第六話 GUILD MASTER
俺はこれまで世話になった執務室の掃除を終えて汗を拭った。
埃一つない部屋に満足してから熱いシャワーを浴びる。
冒険しない冒険者である俺にとっての戦闘服――パリッパリにのりを利かせたスーツに身を包み、呼吸を落ち着かせる。
『退職代行サービス課』の業務マニュアルを無事完成させ、新事業を部下と拡張してから幾ばくかの時間が過ぎた。
マリア様は産休中、アレックスも戦線へ復帰した。何度か経営が不安定になった冒険者ギルドも今では落ち着き、俺の仕事も一段落ついたと言えるだろう。
「ふぅ…………よっしゃ! 行くか!」
刻は来たれり。
これまでギルドマスターとして積み上げてきた成果をまとめた書類をバッグへ詰める。最も大事な封筒も胸ポケットに入っている。完璧だ……すべての準備が完璧に整った。
ただ、その表情があまりにも決意に満ちていたせいだろう。アンナちゃんが不安そうに顔を覗いてくる。
「どうしたです? 美術館に飾ってある戦国武将の銅像みたいな顔して……。もしかして、またぽんぽんいたいですか? ポーション飲む?」
一応気遣ってくれているらしい。
しかしなアンナちゃん……もうトイレなら済ませた!!
これから向かうのは、俺にとっての関ヶ原。
そのような些事に気を取られてはいられないのだよ。
「なあアンナちゃん、俺はやるぜ」
「?? 珍しく燃えてるですね。なにをやるです?」
「俺は……FIREする!」
「FIRE……? よくわかんないけど、その顔つきからしてカチコミですね。装備を取ってくるから待ってるですよ」
「ん? え、待ってどこ行くの」
最近、運動不足が続いていたせいか、わくわくした様子で隣の部屋へ駆けていった。
しばらくして、おめかし(フル武装)したアンナちゃんが戻ってくる。
「それで、今日はどこの悪党の隠れ家を焼き討ちするですか?」
「ちょっと生臭坊主に支配されたお寺をね……ってそんな物騒な話してないよ」
確かに行き先は廃寺院に潜む悪党、というか極悪外道ネクロマンサーの隠れ家であってるけど。
FIREとは『Financial Independence, Retire Early』の頭文字を取った略語。直訳するなら『経済的自立と早期退職』となる。
そう即ち、俺は今日これから―――
ファムに辞表を提出する!
毎日毎日、仕事のストレスと緊張が抜けなくて、目覚まし時計なしでも分単位で仮眠をできる体質になってしまった自分がいやだ。疲れたんだよ。もう我慢できないっ。
俺は田舎へ帰る。これからは毎日、畑の土と語り合うスローライフを送るんだ。
今日は何をしにおでかけするのか説明すると、ちいさなエルフさんは、呆れたようにながーい溜め息を吐いてから普段着になって戻ってきた。
「またですか~、ムダなことをしますねぇ」
「いやいや、さっきの衣装でいいよ! これから俺の人生をかけた決戦だよ!? アンナちゃんも気合い入れて行こうよ!」
「わたしはここでお留守番してるです。またファム様のえっちな誘惑に釣られておバカな契約しちゃだめですよ~。それじゃおやしゅみ~」
アンナちゃんは言うや否やスリープモードへ移行していた。
まぁ、今日はあくまでファムに辞表を受け取らせに行くのが目的で、バトル的な展開は無い――というか本当は最初からアンナちゃんを連れて行くつもりがなかった。……この子に引き留められても困るからな。
俺とファムは『互いに、ひとつ恩ができたらひとつ恩を返す』という呪術契約で結ばれている。
その際、恩の返し方を『ギルドマスターの代行』という形で向こうから指定されているため、俺は仮初めの地位に就き馬車馬の如く働き続けるしかなかった。
ここ二年近くは、仕事を辞めたいと口にせず大人しくしてきたが――実際、それまでは仕事を辞めようと交渉して幾度となくファムに蹴られている。
だが……今日の俺は一味違うぜ。
そのために『退職代行サービス課』なんてもんを作ったんだ。
「じゃあ……行ってくるよ、アンナちゃん」
「いってらっさ~むにゃむにゃ……」
実を言えば、俺はもうギルドへ帰ってこないだろう。
今回の決意は固い。
溜めてきた手札を全て使い、ファムとも冒険者とも縁を切る覚悟だ。
だからこれが今生の別れとなる……さらば相棒!
