆっくり下へ落ちる。代わりに、胸の内側が固くなる。冷たい驚きが、今度は形を変えて、決断の重さだけを残していた。



夜が明けきらないうちに、隊列は動き出した。松明は少なく、火の匂いより湿気の匂いが勝っている。肩に食い込む革紐が、雨で柔らかくなって粘る。布が重い。銃は冷たく、金具に指が吸い付いた。息を吐くたび、口の中に泥の味が戻る。

足を出しても地面が返ってこない。沈む。引き上げる。次も沈む。歩くというより、引き抜き続ける作業だった。靴の中に水が入り、つま先が動かなくなる。布の裾が膝にまとわりつき、膝が前へ出ない。隊列の端で、誰かが小さく笑いそうな音を漏らし、すぐに喉の奥で潰した。笑う余裕があると思われるのが怖い。

空が灰色に変わるころ、森の気配が途切れた。視界が急に開け、広さだけが残る。草がある。だが草は地面に生えていない。水の上に浮いた皮膚みたいに見える。風が吹くと、草が波打ち、波が黒く走る。川ではない。湖でもない。境目がない。足元の水はぬるいのに、背中の雨は冷たい。その二つが体の中で喧嘩をして、皮膚がどちらにも合わせられない。

先頭が止まり、すぐに動き直した。止まった理由を言う者はいない。言えば、止まる癖がつく。止まる癖は、ここでは死に近い。ボリバルは馬を使わず歩いていた。馬は数が減り、残したものは荷を引きずっている。馬の目が白い。蹄が泥に吸われ、引き抜くたびに肩が跳ねる。跳ねるたび、鞍の金具が鳴る。その音だけが、妙に生きている。

水が深くなった。くるぶしから脛へ、脛から膝へ。膝が沈むと、次は腰だと体が知っている。体が知った瞬間、驚きが走る。浅いと思って踏み込んだ場所が、突然抜ける。水が胸まで上がる。口が勝手に開き、息が水を吸いそうになる。横の兵が、腕を伸ばして背中を押し、押した手のひらが滑って落ちた。助けたのではない。押し戻しただけだ。倒れさせないための動きだ。

列の後ろから、湿った叫び声が一つ上がった。言葉にならない。次の瞬間、荷が水面に浮いた。袋だ。紐が切れたのか、手が離れたのか。袋が回転しながら遠ざかる。浮いているのに、救えない。追えば隊列が割れる。割れた隙間に、人が落ちる。誰も追わない。目だけが追って、目が戻ってくる。戻ってきた目は乾いていないのに、乾いた目をしていた。

雨は弱まり、代わりに虫が増えた。耳の穴へ入ろうとする羽音が、薄い膜をこすり続ける。頬を叩くと、手のひらに潰れた匂いが残る。首筋を掻くと爪の下が赤くなる。血ではない。泥と汗と、虫の体液だ。汗が出る。出た汗が雨に溶けて、どこまでが自分の水かわからなくなる。

昼に近づくころ、前の方で小さな混乱が起きた。隊列の端がずれ、肩がぶつかり、声が立つ。短い言葉が飛び、すぐに引っ込む。刀の柄に触れる指が見え、触れたまま動かない。誰も抜かない。抜けば、抜いた瞬間から引き返せなくなる。抜かないまま、喉が鳴る。鳴った喉が、次の鳴り方を覚えそうで怖い。

ボリバルは立ち止まらない。立ち止まらないまま、目だけを動かした。揺れる草の向こうに、低い土の盛り上がりがある。島みたいな乾いた部分だ。そこへ向けて列を少しだけ曲げた。曲げた瞬間、後ろの列が遅れる。遅れた場所に水が集まり、足が取られる。遅れが遅れを呼ぶ。彼は振り返らず、腕を上げた。指を二度だけ折る。合図はそれだけで足りた。

乾いた土に上がったとき、体が軽くなるのではなく、別の重さが来た。足が地面に沈まない。そのことが驚きになる。安堵が先に出て、すぐに体が恥ずかしさを覚える。恥ずかしさの原因はわからない。ただ、安心したことが怖い。安心したまま次に沈んだら、心が折れるからだ。

