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シモン・ボリバル  作者: 伊阪証


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第一話

紙が、音を立てる。

紙は人を殺さない。紙は血を流さない。紙は泣かない。

それでも紙は、骨より硬く、人より長く残って、人生を決める。

薄暗い部屋で、羽ペンの先が小さく跳ねた。インクが滲み、乾き、文字になる。

書かれているのは、祈りの言葉ではない。祝福でもない。

「確定」だ。


神父は、息を整えてから、少年の名前を読み上げようとした。

——途中で、一度、止まった。

長いからではない。

その長さが、家の重さであり、制度の重さであり、神の名を盾にした“所有”の重さだと、彼自身が知っているからだ。


神父は、やり直すように、最初から言う。

「シモン・ホセ・アントニオ……」


少年は椅子の上で足を揺らし、膝を擦り、背筋を伸ばす。

背筋を伸ばしたのは叱られたからじゃない。

誰かが“彼の姿勢”を見ているからだ。


神父の声は、続く。

「……デ・ラ・サンティシマ・トリニダード……」


言葉が増えるほど、部屋の空気が重くなる。

少年は理解できない。けれど身体はわかってしまう。

この名前は、彼のための名前ではない。


最後に、家名が落ちるように来る。

「……ボリバル・イ・パラシオス。」


呼び終えた瞬間、神父の肩がほんの少し下がった。

少年は、その“下がり方”を見て、なぜか笑いそうになる。

笑ってはいけない場面だと理解しているのに、笑いそうになる。

長い名前を言い切った大人が、少しだけ自由になったみたいに見えたからだ。


その瞬間だけ、少年は思う。

「じゃあ僕は、いつ自由になる?」


屋敷は広い。広いのに、歩ける場所は決まっている。

庭へ出ても、門へ近づけば呼び止められる。

廊下を走れば咎められる。

壁に指を滑らせれば叱られる。


木々も花も噴水もあるのに、どれも触ると汚れるものとして扱われる。

少年は、触って汚したくなる。

汚すことが自由だと、身体が勝手に思い込んでいる。


母はいつも香りをまとっていた。

甘い花の匂いではない。

布と石鹸と、冷たく磨かれた銀の匂いだ。


母は少年の頬を撫で、「シモン」と呼ぶ。

その声だけが、短い。

母が呼ぶ「シモン」は、少年の皮膚に届く。


神父が呼ぶ長い名は、少年の皮膚を通らず、屋敷の壁に染み込む。

短い名は人間の名で、長い名は家の名。

家の名は、人間を包んで、息を奪う。


父は、いつもどこか遠い。

実際に遠い日もある。

寝室の奥で咳をしていて、少年が近づくと侍女が目配せして扉を閉める。


父の声が聞こえることはある。

怒鳴る声ではない。

だが言葉が紙と同じ匂いをしている。

「……この土地は……」「……この収穫は……」「……帳簿を……」


少年は父の言葉を理解しない。

ただ、父の声が出た後、屋敷の人間の歩く速さが変わるのを知っている。

紙が動けば、人が動く。

そして紙の上には、彼の名前が必ずいる。


ある日、書斎の扉が少しだけ開いていた。

少年は吸い寄せられ、そっと覗く。


父は椅子に座り、額に汗を滲ませ、ペンを持っている。

机には書類が山のように積まれ、封蝋が赤い血みたいに固まっている。


父は少年に気づき、視線を上げる。

その目は温かくないわけではない。

ただ、温かいものを抱え込めるほど元気ではない。


「シモン。」


父が呼ぶのも短い。

少年は一瞬、嬉しくなる。


だが父はすぐ次の言葉を言う。

「ここに来て、この線の上に名前を書け。」


少年は机に近づき、紙を見る。

線が引いてある。

線の上には、すでに父の署名がある。

署名は曲線が多くて、まるで剣術みたいだと思う。

自分の名前より強そうだ。


少年はペンを握る。重い。

手が震える。


父が「落ち着け」と言い、母が背後から肩に手を置く。

その手は優しい。

優しいのに、逃げられないように軽く固定してくる。


少年は言われた通りに、書く。

書いているのは短い名ではない。

書かされているのは、長い檻の名前だ。


書き終えた瞬間、父が小さく頷く。

それは褒めたのではなく、確認だ。

「これでいい。」


少年はペンを置き、手を見た。

指先にインクが付いている。

彼はそれを擦って消そうとする。

消えない。


消えないことが、少しだけ腹立たしい。

——なぜだろう。

彼は、まだ何も奪われていないのに、奪われた気がする。


屋敷には、ルールがある。

誰が先に座るか。

誰が話すか。

誰が食器に触れるか。

誰が扉を開けるか。

誰が名前を呼ぶか。


少年は、名前の呼び方だけで、その人が自分を何として見ているかがわかるようになる。

短い名で呼ぶ者は、少年を子どもとして見ている。