「………………ごめんな、お別れがこんな形になって。君が護衛……秘書に就いてからは、いろいろ無茶ができた。おかげで俺はやっと冒険者を辞められるよ、ありがとう」
俺はすやすやと寝息をかくアンナちゃんに毛布をかけて執務室を後にした。
「俺の辞表だ。受け取ってくれ」
「だめに決まってるでしょう」
びりびりびりっ――
軍服風の黒衣にタイトスカート、その上から白いローブを着たちょっとパンク入ってる美女。稀代の錬金術師にして鬼畜死霊術師ファムは、差し出した辞表を開きもせずに破り捨てた。
ファムは実験中毒の魔術師でアンナちゃん以上の引きこもりだった。俺に仕事を押しつけてからは隠れ工房から一切出てこない。自分の知識欲を満たすためだけに生きている、そんな女だ。
だから普段は使い魔で連絡を取っていて直接会うのは二年ぶり――だというのにマジで容赦ない。
もっとも、辞職が却下されることくらいこっちだって承知していたさ。
俺は懐から予備の辞表を取り出して再度テーブルへ叩きつける。
「あなた……なんでこんなもの二枚も書いてきてるのよ」
「なんならもっと出せるぜ?」
「はぁ、何枚あってもそんな紙切れムダなのに」
わかっている、それはその通りだ。
一度結ばれた呪術契約は必ず対象者に条件を履行させる。
ファムに恩がある手前、俺は働かざるを得ない。
「呪術については俺も調べた。授受される恩の量は当人の意識に依存するんだろ。ならファムがもういいと言えば済む話だ。ヒトのこと罠に嵌めたクセに要求がひどすぎるんだよ」
「それで……私が『もういい』なんて言うと思う?」
「もちろん言わないよな、アンタは」
「ふふ、じゃあ何をしに来たのかしら。私もヒマじゃないのよ?」
ファムは妖艶に嗤いながら脚を組み替える。
その時――
白……だと……? 意外だ、絶対黒か赤だと思ったのに。
俺の視線が一瞬ふとももまで下がったことを見逃さなかったファムは、人差し指を立てて唇に当てると投げキッスを飛ばしてきた。
……しかし、ファムの投げキッスなんて初めて見たな。
この女は意味のないサービスはしてくれない。
なら今の仕草の意味はなんだ。
まさか誘惑? 色仕掛けで俺の退職を引き留めようと?
いやちがう、契約がある以上そんな必要はない。
もしかして……今の指一本は、恩が一回カウントされたってことか?