兵たちは座らない。座れば立てなくなる。膝を曲げずに腰を落とし、荷を下ろし、布を絞る。絞っても水は減らない。減ったのは腕の力だけだ。誰かがパンを噛んだ。噛む音が、雨の中より大きく聞こえた。噛むたびに顎が震える。咀嚼が終わったあと、喉が動かない。乾いていないのに飲めない。

遠くで雷が鳴り、空が一瞬だけ白くなった。その白さの中に、鳥の群れが見えた。鳥は低く飛び、次の瞬間、見えなくなった。白さが消えると、平原はまた境目を失う。水の匂いが戻る。泥の匂いが戻る。戻る匂いの中に、焦げた匂いが混じった。誰かが火打石を打って失敗した匂いだ。火はつかない。火がつかないことが、ここでは当たり前になりつつある。

ボリバルは地面の上に膝をつかず、立ったまま地図を開いた。紙はまた湿っている。指が紙の縁を掴むと、紙が柔らかく曲がり、角が潰れた。潰れた角の感触に、彼の背中が一度だけ硬くなる。紙がまた紙として扱えない。驚きが、怒りに似た形を取ろうとして、取れずに止まる。彼は呼吸を整えず、整える時間を与えず、紙を閉じた。

「動くぞ」

声は短く、誰も理由を探さなかった。探しても水に溶ける。探す間に足が沈む。荷が上がり、肩が上がり、列がまた水へ降りる。乾いた土の端で、一人の兵が靴を脱ぎかけ、やめた。脱げば軽い。軽いぶん、怖い。彼は靴を履いたまま水へ踏み出し、足元が抜けて胸まで沈み、口を開き、飲み込むのを堪えた。

水の上に草が揺れ、草の上に雨が落ちる。雨の下で人が動く。動く人の列が、ゆっくりと平原に吸い込まれていく。終わりが見えないのではない。終わりという形を、目が掴めないだけだ。掴めないまま進むしかない。

背後で、荷を落とす音がした。今度は声が上がらない。上がらない声の代わりに、肩が一斉に沈んだ。沈んだ肩が、次の一歩でまた上がる。上がった肩の高さが、ほんの少しだけ揃わなくなっていく。揃わなくなっていくことが、目に見える。

水の中で、世界が滑る。

滑る世界の上で、彼らは歩いている。



水の平原を背にしたとき、足元の音が変わった。吸い付く泥の音が消え、代わりに砕けた石が靴底を叩く。湿った草の匂いが薄れ、鼻の奥に乾いた土の粉が刺さる。それでも服は乾かない。肩に乗った水が、布の中に潜ったまま抜けない。歩くたび、濡れた袖口が肘を擦り、擦れる場所だけが冷たく痛んだ。

坂は急ではない。だが長い。長い坂は、急な坂よりも容赦がなかった。息が追いつかず、胸の中で空気が薄くなる。薄い空気を無理に飲み込むたび、喉が擦れて血の味がする。兵は喋らない。喋れば息が余計に減る。代わりに、装備の金具が鳴った。鳴る音が、呼吸の代わりに隊列を数えていく。後ろで誰かが小さく吐いた。吐いたものが地面に落ちる前に、雨が拾って流した。

森に入ると、雨が少しだけ細くなる。枝が雨を受け、滴が首筋へ落ちる。滴は冷たい。冷たい滴が肌を走るたび、背中の筋肉が勝手に跳ねる。跳ねる筋肉が次の一歩を乱し、乱れた一歩が膝の力を奪う。彼らは止まらない。止まる場所がない。止まると濡れた布が体温を奪い、奪われた体温が戻らないことを、もう知ってしまっている。

林が切れる。灰色の空が近い。さっきまで頭上にあった雲が、目の高さに降りてきたように見えた。霧が喉へ入り、吸った空気の輪郭がなくなる。視界の端で、馬が首を振った。首を振るたび、たてがみから水が飛ぶ。飛んだ水が空中で形を変え、細かな粒になって頬を刺した。雨ではない。痛みが先に来る冷たさだった。

誰かが手袋を外した。外した指が、次の瞬間に固くなる。指が固くなるのが早すぎて、笑いにもならない。兵の顔が青く見える。青さは肌の色ではなく、唇の縁に集まった血の少なさだった。歯が鳴る音が、あちこちから漏れる。最初は隠される。次に隠せなくなる。最後には、隠そうとする動きそのものが無駄になる。

