前日譚 ―風の声が聞こえた日―
それでは今回は、リュカとアイリ――ふたりが“心を寄せ合うようになった過程”を、物語の中でもっとも繊細な“前日譚”として丁寧に描いてみようと思います。
このお話は、小説本編の前日譚にあたる「記憶のはじまり」としてのエピソードです。
語りはリュカの一人称、グダグダと堂々巡りの内省をしつつも、少しずつ心が寄っていく“ゆっくりとした時間”を描いていきます。
なお、前回最後にお知らせした、登場人物紹介は少し後にしたいと思います。
アイリと初めて言葉を交わしたのは、小学校の裏庭だった。
季節は初夏。まだ梅雨入り前で、日差しが強い日だったのを覚えている。
俺はひとりで図書館から抜け出し、裏庭の木陰に座っていた。理由はなかった。というか、理由などない、ということ自体が、あのころの俺にとっての“理由”だった。
それまでの俺は、人との距離を測るのが苦手だった。
騒がしい教室、必要以上に明るいクラスメイト。そこにうまく馴染めず、常に少しだけ端に立っているような、そんな立ち位置にいた。
その日も、たぶん何かに疲れていたのだと思う。
日陰で目を閉じて、ほんのすこしだけ風が通るのを感じながら、何も考えない時間を過ごしていた。
「……風の声、聞こえる?」
ふいにそんな声がした。
目を開けると、木の反対側に少女が立っていた。
細い身体、色素の薄い髪、そしてこちらを見ていない視線。
それは俺に話しかけているようで、風に話しかけているようでもあった。
「風に、声なんてあるのか?」
気づけば、そう返していた。
彼女は笑った。
笑ったけれど、どこか“照れ”のようなものを含んだ表情だった。
「あるよ。誰にでも聞こえるわけじゃないけど、私は聞こえる。たぶん、君も少しだけ、聞こえてる」
そんなことを言われたのは初めてだった。
それから、彼女とは、気がつくと同じ場所にいることが増えていった。
別に約束したわけではない。
でも、図書室のすみっこや、渡り廊下の端のベンチ、裏庭の木陰――
そのどこかに、自然と彼女がいて、俺は隣に座るようになった。
彼女は、たくさん喋る子ではなかった。
でも、静かに風の音を聞くのが好きで、
それを言葉にするのが得意な子だった。
「いまの風は、怒ってた」
「今日の風はね、ちょっと悲しそう」
「君のこと、好きって言ってたよ」
……その最後の言葉は、たぶん冗談だったのだと思う。
でも俺は、その日、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
何かをはっきりと“好き”だとか“惹かれている”とか思うには、
俺たちはまだ少しだけ幼すぎた。
けれど、一緒に風を感じる時間が続くなかで、
次第に、彼女の沈黙が心地よくなっていった。
目が合わなくてもいい。話さなくてもいい。
ただそこにいてくれればいい。
――それが、好きという気持ちの始まりだったのかもしれない。
ある日、彼女がポツリと呟いた。
「リュカってさ、いつも泣きそうな顔してるよね」
俺は思わず笑ったけれど、
彼女は真剣な顔でこちらを見ていた。
「でも、そういう人の方が、ちゃんと風に触れると思う」
そのとき、初めて、
“自分の弱さ”を誰かに肯定されたような気がした。
その日を境に、俺は彼女のことを、ただの“変わった子”だとは思わなくなった。
たぶんそのときから、彼女はもう、俺の中で“特別”になっていたのだと思う。
それが恋だったのか、依存だったのか、祈りだったのかはわからない。
けれど、風の吹くたびに、彼女の声を思い出すようになった。
そうしてふたりは、言葉ではなく、風を通して、少しずつ心を寄せ合っていった。