自分からラッキースケベ誘発させといて、パンツ見えたらワンカウントってマジか。
俺の予想が当たっていると言う風に、ファムは妖しく微笑む。
まいったなこりゃ。
改めてファムと結ばされた呪術契約のクソさを認識し直した。
これじゃ今までにどれだけ恩がカウントされてるかわかったもんじゃない。
「こんなん、命を救われるまでもなく最初から俺に絶対不利な契約じゃねえかよ……。アンタ、やっぱり俺をゾンビ奴隷にするつもりだったんだな」
「やっと気づいたの? でも、死して尚、私に仕えられるなんて幸せじゃない? 防腐処理もしてあげるし、それでも肉が腐ったらスケルトンにしてあげる。骨が削れて粉になったら、魂だけ抜き取ってゴーストにしてあげる。永遠に私に尽くさせてあげるのよ?」
「……想定してたより更にヤバい女だったか」
ファムがワインの入ったグラスを持ち上げる。
すると、開かれた胸襟から見える胸の谷間が一段と深くなった。
そしてまた人差し指が立てられ――
「……は? 今のもワンカウントされるのか」
「あなたが勝手に私の胸元を見て、あなたの心が勝手に喜んだのよ」
くそが、この女エロすぎ……じゃなくてズルすぎんだろ。
ここにいるだけで俺はどんどん不利になっていく。
交渉の場では貴族すら騙してきた俺も、呪術の前では心を偽れない。
だけど、初めてファムに呪術契約の本質を説明された時に、この女の悪辣さはしっかり理解したはずだろう。
情に訴えてもムダだ、はやく交渉へ入らなくては。
バッグへ手を突っ込む。数十枚にわたる紙の束を取り出す。
これは俺がギルドマスターに就いてからどれほど業績がアップしたかを詳細に記した比較資料だ。これが、いつかギルドマスターの座へ返り咲き、俺の功績をそのまま引き継ぐであろうファムへの恩返しとなる。そういう契約だ。
「……アマカス・タクミ……本当に優秀ね。欲しい、もっと欲しいわぁ。でも……不思議ね、どうしてなのかしら……」
ファムは心底理解できないといった視線を向けてくる。
自信過剰なマッドサイエンティスト様は、本気で俺に自分の下で死ぬまで働けることを喜ぶべきだと思っているらしい。
でもな、アンタと出会ってから十年も経ってんだ。ガキの頃は美人でえっちなお姉さんにコロっと騙されたけど、俺も成長してんだぜ。……さっきのチラリズムは不意打ちだからノーカンだ。
「ねぇ、タクミ。教えてほしいのだけど……」
「……なんだよ」
「あなたはどうして貴族でもないのに貴族以上の教養を持っているの? 長く生きてきた私でもそんな名づけの特徴は聞いたことがない。出身地すらわからない辺境の子に、どうしてこんな仕事ができるのかしら。わからないの、私はあなたを理解したいの。だから一度、その頭蓋を切り開いて中を見せてほしいのだけど…………だめ?」
「ダメに決まってんだろ。発想が怖えっつの」
外見だけは最高にイイ女なのに、こうしてしゃべっていると恐怖で背筋がぞくぞくする。
ただし……呪術契約には、俺とファムは『互いは悪意を以って攻撃できない』という副作用が含まれている。そのおかげで、俺はファムにどんな暴言を吐いても『取り立て期限』まで手を出されないで済んでいる。よって契約の完全解除までは求めない。
「どうしても? ゾンビにしちゃうとポーションも治癒魔法も効かなくなるのよ」
「…………ホムンクルス作ったり覚醒下で脳外手術しようとしたり、マジで未来を生きてんなアンタ。錬金術師ってより魔導工学博士って感じだわ」
「あら! いいわねぇその名前。これからは魔導工学のプロフェッサー・ファムって名乗ろうかしら」
ファムは資料を読みながら嬉しそうに笑う。
「うふふっ……私の言うことを説明も受けずに理解できるのもタクミだけなのよねぇ……ねえ、私のカラダを抱かせてあげるから、ほんとに脳みそ見せてくれない?」
「だから脳みそクチュクチュから離れろ」
「なんならタクミが満足するまで愛人になってあげてもいいわよ?」
「マッ!? …………いやそういう問題じゃねえ!」
あ、あぶねえ、今のは本気で流されるところだった。
ファム、なんて恐ろしい魔女だ。
自分の魅力を活かす方法を熟知している。
俺は両手でバッテンを作って断固拒否をアピールする。
すると、ファムも渡した資料をテーブルへ投げる。
これでは恩が釣り合わないと再び俺の辞表を破り捨てた。
即座に新しい辞表を提出する。
「……それ意味ないわよ?」
「もちろん辞表以外にもまだある」
ここ二年近く、何のために俺が善人面しておとなしくしていたと思ってる。