峠へ向かう道は細くなり、足元が滑った。岩が濡れているのではない。濡れた布が凍り始め、布が硬くなって足首の動きを奪う。靴底に残った泥が、薄い氷の膜になって石に貼り付かない。ひとつ踏み外すと、体が横へ持っていかれる。持っていかれた体を支える腕が、支える前に重くなる。重い腕は上がらず、上がらない腕がさらに冷え、冷えた腕が次の動作を遅らせる。その遅れが、転倒の形を作る。

前のほうで馬が膝を折った。音は派手ではない。重いものが座り込むような、鈍い沈み。引き手が声を上げる前に、馬の目が白くなった。首が左右に揺れ、揺れが小さくなり、息が細くなる。引き手の手が綱を引いたが、綱は引き返してこない。綱の先にある重さが、もう応えなくなった。兵が二人で肩を入れ、鞍を外し、荷をほどく。革が凍りかけ、紐が解けない。爪を立てると皮が割れ、割れた皮の感触が指先に残ったまま消えない。

砲が止まった。車輪が石に噛んで動かない。押す背中が増える。背中が増えても、砲は動かない。吐く息が白く伸び、白い息が互いに絡んで一つの雲になった。雲が顔を隠し、顔が見えないまま声だけが荒くなる。荒い声は言葉になりかけ、言葉になる前に咳に変わった。咳は胸を裂き、裂けた胸がさらに息を奪う。

ボリバルは隊列の横を歩いた。手を伸ばして誰かを支えることはしない。支えると一人が楽になる代わりに、隊列が崩れる。彼は砲の前で止まり、砲架の金具に触れた。金具は氷のように冷たい。指先が張り付いた感触がして、すぐに剥がした。剥がしたとき、皮膚が一緒に持っていかれそうな痛みが走る。痛みが走ったのに、顔は動かない。動かない顔が、周囲の動きを待った。

「捨てろ」

声は短い。否定の声は返らない。返るのは目だ。目が揺れ、揺れが止まり、肩が落ちる。兵が砲のそばに立ち尽くし、手のひらを砲身に当てた。温めようとしたのではない。触れて、置いていくことを確かめただけだ。次の瞬間、その手は引っ込んだ。指が動かない。動かない指を、もう片方の手で叩く。叩いても戻らない。戻らないまま、兵は背を向けて歩き出す。背中に雪が付く。雪は溶けず、布の上で白い点になった。

峠は白かった。白さは美しくない。白さは物を消す。地面の形も、道の幅も、人の距離も、白さが奪っていく。踏み跡がすぐ薄れ、後ろの列が前の列を見失いかける。呼びかけが飛ぶ。「おい」それだけだ。理由も、謝罪も、励ましもない。「おい」しか残せない。残した声が霧に吸われ、吸われた声が戻らない。戻らない声の代わりに、金具の音だけが残る。

転んだ者がいた。転んだ音は雪に吸われ、音がしない。音がしないから、倒れたことに気づくのが遅れる。遅れた瞬間、倒れた者の身体が冷える。冷えた身体は起き上がらない。起き上がらない身体を、隣の者が引きずる。引きずる腕が震え、震えが強くなり、強くなった震えが怒りに似た動きになる。怒りは相手に向かない。相手に向ける余裕がない。怒りは空気に向かい、空気は応えない。応えない空気の中で、震えだけが続く。

峠を越えた側に、風が吹いた。風は雨の匂いを持たず、草の匂いも持たない。代わりに、石の匂いと、冷えた金属の匂いがした。息を吸うと、肺が痛む。痛みが続くと、痛みが当たり前になる。当たり前になると、恐怖が形を変える。恐怖は声にならず、歩幅の狭さになり、荷を持つ手の固さになる。固い手のまま、彼らは前へ進む。

振り返る者がいた。振り返った視線の先に、白い霧の中へ消えていく砲の輪郭が、一瞬だけ見えた。輪郭はすぐ消える。消えたとき、振り返った者は瞬きをしなかった。瞬きをすると、消えたものが本当に消えるからだ。瞬きをしない目が乾き、乾いた目が痛み、痛みが涙を出す。涙は頬を流れない。頬に触れた瞬間、凍る。凍った涙が、皮膚の上で固い線になった。