別の呼び方は、少年を主人として見ている。

家名で呼ぶ者は、少年を“家の鍵”として見ている。


少年が一番嫌いなのは、最後のそれだった。

鍵は便利だ。

鍵は大切だ。

鍵がなければ扉は開かない。

でも鍵は、人間ではない。


少年は庭で石を拾う。

指でつまみ、投げ、弧を描かせる。

石は自由だ。

どこにでも飛べる。


彼は石を見て、負けた気がする。


「石に負けるな。」


声がする。

振り向くと、母がいた。

母は笑っていない。

怒ってもいない。

ただ、屋敷の空気みたいな顔をしている。


「あなたは、勝たなきゃいけないのよ。」


「何に?」


母は一瞬、言葉に詰まる。

母は少年の頭を撫でる。

その撫で方が、少しだけ乱暴だ。

優しさが乱暴になるとき、人は嘘をつく。


「……いろいろに。」


少年は「いろいろ」が嫌いだ。

いろいろは、逃げ道だからだ。


母は少年を抱き寄せ、そして離す。

「シモン、覚えておいて。

あなたの名前は、盾よ。

剣よ。

道よ。」


少年は、それらが同じだと言われると気持ち悪い。

気持ち悪いけど、母の声は嘘じゃない。

嘘じゃないから、もっと嫌だ。


少年は母の背中を見ながら、心の中で言う。

「じゃあ僕は、僕じゃないんだ。」


父が死んだ日、屋敷は静かだった。

泣き声は少ない。

悲しみは部屋の奥に押し込められて、代わりに紙が増える。


少年は父の寝室の前に立つ。

扉は閉まっている。

侍女が立ち、目を伏せる。


「会いたい」と言うと、首を横に振られる。

「……もう、眠っておられます。」


眠る。

子どもは眠ると起きる。

父は眠ると起きない。


少年は理解できない。

理解できないのに、身体だけが冷える。


彼は扉に手を当てる。

木は冷たい。

木も紙も、人間より硬く、人間より長く残る。


それから、家の中の歩く速さが変わる。

誰も走らない。

誰も笑わない。

ただ、紙が運ばれ、封がされ、署名が増える。


少年は書斎に呼ばれる。

知らない男たちがいる。

服が上等で、目が冷たい。


男たちは少年の顔ではなく、背後の壁を見る。

そこには家系図がある。

彼らが見ているのは“血”だ。


紙が広げられる。

そこには長い名前がある。


少年は理解する。

父が死んでも、名前は死なない。

名前が動けば、人が動く。


「これは……僕の?」


男は口角だけを上げる。

「君のものだよ。

君が“それ”だからだ。」


その言葉で、胸の奥が小さく割れる。


母は父の死後、少しずつ疲れていく。

姿勢、言葉、礼を正す。

それは愛であり、訓練でもある。


ある夜、母が咳をする。

その音で、少年の身体が冷える。


母は少年の手を強く握る。

薬の匂いがする。


「シモン。」


「……生きなさい。

あなたの名前に、負けないで。」


少年は怒りを覚える。

でも表に出さない。

代わりに、手を握り返す。

ほんの少し、母の指が緩む。


それだけで、勝った気がしてしまう自分が嫌になる。


数日後、母も死ぬ。


父の死は扉の向こうだった。

母の死は目の前だった。


香りが消え、屋敷は箱になる。

少年は箱の中で息をする。

冷たい空気が、身体に残る。


母がいなくなった後、少年は庭に出る。

世界は平気で続く。


噴水の水を掬う。

水は形を保たない。

水は檻に入らない。


遠くに山が見える。

屋敷の壁より高い。

それだけで、救われる。


門の方へ一歩だけ踏み出し、止まる。

止める声がなくても、檻は中にある。


少年は拳を握る。

指先のインクは消えない。

消えないなら、上から塗るしかない。


「……シモン。」


短い名。

人間の名。


山の向こうには、外がある。

声にしない決意が生まれる。

声にすれば、また檻になるからだ。


この名前に、負けない。

この檻の外へ出る。


噴水の音が、少しだけ大きく聞こえた。


屋敷に新しい人間が入ってくる時、まず変わるのは匂いだ。

香水でも石鹸でもなく、“外”の匂い。土と汗と風と、乾いた紙の粉が混ざった匂い。


書斎の扉が開き、男が入ってきた。

背は高くない。服も立派ではない。

だが目が、屋敷の中の誰とも違う。

屋敷の人間の目は「角がない」代わりに「逃げ道がない」。

この男の目は、角があるのに、逃げ道もある。

つまり、どこへでも行ける目だ。


男は中途半端にお辞儀をし、座る前に部屋を見回した。

壁の絵、銀の燭台、分厚い机、封蝋、書類の山。

その全部を見て、鼻で笑ったわけでもないのに、空気が少しだけ軽くなった。


「……で、坊ちゃまが“問題児”だと聞いた」


大人たちが硬直する。

問題児という言葉は、ここでは禁句に近い。

屋敷の中で使われる言葉はいつも布に包まれている。

「躾」「将来」「品格」「相応」。

