第三章 風の兆しと記憶のゆらぎ
それでは、第三章「風の兆しと記憶のゆらぎ」、じわじわと現実のほころびに幻想が差し込んでくる回、始めていきます。
あの日から、風の音が変わった気がする。
いや、正確には、“変わった気がする気がする”という曖昧さがずっとつきまとっている。
自分でも何を言っているのかわからないが、たぶんそれが正しい。
俺はしばらくの間、丘に通うようになった。
夕暮れの光がやわらかく落ちて、空が翡翠色に染まる時間帯。
その瞬間だけ、あの場所が異なる空気に包まれる気がするのだ。
最初は気のせいだと思っていた。
いや、本当はそうであってほしかった。
だが、何度も何度も通っているうちに、いくつかの“ありえないこと”が重なっていった。
まず、“風が鳴く”のだ。
昔からの言い伝えではあったが、今まではそんな音を聞いたことがなかった。
ところがある日、丘の上で立ち止まっていたとき、不意に――
チリン、と。
風鈴のような、でももっと低く、柔らかく、長く尾を引く音が聞こえた。
俺は反射的に辺りを見回した。
もちろん、鈴などどこにもない。誰もいない。
なのに、胸の奥がやけにざわめいて、息が苦しくなるほどだった。
そして、その音とともに、記憶が――ノイズ混じりのフィルムのような映像が――脳裏に差し込んできた。
細い手。風になびく銀色の髪。
夕日を背に、こちらを振り向く少女の輪郭。
彼女は、確かにそこに“いた”ような気がした。
この“気がする”という感覚ほど、扱いに困るものはない。
記憶と幻覚と妄想と、そして願望。そのすべてが、同じ場所に折り重なっている。
だからこそ、人はそれに縋る。
それが“もう一度会いたい”という類の感情であればなおさらだ。
俺はその日から、風の音を記録しはじめた。
ボイスレコーダーを持っていき、風の通る方向、時間、気圧、温度――なんとなく関係ありそうな要素はすべてノートに記した。
……と、自分でもここまでくると気づいてしまう。
完全に、執着だ。
だが、人間は理屈よりも、“引っかかり”で動く生き物だ。
ほんの小さな棘が、心の奥のどこかに刺さっている。
それを抜くためには、痛みをもう一度引き受けなければならない。
たとえそれが、過去の記憶を穿り返す行為だったとしても。
たとえそれが、俺自身が壊れることに繋がるとしても。
そしてある日。
いつも通り丘へ向かう途中、古びた掲示板に一枚の紙が貼られているのを見つけた。
手書きの文字。色褪せたインク。下手な筆致。
> “風の門を探している人へ。
> 記憶の鍵がある場所を知っています。
> 会いたいなら、森の祠へ。
> 月が欠ける夜に。”
冗談のような、それでいて奇妙に俺の“中心”を突いてくる文面だった。
俺はその場に立ち尽くし、紙をはがすでもなく、ただ風に揺れるのを見ていた。
誰かが俺を見ている気がした。
けれど振り返っても、そこには、いつも通りの静かな街並みがあるだけだった。
次章はいよいよ“祠”との邂逅、そしてはじめて“門の気配”に触れる瞬間へと進みます。
ここから幻想の輪郭が少しずつ立ち上がり、同時にリュカの語りはさらに“くどくど”度を増していきます。