第二章 死者と生者の境界
私は、彼女と共に暮らし始めた。
もちろん、これは「同居」などという安易な関係ではない。彼女――つまり、ゾンビ化した少女は、私の存在を完全には認識していないらしい。しかし、完全に無関心というわけでもない。
時折、彼女は「うー……あー……」と低く呻くような声を発する。
それは、言葉というにはあまりに単調で、意味をなさない音だった。
だが、それでもなお、私は彼女の発声に何かしらの意図があるのではないかと考えた。
ゾンビとは通常、無秩序に咆哮するものだ。それは、腹を空かせた獣の唸り声にも似ている。しかし、彼女のそれは、どこか違った。まるで、言葉を忘れた人間が、必死に何かを伝えようとしているかのようだった。
もっとも、それは私の単なる思い込みかもしれない。
私は、観察を始めた。
1 死者の観察
ゾンビとの共生において、最も重要なのは**「距離感」**である。
生者がゾンビと接触するという行為は、常に危険を伴う。彼らは、基本的には生きた肉を貪るために存在している。従って、不用意に近づけば、噛みつかれる危険がある。
私は慎重に、彼女との間に一定の距離を保ちつつ、彼女の日常的な行動を記録することにした。
彼女の動きは、基本的に緩慢である。
まるで、どこへ向かうべきか分からない幽霊のように、ゆっくりと部屋の中を徘徊する。その歩みは不規則だが、完全にランダムというわけでもない。一定の範囲内で、あるパターンに従って動いているようだった。
時折、彼女は静止する。
まるで、思考しているかのように、長い沈黙を挟むのだ。
その間、私はじっと息を潜める。
彼女は、ゆっくりと首を傾げるような仕草をすることがある。その瞬間、私はまるで彼女の視線が私を追っているかのような錯覚を覚えた。
だが、それは恐らく錯覚に過ぎない。
彼女は私を狙っていない。
私を獲物として認識していない。
私は、それが何を意味するのかを考えた。
2 静かなる日常
奇妙なことに、私は次第にこの異常な状況に慣れていった。
彼女が室内にいることは、当初こそ緊張を強いるものであったが、時間が経つにつれ、それは一種の日常と化していったのだ。
私は、彼女の行動パターンを記録することで、ある種の「安心感」を得ていたのかもしれない。
彼女は、ほとんどの場合、室内を歩き回る。
しかし、ときおり動きを止めることがある。
そのとき、私は息を潜め、彼女が次に何をするのかを観察した。
そして、ある日、私は気が付いた。
彼女は時折、特定の場所で立ち止まるのだ。
それは、私の家の中で、明らかに彼女とは関係のない場所であった。
たとえば、窓際。
彼女はそこに立ち、ぼんやりと外を眺めるような仕草をする。
ゾンビにとって、景色を眺めるという行動には何の意味もないはずだ。しかし、彼女は確かに、何かを見ているようだった。
それは、何かを思い出そうとする人間の仕草に似ていた。
3 彼女の存在の意味
私は、考えた。
彼女は、他のゾンビとは違う。
それは間違いなかった。
だが、それはなぜか?
彼女が特別な個体だからか?
それとも、ゾンビの中には、彼女のように「思考の断片を持つ者」が一定数存在しているのか?
私は、彼女が何者なのかを知りたくなった。
彼女が何を思い、なぜこの部屋にとどまり続けているのかを。
彼女は、なぜ私を襲わないのか。
その疑問が、私の中で膨らんでいった。
4 握りしめたもの
そして、ある日。
私は、ふとした瞬間に彼女の右手に何かが握られていることに気がついた。
それは、小さな物体だった。
彼女は、それを握りしめたまま、ずっと離そうとしなかった。
私は、それが何なのかを確かめたくなった。
――彼女は、何を握っているのか?
それは、彼女が生者だった頃の記憶に関係するものなのか?
私は、じっと彼女の手元を見つめた。
そして、次の瞬間。
彼女の指が、わずかに動いた。
まるで、それを守るように――