第五章 風の門のほとりで
いよいよ物語は、現実の皮膚を剥いで、その下に隠された“記憶の断層”へと踏み込んでいきます。
「風の門」と呼ばれるものが、本当に門のかたちをしているとは限らない――
そんな思いが、祠の奥へと進むにつれて、次第に確信めいてきた。
そこにあったのは、ただの“空間”だった。
どこまでも灰色で、遠近感も温度も失われた、空洞のような場所。
壁も床もなく、ただ足元にだけ、踏みしめた感触がある。
耳鳴りのような静寂。
目を閉じれば、むしろ何かが見えるような錯覚。
時間の感覚すら不確かになって、思考だけがやけに冴えていく。
そして、風が吹いた。
あれは風と呼んでいいものだったのかすら、いまもわからない。
空気が撫でるのではなく、
“記憶”がこちらに流れ込んでくる感覚。
最初に浮かんだのは、小さな手だった。
指先がやけに冷たくて、でもやわらかくて。
次に見えたのは、砂埃の舞う校庭と、
夕焼けの匂いを吸い込んだアイリの横顔。
「……リュカ、君ってさ、ずっと泣きそうな顔してるよね」
「あのとき、言われたっけな」
不意に口から漏れたその言葉に、風が返事をするように、微かに鳴った。
記憶が次々に流れ込んでくる。
順序も前後もなく、ただ“情緒”だけが連続している。
声。温度。匂い。喉の奥が苦しくなるような甘さ。
そのすべてが、断片的で、でもやけにリアルだった。
――なぜ、あのとき手を離したのか。
なぜ、あのときもう一歩を踏み出せなかったのか。
「大切だから」「傷つけたくなくて」――そんな言葉では誤魔化しきれない臆病さが、あの頃の自分には確かにあった。
俺は彼女を「守りたい」と言いながら、
実際には、自分の弱さを守っていたのだ。
その事実が、十年遅れて、やっと自分の中に降りてきた。
そして、その風のなかに、確かに“アイリ”がいた。
最初は、気配だった。
次に、足音。
そして、記憶の風景のなかに、ひとつの影が立ち上がる。
銀色の髪。風にほどけるような輪郭。
それは、記憶のなかよりも、ずっと“生きている”気がした。
「……リュカ?」
名を呼ばれた瞬間、心臓が一度止まった。
いや、止まったのではない。ただ、“動くのを忘れた”だけだ。
それくらい、その声は、あまりにも懐かしく、あまりにも現実だった。
「……アイリ、なのか?」
問いかけると、彼女は小さく笑った。
それは、十年前とまったく変わらない笑顔だった。
「ずっと、見てたよ。風のなかで。
笑ってるときも、迷ってるときも、泣きそうなときも。
――そばにいたんだよ」
その言葉が、心の奥に染み込んでいく。
なにもかもが、もう手遅れだと思っていた。
だけど、風は消えてなどいなかった。
風は、ずっと――吹いていたのだ。
次章はいよいよ再会の頂点へ。
ふたりが言葉を交わし、触れられそうで触れられない“魂の重なり”の瞬間を描いていきます。
そして物語は、再び現実世界へと静かに戻っていきます。
ここからは語りもさらに余白を増しつつ、“くどくどの密度”も最高潮になっていく予定です。