第一章 死者の住まう家
それは、ひどく静かな夜であった。
いや、訂正しよう。「静か」という表現は、余りに不正確である。むしろ、この都市の夜は異様なまでに音が欠落していたのだ。まるで、かつて喧騒に満ちていたこの街の生命が、ひとつ残らず吸い尽くされたかのように。
耳を澄ませば、風に舞う塵芥の擦れる音、軋む扉の微かな振動、遠くで崩れ落ちる建物の残骸が奏でる不吉な調べ――それらすべてが、かえってこの静寂を際立たせる。都市とは本来、無秩序な音の集積体であるはずだった。だが、今やこの街は沈黙という名の死後の世界となり果てていた。
私は、そんな死後の都市において、いまだに生者としての振る舞いを続けている。
生き延びること、それが目的であったのか。それとも、単なる惰性か。あるいは、私はもうとっくに死んでいて、ただそのことに気付いていないだけなのか。
考え始めると、終わりがない問いであった。
人間はしばしば、自らの生存を疑う。自己を疑うことこそが、まさに知性の証左であると言わんばかりに。しかし、そうした懐疑の構造自体が、単に神経の劣化した接続による電気信号の誤作動に過ぎない可能性もある。私は、いかなる存在であり、ここに在ることにいかなる意味があるのか――
いや、これ以上、思考を迷宮へと沈めてはならぬ。
私はこの場に、現に立っている。そして、これから「帰宅」するのだ。
我が家――いや、正確にはかつての我が家だった建物へと帰還したのは、そうした取り留めのない思考が頭を巡る中でのことだった。
生存者がほぼ皆無となった都市では、家という概念もまた曖昧になる。所有という概念は、生者同士の間にのみ成り立つ法的秩序に基づくものであり、そこに「死者」が割り込んだ瞬間、それは無効となる。
ドアの前で一瞬、呼吸を整える。
私はこの扉を開けることに、なぜか微かな不安を覚えた。
それは直感だった。
「ここは、すでに私の場所ではないのではないか」
そんな、無根拠な、されど抗いがたい予感が、私の胸を掠めたのだ。
私は深く息を吸い込み、意を決して扉のノブに手をかけた。
ドアを開ける。
――そこに、それはいた。
それは、少女だった。
否、訂正する。少女の形をしたゾンビだった。
腰まで伸びた黒髪は絡みつき、ところどころに乾いた血の痕がこびりついている。肌は病的なまでに白く、その頬には生気がない。大きな瞳は虚ろに開かれ、まるで何も見えていないようだった。
身に纏うのは、薄汚れたワンピース。おそらく、彼女がまだ「生者」であったころに着ていたものなのだろう。その布地には裂け目が無数に走り、かつての可憐さは、今や廃墟の片隅で風化した花のごとく儚いものとなっていた。
私は、彼女を見つめた。
そして、彼女もまた、私を見つめているように見えた。
ありえないことだった。
ゾンビは、生者を識別することができない。彼らは音や動きに反応し、本能的に獲物を狩る。それゆえに、私は慎重に動けば、彼らの視界を欺くことが可能だった。
だが、彼女の瞳には――
かすかに、焦点が合っているように思えた。
「……」
私は、一歩後ずさる。
すると、彼女もまた、微かに身じろぎした。
……まさか、こちらの動きを追っている?
これは、単なる錯覚か。それとも、このゾンビは通常の個体とは異なる何かなのか。
私は、慎重に息を潜めた。
このまま、不用意に動けば、彼女は襲いかかってくるかもしれない。
しかし――
彼女は、何もしてこなかった。
静かに、そこに立ち尽くしたまま、じっと私を見つめているだけだった。
……ほう。
これは、なかなかに興味深い。
私は、その場でゆっくりと身をかがめた。
彼女の視線が、私を追って動く。
さらにもう一歩、距離を詰める。
……それでも、彼女は動かない。
ただ、じっとこちらを見つめ続けている。
「……」
私は、ふと考えた。
このゾンビ――いや、この少女は、もしかすると自我を持っているのではないか?
そんなはずはない、と理性は否定する。
だが、もし仮に、彼女が「死者でありながら、自意識を保つ個体」なのだとしたら――
それは、この世界の常識を覆す、極めて異常な存在である。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の虚ろな瞳は、まだこちらを見つめている。
私は、試しに手を振ってみた。
――彼女は、それに呼応するように、微かに指を動かした。
確信した。
彼女は、完全なるゾンビではない。
これは、面白いことになってきたぞ。
私は、この少女と共に暮らしてみることに決めた。
私の新しい生活の始まりである。