ボリバルは前を見た。前の白さの中に、黒い線が一本だけ見える。岩肌だ。岩肌の黒が、これからの下りを示している。下りは楽ではない。下りは足を取る。足を取られれば、起き上がる力が要る。力はもう減っている。それでも、黒い線があるだけで、白さよりはましだった。白さはすべてを曖昧にする。黒い線は曖昧にしない。黒い線は、転べる場所をはっきりさせる。

彼は腕を上げた。合図は一度だけ。隊列がまた動く。動くたびに、白い息が乱れ、乱れた白い息が風にちぎれる。ちぎれた息が消えていくのを見ながら、彼らは歩く。足元の石が鳴る。鳴る石の音が、ここまで来たことを否定せずに残した。



峠の白さが背後へ落ちても、体の中の冷えは残った。下り坂に入ると、足が軽くなるのではなく、重さの位置が変わる。膝が前へ出るたび、ふくらはぎが攣りそうに震えた。濡れた布は凍りかけ、動かすたびに擦れる音がする。擦れる音が皮膚の痛みを呼び、痛みが次の一歩を遅らせる。遅れが隊列の幅を乱し、乱れが崖の縁を近づけた。

霧が薄くなると、草が見えた。水の平原の草とは違う。根がある草だ。踏めば少し沈み、沈んだ分だけ返ってくる。返ってくる感触に、誰かが息を漏らした。笑いではない。喉の奥が勝手にほどける音だった。ほどけた喉はすぐに閉じる。閉じないと、寒さが入り込む。

村に着いたとき、煙の匂いがした。湿り気の中に、薪の焦げが混じっている。家の壁は土色で、屋根の端から雫が落ちていた。人が出てくる。目が先に動き、次に足が動く。目が隊列を数えるように走り、途中で止まった。止まった目が、倒れそうな兵の肩を見た。見たあと、口が動く。言葉は聞こえない。雨の中で、口の形だけが揺れた。

毛布が出た。粗い布が肩にかかると、最初に来るのは温かさではなく痛みだった。皮膚が布の毛羽に引っかかり、凍りかけた汗が一気に動く。痛みが深くなってから、遅れて温かさが来る。温かさは優しくない。痺れの裏側にある熱だ。兵の何人かは声を上げなかった。上げると、戻ってこられない気がした。

ボリバルは家の軒下に立ち、腕を下ろしたまま、流れてくる湯気を見ていた。鍋の湯気が霧と混じり、境目がなくなる。境目がない湯気を吸い込むと、肺が一瞬だけ楽をする。楽をするのが怖い。彼は吐く息を短くし、喉の奥を締めた。締めた喉が、乾いた咳を押し戻す。

「靴」誰かが言った。革の靴が並べられ、紐が差し出される。靴は小さい。足が入らない者がいる。入らない者は笑わない。笑えない。彼らは黙って靴を受け取り、受け取れなかった者は裸足のまま布を巻いた。布を巻いた足の上で、皮膚が剥けた色が見える。見えた色を、誰も見なかったふりをした。

外では雨が続き、空は低い。だがここには壁がある。壁があるだけで、敵が遠い気配になる。遠い気配が近づくときの音を、誰もが待っている。待ち方が同じだ。耳が外を向き、肩が固まり、手が武器の場所を探る。探っても、武器は濡れて重いままだ。

斥候が戻ったのは、体が少しだけ動くようになってからだった。男は泥を落とす時間を持たず、そのまま立った。口が開き、言葉が出る。言葉は短い。敵がいる。数がいる。道を押さえている。彼は地図を広げようとしたが、紙が湿って折れない。折れない紙が指に抵抗し、指先がまた痛む。

ボリバルは紙を叩かず、紙の上に小石を置いた。石が紙を押さえ、紙が平らになる。平らになったのは紙だけで、状況は平らにならない。線が一本、敵の位置へ伸びている。線の先に、湿地を示す曖昧な印がある。湿地の印は、雨で滲んで黒くなっていた。

出る時間が来ると、毛布は置かれた。置かれた毛布の上に、まだ温かい湿り気が残る。残る湿り気を手のひらで確かめる者がいた。確かめた指が、すぐ拳になる。拳が固いまま、列に戻る。列は増えない。減ったままだ。減った形のまま、動く。

