記憶のかけら:くちなしの庭で
その日は、なぜか学校が早く終わった。
学級閉鎖とか、先生の会議とか、そういう理由だったかもしれないけれど、もうはっきりとは覚えていない。
ただ、あの日の空気の匂いだけは、ずっと覚えている。
家に帰ってランドセルを放り出し、いつものように裏庭へまわる。
母の植えたくちなしの木がちょうど花を咲かせていて、風が吹くたびにふわっと香りが広がった。
あの香りは、いまも“記憶”という言葉と一緒に胸に残っている。
「……あ。いた」
ふと振り返ると、彼女がいた。
アイリは、いつの間にかそこにいた。
この頃にはもう、会う約束なんてしなくなっていた。
それでも、気づくと同じ場所にいた。
同じ時間に、同じ空気を吸っていた。
たぶん、あれが“奇跡”というものの正体だったんじゃないかと思う。
彼女はくちなしの花を一輪、そっと手に取って、言った。
「この花、声がする」
俺は首をかしげた。
「え、香りのことじゃなくて?」
「ううん。ちゃんと“声”があるよ。
今日は……『やさしくしてくれてありがとう』って言ってる」
そう言って、ふふっと笑った。
そのとき、風が吹いた。
カーテンみたいにそよぐ木の葉の影が、足元にゆれていた。
木洩れ陽が水たまりに反射して、小さな虹ができていた。
鳥がひと鳴きして、どこか遠くの洗濯機が回る音が微かに聞こえてきた。
すべてが静かだった。
でも、何もかもが生きている気がした。
目に映る全てのことが、たしかに“何かを伝えよう”としているような――
そんな、不思議な午後だった。
「リュカくんは?」
「え?」
「今日の風、なんて言ってると思う?」
答えに迷って、俺はしばらく空を見上げた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……『また、ここで会えてよかった』って」
アイリはまた笑って、花を耳にそっと挿した。
その仕草が、どうしようもなく“好き”だった。
それを自分で自覚するには、まだ少しだけ子どもだった。