第六章 触れられないものの輪郭
今回はふたりの“再会”を描く章に進みます。
時間というものは、ときに質量を持つ。
それは人の記憶に沈殿し、言葉にできなかった感情のまわりに静かに堆積して、
やがてそれ自体が“言い訳”に変わる。
――十年。
あのとき言えなかったこと、言おうとしなかったこと、
見て見ぬふりをしてきたこと。
その全部を、俺は「時のせい」にしてきた。
だが、いま目の前にいる彼女は、
その十年の時間すら、優しく包み込むように立っていた。
「……変わらないね」
それは、最初に出た俺の言葉だった。
何が“変わらない”のか。
姿かたちのことを言ったのか、声の響きのことか、あるいは――
それ以上の、もっと形にならない何かのことか。
彼女は笑った。
それは“懐かしい”という言葉すら追いつけないほどに、
ひとつの時代をまるごと封じ込めたような笑みだった。
「リュカのほうこそ。
なんでもないふりをして、全部背負うくせ、まだ治ってないんだね」
息が、少しだけ詰まった。
なにかを説明しようとすればするほど、
言葉というものは“嘘”に近づいていく。
本当に言いたかったことは、いつも口の奥に沈んだまま、
「また今度」「いまじゃない」と先送りにされて、
気づけば、言えないままになる。
あの日の俺も、そうだった。
風のように掴めなくなった彼女を前に、
何も言えなかった。
ただ、泣きそうな顔で――ただ、立ち尽くしていた。
「ほんとは、言いたかったんだ」
俺は、やっとの思いで声を出した。
「ずっと、君のこと――」
言葉が詰まった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
十年分の沈黙が、喉の奥で渦を巻いている。
それでも。
「……ずっと、君を愛してた」
言った瞬間、
どこかで風が、ふっと鳴った気がした。
「うん。知ってたよ」
アイリは、何でもないことのように、そう言った。
けれど、その声はほんの少しだけ震えていた。
「わたしも――ね。
ずっと、リュカのことを風の中から見てたの。
でも、それはもう、“人間”の時間とはちがうところにあって。
……もう戻れないの」
その言葉に、俺は強く頷いた。
悲しい、というより、受け入れるしかなかった。
それでも、いまこの瞬間、彼女と向き合えていることが、
たまらなく、救いだった。
「じゃあ、さよならを言わなきゃいけないのか?」
アイリは首を振った。
「ちがうよ。さよならじゃない。だって――」
風が吹いた。
その風に乗って、彼女の輪郭が淡く揺らぐ。
「どんな時も、そばにいるから」
ふたりのあいだに、光が降る。
まるで記憶の粒が、宙に浮かんでいるようだった。
俺は、手を伸ばした。
触れられるかもしれない、という希望と、
触れられないとわかっている絶望のあいだで、
それでも、指先が、静かに空をかいた。
――その風の中に、確かに、彼女の温度があった気がした。
次章は、物語の“帰還”。
風の門から戻った彼の心に残るもの、
そして“これからを生きる”ということについての、静かな余韻を描いていきます。