湿地は見た目より浅くなかった。草が腰の高さまであり、足元が見えない。見えない足元が一歩ごとに変わり、変わるたびに膝が引っかかる。引っかかった膝が前へ出ず、出ない膝の上に体が落ちる。落ちた体を支えるために、隣の者が腕を出す。腕を出した瞬間、銃が傾き、銃口が空を向く。空を向いた銃口が、次の瞬間に地面を向く。銃口が揺れるたび、焦りが増える。焦りは声にならず、呼吸の速さになる。

砲声がした。遠いのに重い音だった。音が湿気を押し、胸の奥に入る。続いて弾が来る。弾は見えず、草が裂ける音だけが先に来る。裂けた草の匂いが鼻へ跳ね、遅れて土が跳ねる。土が跳ねた場所に、体が倒れる。倒れる音がしない。湿地が音を飲む。飲まれた音の代わりに、目が開いたまま動かない顔が残る。

前へ出た部隊が止まり、止まった場所で撃ち返した。火薬の匂いが湿気に負け、煙がまとまらない。まとまらない煙が目に入る。目が痛み、涙が出る。涙が出ても、頬は濡れている。涙なのか雨なのか区別がつかない。区別がつかないまま、引き金だけが動く。

敵は高いところにいた。わずかな丘があるだけで、丘の上は別の世界になる。こちらは草と水で足を取られ、向こうは乾いた地面で足が動く。向こうの銃列が揃い、揃った銃列が一斉に火を吐く。吐いた火は短く、すぐ消える。消えたあとに、こちらの列が細くなる。細くなる速度が早い。早い細さが、喉を締めた。

誰かが叫び、叫びが半分で途切れた。途切れた声が耳に残り、耳がそれを払い落とせない。払い落とせないまま、肩が下がり始める。下がり始めるのは、足だけではない。目の高さが下がる。視線が地面へ寄り、寄った視線が草の揺れしか見なくなる。草の揺れしか見なくなると、敵の列が消える。消えた敵は、もっと怖い。

ボリバルは後ろへ下がらなかった。下がると、下がる理由が生まれる。理由が生まれると、理由が増える。増えた理由は止まらない。彼は草の中で立ち、立ったまま、左の端を見る。端の兵が足を抜けずにいる。抜けない足の周りで水が渦を巻き、渦が黒くなる。彼は合図を出さず、手を一度だけ上げた。上げた手は指を広げない。握ったままだ。

右で動きが起きた。湿地の縁をなぞるように、馬の影が走る。馬は少ない。だが走る影は速い。影が草の端を割り、割れた草の向こうに敵の側面が見える。見えた側面に、こちらの銃口が向く。銃口が揃わないまま撃つ。撃った弾が当たるかどうかは見えない。だが敵の列が一瞬だけ乱れた。乱れが生まれる。乱れが広がる。広がりきる前に、馬の影がさらに突っ込む。

槍が見えた。槍の穂先が霧の中で白く光り、次の瞬間には土を叩く。叩いた音がする。湿地の外の乾いた地面だけ、音を返す。返した音が、こちらの胸を押す。押された胸が息を吸い、吸った息がようやく肺の奥まで届く。届いた空気が痛い。痛いのに、痛いことが嬉しい。

敵の砲が向きを変えようとし、変える途中で止まった。止まった砲の周りで人が動く。動く人の背中が見える。背中が見えると、背中が狙える。狙える背中に、銃が集まる。集まった銃が撃つ。撃った音が続く。続いた音の中で、敵の列が少しだけ後ろへ揺れた。揺れた後ろが、さらに揺れた。

それでも勝ちではない。湿地は足を返さない。返さない足が、追撃の形を作れない。馬の影が引き返す。引き返す影の速さが、さっきより遅い。遅い影は疲れている。疲れた影は、まだ生きている。生きているだけで、十分だという顔がある。顔は見えない。息だけが見える。

夕方になる前に、両方の列が止まった。止まったのは、合意ではない。足が止まっただけだ。撃つ腕が重くなり、引き金が鈍くなり、目が霞む。霞む目の中で、敵の赤い袖が遠ざかる。遠ざかる赤が、草の中に溶けた。溶けた赤の代わりに、こちらの足元に倒れた者が残る。残る者の重さが、湿地の水を黒くした。