次に出した資料は完全部外秘。
俺が『退職代行サービス』を利用して密かに集めた冒険者・商人・貴族・軍・教会・王族の内部情報だ。中には決して表に出せないような個人の性癖や国家の重要機密まで含まれる。
孤独で弱っている人間ほど、信頼できる相手ができると口が軽くなるものだ。おかげで情報収集はいろんな組織のかなり深いところまで探れた。
「アンタがこの情報を持てば、もう誰もギルドに逆らえない。グランドマスターも王都支部へ何も言えなくなるだろう」
「へぇ、確かに私の天下が近づいてきたわね。ようやく私の崇高な実験の邪魔をする者達を一掃できる……でもまだ全然足りないわよ?」
「全然って、おい嘘だろ」
「あなた……私のおかげで何回命を拾ったかわかってるの?」
とりあえず、両手の指じゃまったく足りないのは事実だ。
そしてまた辞表がファムに破かれ、俺は新しい辞表を叩きつける。
「……このやり取り意味ある?」
「話が終わってないのにファムが破くからだろ」
「ふーん、まだあるの。次はどんな話を聞かせてくれるのかしら」
もちろんあるにはある。
それはこれから先に起こる話だ。
俺はファムの利益になる未来の情報を恩返しとして提供する。
「そこに書いてある『退職代行サービス課』だが……欠陥部署だ。今後必ず不利益を起こす。俺が辞めた後、その問題をファムが解決しろ」
「……え!? 待ちなさい、それあなたが始めたものでしょ? なんで欠陥があるのよ」
「そうなるように仕組んだからだ」
退職代行サービスの利用者について俺は思っていたことがある。
はっきり言おう。
なんて甘ったれたものを使おうとしているのかと。
世の中には、自殺するまで追い詰められてしまう人間や無茶な働き方をして体を壊して死んでしまうような人も確かにいる。だが、退職代行サービスを利用していいのはそういう人間に限定した方がいい。
人はいとも簡単に堕落する。
自分を憐れむことで不幸に慣れ親しみ、いつしか被害者という弱者の立場を利用し、不幸を悪用するようになる。それが自分の権利なのだと、傷ついた人の特権なのだと、自分はこのままでいいのだと、自分を甘やかすのが癖になる。
「一部を除き、俺はそこを敢えて過剰なくらい訪れた利用者を甘やかしてきた。もっと自分勝手に生きていいんだ、と」
本来、仕事とは簡単にやめていいものじゃない。
それでは何も得られない。
『最初から自分の人生には何も期待していない』、『俺は太く短く生きるんだ』、『今を楽しめればそれでいい』、『どうにもならなくなったら自殺すればそれで済む』なんて短絡的な人種でもなければ、人は死ぬ三歩手前くらいまで頑張るべきだ。
ちなみに前世での経験上、ガチの二歩手前だと既に引き返すのに必要な判断力を失っている可能性があるからおすすめしない。
俺は退職代行サービスでみんなに『気持ちを軽くしてくれる自分にとって都合の良い言葉』を吹き込んできた。
彼らはその言葉が癖になっている。
もちろん俺の言葉を糧に成長できた人もいるだろう。
だが中には『頑張るべき時に本気で頑張れない』、『頑張るべき時が判断できなくなってしまった』なんて人が必ず出てくる。その内に、そうした人間が社会問題となって一気に噴き出すはずだ。
俺はそういう雰囲気のある利用者を全員チェックして、今後どう対応するべきか――支援プログラムまで完璧に作っておいた。
「俺の言葉に依存していた彼らは、次に俺を否定し、そして今度はまた拾い上げるファムに依存するようになるだろう。新しい訓練兵の出来上がりだ。自己肯定できない依存癖のある支持者は便利だぞ」
「なんなのよ、その洗脳技術……」
俺が提示したのは、ゾンビ奴隷ではなく個人を崇拝するカルト信者の作り方だった。
しかも合法でリサイクル可。
「……アンネローゼが遊びに来た時、あなたのことを『言葉の悪魔』と呼んでいたのだけど……本当に悪魔なの? 実は世界の裏側で神々と対立とかしてるの? 普通の人間が考えることじゃないわよ」
「ンなわけあるか。世の中には、利用されても、搾取されても、強い誰かを頼って生きた方が幸せになれる弱い人間ってのがいる……それを知っていただけさ」
俺は凡人だ。
だからいつだって良い事も悪い事も思いつく。
時にはイイ人、時には小悪党……その程度だ。
悪魔だなんて偏った存在にはなれやしない。
というか……現在進行形で俺をゾンビ奴隷にしようとしてる外道ネクロマンサーに、悪魔とか言われたくねえ!!!
