004 この声は
伝えたいことを伝え終わると詩帆は満足し、そこには再び沈黙が生まれ、次はどちらから話し出すかを探り合うという状況は、また振り出しに戻っていた。しかし稑は先ほどとは雲泥の差で1人ホクホクしていた。恋する稑は単純だった。詩帆が涙を流せば自分も悲しくなるし、詩帆が笑えば自分の心も明るくなった。未だ自分が役に立てたという実感は何一つないのだが、稑ももうそこそこ満足していた。
しばらくして、今度は詩帆がその沈黙を破った。
「サングラス、似合ってた。」
「ほんと?ありがとうッ。あれはもう僕のイメージ通りだったよ。」
「ほんと?よかったぁーッ。リクエストの返事が"東雲さんみたいなサングラス"って、わっかりやすいんだかアバウトなんだかで結構悩んだんだけど、あゆみちゃんと一緒に探しに行って、いろいろ吟味して、私もすっごく楽しかった!それで最終的に2人でお揃いのブランドにしたんだけど、稑は背が高いからめっちゃカッコよかった!!」
それはイギリスの伝統的なクラシックにユーモアを融合し幅広い年齢層に人気のブランドで、サングラスはレンズがティアドロップのまさに東雲の如く顔が大きく隠れるタイプのサングラスだった。
「これで次詩帆さんが家出した時は、すぐに迎えに行けるから。」
「へ?家出??」
「うん。」
「え、ちょっと待て。何でまた私が家出する前提になってんの??」
「いや、まぁそれはあくまで例えだけど、この先また何があるか分からないでしょ?もし詩帆さんに何かあったら、僕は一番に見つけ出すから。」
「一番?ほぉ。それはまた随分な使命感だな。ありがとう。でもご心配なく。もう二度とあのような失態は致しません。その節は大変ご迷惑をお掛けしました。」
詩帆は稑に向かってペコッと頭を下げた。
「って、私今日お詫びやら何やらで何回頭下げてんだろ…。」
「ふふふ。」
その場は少し和んだ。詩帆はその流れに乗り、思い切って稑に尋ねた。
「手紙は…、もう読んだの?」
「うん、読んだよ。」
恐る恐る遠慮気味に切り出した詩帆に対して、稑はその質問にさらりと答えた。
「そのぉ…、…お父さんのことは、稑はどうしたの?」
「え?」
稑はなぜ詩帆がそれを知っているのかとても驚いた顔をしていた。
「あぁ、ごめん。私…、知ってるんだ。稑がこの家に住み始めて一年が経った頃に、律子さんがここに泊まりに来たことがあったでしょ?その時に、私から律子さんに聞いたの、稑は父親のことを知ってるんですかって。そしたら、律子さんが話してくれて…。」
稑はあの時ダイニングで話し込む2人の姿を思い出していた。
(あの時にはもう、その話をしてたんだ…。)
「稑が成人になった時には、すでに事実を記したその手紙を渡す、でも、それを読むかどうかは、稑に委ねるって…。」
稑はその手紙のことを詩帆が知っていることに対して困惑するようなことはなかった。むしろいつからかそれまで自分でも気付かない程度に曇っていた視界が、すぅっと晴れていくような、ちょっとした息苦しさから解放されるような、そんな不思議な感覚を味わっていた。
「その手紙は読んでない。読んでないよ。今は、それを知る必要はないと思ってる。」
「…うん、そっか…。」
思いの外悩んだ様子もなくあっさりとそう答えた稑に、詩帆はそんな一言しか返すことができなかった。稑は先ほど章から受け取った封筒の中の律子からの手紙は読み、さらにその中に一緒に入っていた自分の父親のことが書かれた手紙の封は切らなかった。稑は思った。
(そっか。もし詩帆さんがその手紙のことを知らなかったら、僕はこのことを話すことはなかったんだ。)
稑は先ほど部屋に戻りその手紙を読んでから、実はパーティーで食らったジャブ3連発とは異なる、何か鉛のように重たい異物が身体の中に入り込み、それはやがてじわじわと溶け出し、自身でも気付かないレベルで全身を蝕むような、そんなダメージも喰らっていたのだ。稑は少しずつそれを吐き出すように、ポツリポツリと話し始めた。
「僕は父さんがいないことを、つらいとか、悲しいとか、そんなふうに思ったことはないんだ。」
「え…?」
「父親がいても、それが必ずしも幸せなこととは限らないでしょ?」
詩帆は苦しくも稜太のことが頭をよぎった。
「でも僕がずっとそう思えてこれたのは、母さんのおかげなんだ。」
「律子さんの…?」
「うん。」
稑は両肘をそれぞれの膝に乗せ、前で手を組み、その手を見つめながら話し始めた。
「いつ頃だったかは、もうはっきりと思い出せないんだけど、小さい頃、僕は一度だけ母さんに父さんのことを聞いたことがあるんだ。」
「…うん。」
それは5才の時だったと、詩帆は律子から聞いていた。
「その時、父さんは今も生きているけど、僕が生まれたことは知らないんだって。だから、僕が嫌いとか、会いたくなくて会いに来ないわけじゃないんだって。」
いつだったかの記憶は思い出せなくても、稑から出たその言葉は、当時律子から聞いたそのままだった。