ボリバルは泥の上に立ち、靴の縁から水を落とし続けた。落ちる水は止まらない。止まらない水の音の中で、彼は背後の列を振り返らずに数えた。数えるのは目ではない。空気の密度だ。密度が薄い。薄い密度が背中に貼り付く。

夜が来る。霧が戻る。

霧の中で、敵もこちらも同じように息をしている。

同じ息の仕方が、次の朝には同じではなくなる。

朝の霧は、夜のうちに水へ戻っていた。草の先から雫が落ち、落ちた雫がまた草へ跳ねる。湿地の匂いが薄れ、代わりに土の匂いが強くなる。空の色が少しだけ高い。雲が裂け、裂け目の向こうに乾いた光が見えた。光は温かくない。濡れた布の中へ差し込むと、冷えた皮膚が先に痛む。

隊列は黙って動いた。歩くたびに靴の中の水が鳴る。鳴る水が減っていないのに、地面は沈まない。沈まない地面が、逆に足を重くした。沈まないなら走れるはずだと体が思い出し、思い出した分だけ、走れない現実が重くなる。

前へ行った斥候が戻り、顔を上げずに合図だけを出した。指の動きが短い。短い動きが、余計な言葉を切る。人が寄る。寄った肩がぶつかり、ぶつかった肩がすぐ離れる。気配が固まる。固まった気配の中で、風が一度だけ草を揺らした。

道があった。道と呼べる幅がある。車輪の跡が残り、土が踏み固められている。水の中を歩いた後では、その固さが刃物みたいに感じる。道の先で川が光った。川は広くない。だが流れが速い。速い流れが、橋の影を揺らしている。橋は低く、木と石が混ざった簡単な造りだった。簡単だから壊れやすい。壊れやすいから、守りやすい。

遠くで金属の鳴る音がした。車輪と鎖の擦れる音だ。音が近づくほど、乾いた塵が上がる。塵が空気を濁し、鼻の奥がざらつく。塵の向こうに列が見えた。揃った列ではない。だが数がある。濡れていない布が揺れ、銃剣の先が光を返す。彼らは急いでいる。急いでいるから、間がある。間があるから、刺さる。

ボリバルは道の端に立ち、土を一度だけ踏んだ。踏んだ土が固く返る。返った感触が足首へ残り、足首が勝手に緊張する。肩の中で息が止まりかけ、止まりかけた息を押し込む。目が橋へ行き、橋の向こうへ行き、橋の手前へ戻る。戻った視線が、草の陰に動く影を捉えた。影は伏せている。伏せている影が、すでに撃てる距離にいる。

最初の銃声は一発だけだった。乾いた音が谷に響き、遅れて川がそれを割る。次の瞬間、応えるように連射が続く。煙が上がる。雨季の湿り気が残っていて、煙がまとまらず、薄く広がる。薄い煙の向こうで人が倒れ、倒れた人の後ろからまた人が出る。列が詰まり、詰まった列が道の幅を塞ぐ。塞いだ幅に車輪が止まり、止まった車輪の周りで腕が動く。動く腕が焦っている。焦る腕は、命令より早く動く。

「前へ」

誰かの声が飛んだ。声は反射的で、喉が裂けるように乾いている。だが声が飛ぶと、前へ出る者がいる。前へ出る者が橋へ向かう。橋へ向かう者の足は速い。速い足が板を叩き、板が鳴る。鳴った板の音が、橋の上の人間を露出させる。露出した背中に弾が集まり、背中が折れる。折れた背中が橋の上に転がり、転がった身体が橋の入口を塞ぐ。塞いだ入口に次の足がぶつかり、ぶつかった足が止まる。止まった瞬間が、いちばん危ない。

左の草むらが揺れた。揺れた草の中から銃列が立ち上がり、一斉に撃つ。撃った反動で肩が跳ね、その跳ねた肩がまた次を込める。動きが揃っているわけではない。だが同じ方向へ向いている。川沿いに並ぶ敵の影が薄くなり、薄くなった影の間から白い袖が走った。走った袖が転び、転んだ袖が起きず、その場所が空く。