「ずっと仕事を辞めたがってた人のセリフとは思えないわ」
「勘違いするな。俺は仕事をしたくなかったんじゃない。いい環境で気持ち良く働きたかったんだ。ファムがまともな労働環境を用意していたら、今も喜んで働いていたさ」
「……そうか、あなたって根っからの労働者なのね」
「そうだ、しかし断じて社畜ではない!」
「その違いがわからないのよねぇ……」
これだからファムの下では働けないんだよ。
で、これでようやく届いただろうと確認してみると――
「きっぱり半分ってところね」
「まだ半分!? もう出し尽くしたぞ!?」
「ん~いえ、そうねぇ、タクミの言う通り……半分よりは少し多く返してもらったかしら。そのくらいは認めてあげるわ、うふふふ」
これで半分と少しって、俺の命の価値どんだけ高いんだよ。
それとも救われた回数が多すぎるのか? ファムの野郎にはいつもおだてられて乗せられて……無茶な冒険ばっかしてたからな……どれくらい恩が積み重なってるのか測りかねていた。
「く、くくく、そうか、それでも……あはははははッ」
だがファムの言葉を聞いて、俺は笑い声を抑えきれなかった。
言ったな。
確かに聞いたぞ。
半分だ、ついに俺の返した恩が半分を超えたんだ!
「……あなたわかってる? 半分って全然足りてないって意味よ? それとも働きすぎておかしくなっちゃった?」
ファムは俺の笑う理由がわからなかったようだ。
俺の弾は撃ち尽くした。
俺がギルドマスターになってから行った仕事は全てファムに説明した。
それは本当だ。
しかし、ファムは気づいていない。
俺にはファムに知られていない秘密があることを。
用意してきた辞表を再び取り出す。
「最後の一枚だ。ちゃんと受け取ってくれよ」
「だからまだ契約が傾いているのに受け取れな……え? な、なんで手が勝手に……」
白い指先が丁寧に封筒を掴む。
ファムは無意識に、差し出された辞表を受け取っていた。
本当に半分以上の恩は返せていたようだな。
「ソレを受け取らされる意味はわかるだろ?」
「待って、ちがうそんな、どうして……計算が合わないわ!」
ファムは呪術によって体を動かされた。
呪いは俺はでなくファムの不利に働いた。
つまり今、呪術契約によってやり取りされる恩の量は『俺に傾いている』。
半分返すどころじゃない、俺が上回っているのだ。
「一体なにをしたの!?」
「さっき、俺も呪術について勉強したと言ったろ。呪術の契約には正しい『名前』が必要なんだよな」
「だからどういうことよ!」
「『恩には恩を』この呪術契約はファム・ディエロ・サローメとアマカス・タクミの間で結ばれたものだ。しかし……そもそも俺はアマカス・タクミじゃねえ!」
アマカス・タクミ――漢字で書くと甘粕拓海。
日本人ならば当てはまる漢字がある時点でわかることだが、これは前世の親からもらった名前だ。
当然の話、転生者である俺には今世での親からもらった新しい名前があるわけで。そしてもう一つ言うと、俺は故郷を出てから今世の名を誰にも明かしていない。ずっと偽名で活動してきた。
「嘘よ! 偽名で呪術契約を結べるわけがないもの!」
「厳密に言うと『アマカス・タクミでもある』ってとこか。俺は名前を二つ持っている。だからファムの呪術契約は、最初から俺の魂の半分しか縛れていなかったってわけだ。ハハハハッ」
「嘘よ嘘ッ! 魂に刻まれた名前が二つある人間なんているはずないッ!!」
これは約十年前、俺が冒険者になると決めて故郷を出た時――
『やべぇな~、俺転生者だし、きっとチートですぐ世界最強になっちまうんだろうな~。無双して伝説作っちまうな~』
転生して二度目の少年時代を迎えた俺は、ちょっと頭のかわいそうな子に見えるくらい調子に乗っていた。
子供の頃は天才とか神童とか呼ばれていた時期もあったんだ……。そのせいもあって、俺は自分の非才も知らず、どんなに頑張っても自力じゃ最低ランクから一つも上がれないとも知らず、どこまでも根拠のない自信を胸に抱いていた。完全に痛いクソガキだった。
そしてさらには、
『あれ? もしかして俺が活躍して有名になると、危ないやつに家族が人質に取られたりすることもあんのかな? そういう事件よくあるもんな。……あと転生者ってことも隠した方がいいよな。俺以外にも転生者がいてそいつが悪さしてたら、同じ転生者ってだけで捕まるかもしれない……。もう家族には話しちゃったけど、今後は誰にも話さんとこ!』
……などと要らん心配をして、偽名を使い、『転生者』という俺の秘密を知る家族の下へ誰も辿り着けないよう故郷を隠すことにした。
あの頃は呪術なんてものは知りもしなかったし、まさか将来こんなことになるとは思っていなかったけど……昔の俺グッジョブ!