「その時は、母さんの言っている意味はよく分からなかった。でも、僕を見つめながら話す母さんの顔が、なんていうか、ものすごく優しい顔をしていて…。んー、うまく言えないんだけど、少なくとも父さんに対しては、憎しみとか…、恨みとかは全然なくて、むしろ母さんにとっては、今もとても愛しい人みたいな、そんな思いが伝わってきて…。それでその時僕は、もうそれだけで満足しちゃったんだ。」
「…うん。」
詩帆はただ一言、優しく相槌を打った。
「もし母さんが悔やんでたり、とてもつらい顔をしていたら、僕はきっと父さんを許さなかったと思う。もしかしたら、いつか自力で見つけ出して、何かしてたかもしれない。でも母さんは、日々の苦労はあっても、それを父さんのせいみたいにすることは一切なかった。ただただ目の前にいる僕を一心に、大切に思ってくれていた。それを毎日感じてたから、だから父さんには申し訳ないけど、僕は母さんとの2人の生活で、充分幸せだったんだ。」
「うん…、そっか。」
「だから、僕は今のままで充分。足しも引きもしない、今のままがいいんだ。」
「うん。そうだね。」
詩帆はそんな稑の思いに、そっと寄り添うように答えた。
「私は稑の導き出した答えを、尊重するよ。」
「うん。ありがとう。」
稑は自身の父親のことを、誰かとこんなにも穏やかに話せる日が来るとは思ってもいなかった。
(もし詩帆さんが知らなかったら、僕はこの思いを誰にも言えないまま、この先もずっと、あの手紙と一緒に1人抱えていたんだ。)
稑はひと通り話し終えると、とても満たされた顔をしていた。そして組んでいた手を解き姿勢を起こすと、今度は清々しい眼差しで詩帆を見て言った。
「それにね、むしろ今は感謝すらしてるんだ。」
そう言うと、稑は喉に近い辺りの胸に手を当てて、尚も詩帆を見て続けた。
「この声は、母さんからだけじゃない、父さんからももらった声だから。」
「え…。」
それを聞いた詩帆は、思わず硬直した。稑のその言葉が耳に入るなり、まるで金縛りにでもあったかのように、微動だにせず稑の口元を見つめていた。そして詩帆の頭の中には、あの日必死になりながら何かを伝えようとしていた稜太の姿が蘇っていた。
「え…、稑…、ごめん、今の、もう一回言って。」
「え…。」
明らかに異なる詩帆の様子に稑は少し困惑しながらも、言われるがままもう一度恐る恐る先ほど口にした言葉を繰り返した。
「この声は、母さんからだけじゃない、父さんからももらった声だから…。」
すると詩帆は今度は急に立ち上がったかと思うと突然稑の両肩をガッチリと握りそのまま稑を押し倒した。稑は詩帆と共にデッキチェアの背もたれに倒れ込んだ。壁ドンならぬ椅子ドン、その状況に、稑は再び目玉が飛び出るほど驚いた。
「し、詩帆さんッ?!?」
しかし詩帆はそんなおどおどとし突然の状況にパニックになっている稑のことなど一切お構いなしにさらに自身の片膝をデッキチェアの座面に乗せ、尚も稑の肩をガッチリと握ったまま、恐ろしい目力で稑の口元を凝視していた。稑は今にも食い殺されそうな小動物と化していた。詩帆の片膝は、もはや稑の太腿の間に割って入っていた。
「もう一回ッ!!!」
ちょうどその頃、飲めないウイスキーといつものブランデーグラス2つをそれぞれの手に抱えた章がテラスに向かうために階段を上っていた。今夜は稑の成人を迎えた誕生日でもあり、それはそれはご機嫌な様子で鼻歌も口ずさんでいた。そして3階まで上り切るとグラスを持っている方の脇にボトルを挟み、空いた手でテラスのガラス戸を引いた。すると、いつもは感じない生き物の気配を感じふと視線を奥に向けると、そこにはものすごい形相の詩帆がいて、今にも稑に襲いかかろうとしている情景が目に飛び込んできた。
「………!!!??」
章は思わず飛び出そうな声を何とか抑えたが、そのことに一瞬気が削がれ、脇に抱えていたウイスキーのボトルがするりと抜け落ちてしまった。
(ッ!!!死守ッ!!!)
章はそのウイスキーも大事だったが、自身の気配を悟られてはいけないと自分でも驚くほどの俊敏な動きで、そのボトルが床に落ちるギリギリのところで何とかキャッチし惨事を回避した。章は運動は得意ではなかった。しかしそれはこれまで何万回と見て頭に刷り込まれてきた魂狼の動きそのものだった。章はそのまま匍匐前進で壁の裏側へと移動し、何とか事なきを得た自分に胸を撫で下ろした。やがて少し開いているガラス戸の隙間から、詩帆と稑の声がかすかに聞こえてきた。
「この声は、母さんからだけじゃない、父さんからももらった声だから!」
すると稑の口元を見つめる詩帆の目には、みるみると涙が溢れてきた。
「え…、何…?」
詩帆は尚もしばらく放心状態だったが、溢れるほどに溜まった涙がいよいよこぼれ落ちた瞬間我に返った。すると詩帆は一気に脱力し、力なく稑から離れた。それから放心状態のまま、よろよろと先ほど自分が座っていたデッキチェアの方に戻っていった。そしてようやくたどり着くと、ペタンッと無気力に腰を下ろした。
"しほ、――――、
―――――――――――、
――――――――――――――!"
"しほ、この声は、
母さんからだけじゃない、
父さんからももらった声だから!"
稑の発したその言葉は、あの時稜太が必死に伝えようとしていた言葉とぴったり重なっていた。