問題児なんて裸の言葉は、屋敷に似合わない。


男は気にしない。


「私はシモン・ロドリゲス。

教育係として雇われたらしいが……訂正する。

私は教育係じゃない。目覚まし係だ」


大人が咳払いをする。

言葉の意味より、言い方が気に入らない。


そして椅子の影から、少年が姿を現した。

シモンは机の足元で座っていた。

座らされたのではなく、そこが一番見やすい場所だと知っているからだ。

大人の顔と手が見える。

誰が話し、誰が黙り、誰が嘘をつくかが見える。


ロドリゲスはシモンを一瞥して、すぐに視線を外した。

子どもを見て感情を作らない。

代わりに、判断を作る。


「なるほど。目が悪くない。

目が悪くない子は、放っておくと大人を嫌いになる」


大人たちがさらに硬直する。


ロドリゲスは指で机を軽く叩いた。


「今日から授業を始める。

ただし条件がある。

——紙だけで教えるのは嫌だ」


「……何を仰っているのか」


「紙は便利だ。

紙は偉い。

紙は人間を動かす。

だが紙は——臭いがしない。

血も汗も土も出ない。

そんなもので世界を教えたら、坊ちゃまは世界を嫌いになる」


ロドリゲスはそう言って、ようやくシモンを見た。


「なあ、シモン。

お前、紙が好きか?」


シモンは答えなかった。

好き嫌いの問題じゃない。

紙は好きになれるほど柔らかくない。


ロドリゲスは肩をすくめた。


「答えなくていい。顔でわかる」


翌日から授業が始まった。

屋敷の授業は儀式に近い。

机の上に本を積み、椅子の角度を揃え、

侍女が水を置き、カーテンが規定の高さで止まる。

空気まで礼儀正しくなる。


ロドリゲスはその空気を吸って、「うへぇ」と小さく言った。

誰も聞かなかったふりをする。

聞かなかったふりは、この家の潤滑油だ。


シモンは机の前に座り、ロドリゲスと向かい合った。

ロドリゲスは本を開かない。

代わりに、シモンの手を見る。

指先のインクの染みはまだ残っている。


「その手は、紙を嫌いだ。

いい。

紙が嫌いなら、紙に勝てる」


「……紙に勝つ?」


「紙に勝てない人間は、紙に殺される。

契約書、命令書、判決文。

——お前の名前も、その類だ」


シモンの喉が鳴る。


「読むぞ。

だが暗記するな。

暗記は檻だ」


ロドリゲスは本を乱暴に扱い、読み上げる。

言葉を飾らず、骨にするように読む。


「——人間は自由なものとして生まれる。しかし——」


途中で止める。


「続きは考えろ。

——お前は、自由か?」


シモンは答えない。

答えると契約になる気がしたからだ。


「よし。

言わないのは賢い。

口は出口で、同時に入口だ。

毒は入口から入る」


ロドリゲスは立ち上がった。

屋敷の空気がざわつく。


「坊ちゃま、立て」


シモンは立つ。


机が引かれ、床を擦る音がする。

規則が削られる音だ。


「この机は重すぎる。

重い机は子どもを黙らせる。

黙った子どもは従う。

従う子どもは、世界を変えられない」


ロドリゲスは机を押した。

机が倒れ、床が震える。


「ほらな。

机は倒れる。

倒れても世界は終わらない。

終わらないなら、倒していい」


ロドリゲスはシモンの肩を掴む。


「外へ行く」


門で守衛が戸惑う。


「門は何のためにある?」

「……守るために」

「違う。

外を見せるためだ。

開けろ」


門が開く。


外の空気が流れ込む。

匂いが違う。

音が違う。

声が重なり、ほどけている。


草を踏む。

柔らかく、反抗してくる。


泥を踏む。

足が止まる。


「良い。

汚れたなら、世界に触った」


丘に登り、町が見える。

雑然として、息をしている。


「見えるか」

「……見える」

「何が」

「……わからない。多い」


「よし。

多いのが世界だ。

多い世界は、お前の名前を小さくする。

——それが救いだ」


ロドリゲスは紙片を取り出す。


「怖いか? 紙が?」


答えはない。


「なら勝て。

紙は刃にもなる。

使われるな。

使え」


「人間は自由に生まれる。

だがどこでも鎖に繋がれている」


「お前の鎖は何だ」


「……名前」


「よし。

次は、鎖を切る方法だ。

まず見ろ。

嘘をつくな。

軽くなったら、引っ張れ。

切れなきゃ——世界を味方にしろ」


シモンの身体が熱を持つ。

屋敷では抑えろと言われる熱だ。


ロドリゲスは屋敷を振り返る。


「私は嫌われる。

だから追い出される。

その前に、お前の頭に火をつける」


頭を軽く小突く。

点火だ。


危険だ。

必要だ。


風が吹く。

泥の匂いが残る。

その匂いを、シモンは覚えようとした。


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