右でも草が揺れる。湿った地面の上で、革の音が鳴る。馬だ。数は少ない。だが速い。速い馬は音を置き去りにする。蹄が固い土を叩き、叩いた音が腹へ響く。腹が勝手に縮み、縮んだ腹が息を押し出す。馬の影は橋へは行かない。橋の脇を回り、川の浅いところへ向かう。浅いところと見えたのは、浅いからではない。そこしか選べない形をしているからだ。馬の脚が水を切り、水しぶきが光る。光った水が一瞬の壁になり、その壁の裏で銃声が重なる。

敵の列が割れた。割れたのは恐怖ではない。道が狭いからだ。狭い道で止まると後ろが詰まり、詰まると前が押され、押されると形が崩れる。崩れた形の中で、指揮する腕が振られ、振られた腕が誰にも届かない。届かない腕は、二度三度と振られ、振られるほど空振りになる。空振りの間に、こちらの銃口が前へ進む。

橋の手前で、短い取っ組み合いが起きた。銃剣が刺さる前に、銃床が振られる。振られた銃床が顔を叩き、叩かれた顔が後ろへ折れる。折れた首の後ろから、別の手が出て襟を掴む。掴んだ襟が引き倒し、引き倒した身体を踏む。踏む足が滑り、滑った足がまた踏み直す。泥ではない。血と水の混じった滑りだ。滑りが靴底に広がり、靴底が重くなる。

敵の中に、立ち止まって周囲を見る男がいた。帽子の形が他より整い、上着の前が閉じられている。彼の目だけが忙しく動き、動いた目が一瞬こちらを捉える。捉えた瞬間、男の顔が硬くなる。硬くなった顔は叫ぼうとして、叫ぶ前に肩を掴まれた。掴んだ手は二つ、三つと増え、男の腕が背中へねじられる。ねじられた腕の角度が限界を超え、骨が鳴る。鳴った音は銃声に消え、男の口が開いたまま閉じない。閉じない口の中に、乾いた土が入る。

橋の上の詰まりがほどけた。倒れた身体が横へ押し出され、空いた板の上に足が乗る。足が乗ると、次が乗る。板が鳴り、鳴った板の上で人が走り、走った人の背中が橋を越える。橋を越えた先の敵が引く。引いたのは命令ではない。形が持たないからだ。持たない形の中で、銃が落ち、落ちた銃を拾う手が止まり、止まった手がそのまま空を掴む。空を掴んだ指が震え、震えた指が膝に触れ、膝が折れる。

ボリバルは橋へは出なかった。出れば見える。見えれば、止まる。止まれば、列が止まる。彼は道の端に立ち、合図だけを切った。腕が一度上がり、すぐ下がる。下がった腕は震えていない。震えていないことが、逆に体の内側の疲労を際立たせる。頬の筋肉が固まり、固まったまま息が白く抜ける。

銃声が薄くなり、代わりに足音が増えた。増えた足音が追いすぎないところで止まり、止まった足音の中に、短い呻きが混じる。呻きは途切れ途切れで、言葉にならない。言葉にならない呻きのそばで、濡れた布が引きずられる音がする。負傷者を動かす音だ。動かす腕が震え、震えが力を奪い、奪われた力を歯が補う。歯が鳴る。鳴った歯の音は、銃声よりも近い。

川は流れ続ける。橋の下で水が泡立ち、泡が白く弾ける。白い泡の上に、黒いものが一つ流れ、流れた黒が消える。消えた場所を誰も見ない。見れば、目の中に残る。

捕えられた男が引かれてきた。泥が膝まで付いている。上着の前が破れ、破れた布の隙間から濡れた肌が見えた。男は歩こうとする。歩こうとして、足が絡む。絡んだ足を兵が蹴る。蹴ったのは憎しみではない。早く動かすためだ。男の息が荒くなり、荒い息が咳に変わる。咳が出ると、咳のたびに肩が揺れ、その揺れが縄を引く手へ伝わる。手が縄を強く引き、男の顎が上がり、上がった顎の下に雨が落ちる。雨は冷たい。冷たい雨が、今さら痛い。

誰かが笑おうとして、笑わずに鼻を鳴らした。鼻を鳴らした音が、すぐ怒号に掻き消される。怒号は敵へではなく、散らばった味方へ向かう。散らばった味方は、戻らないと次が来る。戻る足が、ようやく一つの線になる。

その線の先に、町がある。

町の壁はまだ見えない。

見えないのに、空気だけが変わる。

濡れた布の重さは変わらない。

だが銃の握りだけが、少しだけ確かになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