003 ありがとう
稑は成人したが、だからといってお酒が飲めるようになったわけでもなく、明日も普通に学校や仕事があるため、稑の誕生日パーティーは終始クリーンな賑わいで9時過ぎにはお開きとなった。
稑は部屋に戻り風呂を済ませると、まだ髪が濡れたままベッドの上にポツンと置いてある律子からの手紙を見つめた。すでに封は開いていた。そして再びそれを手に取るも読み返すことはせず、小物が置いてあるラックの箱の中に大事そうにしまった。稑はバスタオルを椅子に掛けると、そのまま自室を後にした。
3階に上がり、稑はいつものようにピアノ室に向かった。ドアノブに手を掛けたものの、この日は一旦手を止め、扉のガラス窓からそっと中を覗いてみた。
(…、いない。)
稑のお目当ての詩帆は、そこにはいないようだった。稑はあからさまに肩を落とした。今日は自身の誕生日でめでたい日であるはずなのに、先ほどのパーティーの間だけでも突然一人暮らしを宣告され、詩帆が専属のマネージャーから外れ、メンバーたちにも詩帆のもう一つの活動を知られてしまうというジャブ3連発を喰らっていた。そこに今ここに詩帆がいないことは、もう稑にとっては間違いなく今日一番の打撃を喰らわすトドメのアッパーカットだった。
(もう…、限界だ…。さすがにつらいッ。だって今日は僕の誕生日だよッ!)
稑は打ちひしがれた。
(あとから来るかな…、それか、もう部屋に行っちゃおうかな…。いや!ダメダメッ。)
稑はふと頭に浮かんだ新の怪しい笑顔を振り払い、会いたい衝動を何とか堪え頭を思い切り左右に振ると、項垂れたまま踵を返した。するとすぐ目の前に詩帆が立っていた。
「おす。」
「…ぅう、うわぁ〜〜〜ッ!!!」
稑は大声を上げると同時に思い切り尻もちをついてしまった。
「えぇー、そんなにぃ?ふふふ、もぉお化けじゃないんだから。」
稑はまだ目玉が飛び出そうになっていた。そんな稑に詩帆は手を差し伸べた。未だに驚きを隠せない稑だったが、その手はまるで奈落の底からすくい上げてくれる天使の手に思えた。その手を握り稑が起き上がると、詩帆は言った。
「今日はさ、テラスで話さない?」
「…うん。」
すると詩帆は少しだけにぃっと笑い先に歩き出した。稑もその後に続いた。詩帆も部屋着に着替えていて、すでにスッピンだった。その詩帆からは、またあの記憶を掠める香りがした。
稑がテラスに出るのは、実は数えるほどしかなかった。デビューして間もない頃に章がここで1人慣れない酒を飲んでいたのを目の当たりにしてから、ここは章の大事な場所という認識になっていたからだ。稑は少しそわそわしながら、そこにある2つの木製デッキチェアの片方にちょこんと座った。背後は一面のガラス戸、両脇は壁になっていて、正面には胸の辺りまでの壁の上にさらに目隠しのフェンスがあり、開けた頭上には夜空が覗けた。雲が出ているわけではなかったが、都会だからか星は数えるほどしか見つからなかった。
2人はその場に落ち着くも、何から話せばいいのかお互いに様子を伺っていた。ここにピアノがあれば、詩帆は間違いなく弾いていた。でもその詩帆が、今日はテラスを選んだ。だから何か話があるのだろうと稑は思っていたが、詩帆からは一向に話し始める気配はなかった。すると稑は言った。
「カミングアウト、したね。」
3つのジャブのうち、一番受け入れ難かったのはこれだったのかと、稑は言葉にした自分の声色で気付かされた。
「え、あ、うん…。」
詩帆は稑が若干しょげているのを感じ取った。
「ごめんね。今まで散々秘密を強要してたのは私なのに、みんなに言うことを稑に伝えないまま…。でも順番としては、こうであるべきだと思ったから…。」
「うん、まぁ…、そうだね。」
詩帆の言っていることは間違っていない。それに詩帆もようやくありのままの自分と向き合って前に進もうと決めたのだ。いつまでも自分勝手のわがままで拗ねているわけにはいかないと稑は気持ちを切り替えた。しかしそんなにころっと切り替えられるわけもなく、稑は尚も気持ちのコントロールが効かないまま続けた。