「さっき『最初から俺が絶対不利な契約』と言ったな。アレは嘘だ!」
俺は再度、声を張り上げて笑う。
呪術契約の形式上、俺は恩を受け取る『受け皿』を半分しか渡していなかった。しかし、俺はファムのたった一つの名前と契約を結んだ。俺はファムからの恩を半分で済ませられるのに、俺の行為は100%すべてファムへ還元される。
「本当は圧倒的に俺に有利な契約だったんだよォ!」
「くぅぅ……まだ百年も生きていないような餓鬼にぃ……この私がぁ……謀られたですってぇ……」
「いや、俺はなんもしてねえだろ。アンタが勝手にドツボへ落ちたんだ」
ルージュの引かれた唇は歪められ、持っていたワイングラスが砕け散った。床に落ちたワインが血だまりのように広がっていく。
ヒステリー女マジこっわ。
でも……油断してくれてありがとうよ、傲慢なりし悪徳の魔女様。
こいつは、俺みたいな雑魚に抵抗されようと、どうにでもできると侮ったアンタのツケだぜ。
もっとも、本当は『二対一』という破格の条件だったのに、俺とファムでは実力差がありすぎて逆転するのに何年もかかってしまった。
しかし、やっとこれまでの奴隷のような日々が報われた。
ざまぁみやがれ、ドS鬼畜女が。
さてと、何年も俺をこき使ってきたファムのヒステリーをもう少し眺めていたい所だが――長居をするとまたどんな恩を着せられるかわかったもんじゃない。恩の量が俺へ傾いて呪いから解放されている内に、王都から脱出しよっと。
「今を以ってギルドマスターは辞めさせてもらう。じゃあな」
「待ちなさいっ! 逃がさないわよ!」
「はははっ、違うだろ。俺達の間で命令をできるのは『恩人側』だけだ。ファム、俺に恩を返したければ――俺を追うな。俺を探すな。俺を利用しようとするな。あとは……そうだな、これからは危ない実験はやめて、世のため人のために働け」
何を恩返しとするか、俺は呪詛で指定してファムをテーブルに縛りつけた。
そして、ファムの仕返しが怖いから呪術契約は残しておく。
間違いない……今度こそミッションコンプリートだぜ。
ファムの隠れ家を出て、青空を見上げる。
ぽつぽつと天気雨が降ってきた。
またしても俺を嫌う水神様のいやがらせ……だけど、今日だけは頬を伝う雨が神様の祝福に感じられた。
「俺は……俺は自由だァ! 自由だぞおおおおおおおぉ!!」
神様に届くくらい声を張り上げて叫ぶ。
「無職ばんざああああああああああぁい!!!」
さあ、十年ぶりの実家へ帰ろう。
故郷の土とスローライフが俺を待っている!
作者が自分の働いてる職場がブラックだと感じた瞬間シリーズ!
第二位
人を××ように命令された時
そりゃ逃げるでしょ




