第四章 月の夜と祠の記憶
第四章「月の夜と祠の記憶」、始めてまいります。
月が欠ける夜というのは、なぜあんなにも、空気の温度が変わるのだろうか。
気象的な根拠はきっとあるのだろうが、そんなことはどうでもよくて――
とにかく、あの晩の街は、ふだんと何かが違っていた。
ざわめきがなかった。
人の声も、車の音も、遠くのテレビの喧騒さえも消えていて、ただ風だけが静かに通り過ぎていく。
ああ、こういう夜に人は“向こう側”に行ってしまうのだと、妙に納得してしまうような、そんな夜だった。
森の祠は、地図にも載っていない。
いや、昔は載っていたのかもしれないが、都市開発やら災害復興やらで、そういう小さな“場”は次第に記録からもれはじめる。
それでも、俺にはわかった。
子供のころ、アイリと“探検ごっこ”と称して入り込んだ、あの森の奥だ。
彼女が「ここは何かがいる」と言って、真顔で空を見上げたあの場所。
木々は朽ち、道は枯葉で覆われていた。
だが、祠は残っていた。誰にも忘れられ、誰にも荒らされないまま、まるで時間から隔離されたように、そこにぽつんと佇んでいた。
中に入ると、妙な香りがした。
線香でも樹脂でもない、もう少し“記憶に近い匂い”――
古い教室の引き出しから出てきた写真。雨で濡れた昔の制服。そんなものに染みついた気配に似ている。
祭壇のようなものがあり、その上に一冊のノートが置かれていた。
開くと、そこにはこう書かれていた。
> “ようこそ。
> 記憶をなくした者よ。
> あるいは、記憶を手放せなかった者よ。”
……俺は、後者だろう。
だが、この言葉に、心の奥がわずかに揺れたのを感じた。
ノートには、続きがあった。
> “風の門は、時の裂け目ではなく、心の隙間にある。
> その隙間を見つけるには、もう一度――
> 失くしたものと、正面から向き合わなければならない。”
正面から、向き合う。
それは、つまり。
あの日、アイリが消えていった瞬間。
俺が手を伸ばせなかった“理由”と向き合う、ということなのだろう。
気がつけば、外の風が止んでいた。
代わりに、祠の中に“内側から吹くような風”が、ほのかに満ちていた。
何かが、こちらを見ているような気配。だが、怖くはなかった。
祠の奥、ふすまのような仕切りの向こうに、かすかに光が差していた。
光というより、それは“気配のかたち”だった。
俺はその前に立ち、深く息を吸った。
心のなかで、何かが鳴った気がした。鈴の音。遠い風の音。
「……行こう」
呟いたその声が、自分のものかどうかすら曖昧なまま、俺はゆっくりと、祠の奥へと足を踏み入れた。
この章をもって、現実の風景は“記憶の層”と接続し始めます。
次章では、いよいよ**「風の門」の“入口”としての異界体験**、そしてアイリとの記憶がよりくっきりと再浮上していきます。
語りもさらに回りくどく、比喩的な密度も増していく予定です。