「もう、スーツは着なくなったんだね。それに、あのネックレスも…。もう…、付けないの…?長崎に行った日、何があったの?その時のことが関係してるの?なんであの日、あんなに泣いてたの?あの時言ってた"ありがとう"って何?僕は、何もしてない…。」
稑の声は切実だった。これまで聞きたくて聞けなかったこと、そしてもし自分が傍にいたら何かできたかもしれない悔しさが、堰を切ったように溢れ出た。
「待って待ってッ。私も稑にはちゃんと話したいと思ってた。だから今日やっと話せると思ってここに来たら稑もいたから、私は嬉しかったよ?」
それを聞くと、稑の胸はまたいつかのようにほわっとした。そして今度は少しだけ熱くなった。
"詩帆から話してくれるさ。稑になら。"
やはり章の言っていた通りだった。
詩帆はデッキチェアに改めて深く座り直し正面のフェンスの方を向くと、パーティーで自身の決意を表明した時よりもさらに重たそうに口を開いた。
「あの日ね、洋子さんに…、もうそろそろネックレスを返してほしいって、突然言われて…。」
「え…。」
「あぁでもそれは、いつまでも稜太に囚われずに、自分を大事にしてほしいっていう洋子さんなりの思いでもあったんだけど。」
稑も先ほど自身の自立を促すが故の章の突然の宣告にそれなりのショックを受けた。でも詩帆の場合はそんなことなど比べものにならないと、稑は詩帆の心情を察した。
「この先もずぅっと一緒にいるって思ってたから、もうビックリしちゃってさ。やっぱりどうしても…、離れがたくて…。でもね、その時稑が、背中を押してくれたんだよ?」
「え、僕が?」
「うん。『大丈夫。思いは消えない、消えるわけがない。』って。」
それは稑が詩帆の過去のすべてを知り、受け止めきれずにもがいていた時、哲夫を頼り自身が導き出した答えだった。
「そうだったそうだった、思いが無くならなければ、ずっと傍にいるんだって。そしたら、ネックレスを手放すことも、すぅって受け入れることができて。だから、"ありがとう"って。」
そう言って稑を見つめる詩帆の眼差しは、やはりあの時の優しく穏やかな笑顔だった。
「そっか…。」
稑は自分が役に立てていたことが嬉しい反面、詩帆と稜太の絆をさらに強めてしまったのかもしれないと思うと、何とも複雑な心境だった。しかしそんな稑とはほぼ真逆に、詩帆は嬉しそうに続けた。
「それにね、"ドンマイッ"も、ちゃんと聞こえたよ?」
「え?」
詩帆は俯いていた稑が顔を上げ目が合うと、またにぃっと笑った。
「それは長崎より少し前の、出張演奏で稜太の病院に行った時だよ。あの時は、状況も、精神状態も久々にいっぱいいっぱいで、その時の小さなミスが、取り返しのつかない大きなミスになりそうだったの。でもその時、確かに稑の声で"ドンマイッ!楽しもッ!"って背中を押してくれたの。」
「へぇ…。」
稑はぽかんとしていた。しかし長崎よりも前にさらにそんなことがあったことを知り、そして詩帆が尚も嬉しそうに話す様子に、稑は段々と口元が緩んでいった。しかし途中でハッと我に返り慌ててキュッと結んだ。
「それにね、」
「え、まだあるの??」
「うん…。」
いよいよ前のめりになってきた稑だったが、詩帆はそれ以降話すことを躊躇してしまい、悩みに悩んだ挙げ句、結局そのまま黙り込んでしまった。
「え…、ちょっと、何??」
詩帆はあの日出張演奏が終わった後の応接室で突然 実海に会うことになりいよいよ精神的に追い詰められてしまった時、心の中ではっきりと稑の名前を叫んだことを思い出していた。それからしばらくして詩帆は言った。
「とにかく!私は稑に、何度も救われたんだ。だから、」
そこまで言うと、詩帆は改めて稑を見つめて言った。
「ほんとにたくさん、ありがとう!!」
そこで詩帆は稑に今日一番の笑顔を見せた。その笑顔に、思わず稑は見惚れてしまった。




