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/Ⅵ

 /5




 温かい腕に抱かれた夢。

 絶望の夜に輝く始まりの月。

 彼女の声を聞いていた。

 嘆きに似たその声はまるで子守唄。懺悔を詠う悲しい唄。ならば、その腕は揺り籠か――あるいは寝具の類いでももっと他の、例えばもう目を覚まさない者の眠る箱の中。

 だとしたらと思う。

 ――彼女の子守唄は、この街に送られた挽歌だったのかもしれない。

“ごめんね、私はキミを妹の代わりにするよ”

 抱き締められた記憶。

 一人だけが救われた夜。

 本当の意味で言うなら――久刻十字はその日、死んでしまった。

 だから今ここにいるのは、彼女の夢。天門坂標月が生きていて欲しいと願った、人並みに平穏に暮らしていて欲しいと祈った妹の――その叶えられなかった望みの結晶。祈りの代用品でしかないのだ。

 そうして思った。この命の意味は、きっと彼女への贖罪の為に残されているのだと。

 悲しくもそれを、僕は認めた。



 …



 結果から言って、遙風輪廻は一命を取り留めた。

 旧都の外に出るなりこれほどにないタイミングでやってきた救急車に乗せられ、僕と遙風は病院まで運ばれた。そのまま遙風は集中治療室へ、僕は車内での応急処置のみで大掛かりな治療は施されていない。切り口が綺麗なものだったために、搬送途中に処理し切れたのだという。ほとんど止血されただけの治療だったが、確かに僕はそれで十分だ。最初から重症を負わせるつもりなど、これを刻んだ本人にはきっとなかった。これはただの警告。あるいは願いの形。

 もう二度と、こんなことをさせないで。そんな少女の悲鳴。

 遙風はその深い切り傷よりもむしろ落下の衝撃を頭に受けたことが重症となったらしく、昏睡状態で一晩眠り続ける結果となった。容体が安定したのは朝日が昇り始めた頃である。病院の廊下で彼女の治療が終わるのを待ち付けていた僕は、そのことを担当医から聞かされて胸を撫で下ろした。

 と、そこまでなら何もかもが上手く行ったと言えるのだが。

 僕が頭を抱える事象はさらにもう一つ、存在している。それがこの体に刻まれた傷跡を作った天門坂のことであることは言うまでもない。天門坂は僕を斬り付けた後、そのまま闇の中に溶けるようにして消えてしまった。その背中を追いかけるだけの体力は残されていながら、それでも僕が優先したのは遙風の方だったのだ。

 仮に天門坂を追いかけていたとして。

 その後姿に、何と声を掛ければよかったのだろう。

 次に会ったときには殺す、と。そう言った少女に。今まで何度も脅すようなことは言われてきたが、実際に傷を負わされたのは今夜が初めてだった。だからその言葉がいつも以上に重かったのかと問われれば、僕は首を横に振るだろう。

 傷よりも心を縛ったものがあって、それはあの――絶望に涙を流す強がった少女の笑顔。

 あんな顔をされては、何も言えるはずがない。心からの懇願を無碍にすることなど、出来るわけがないのだ。気丈に振舞い続けた彼女が、初めて見せてくれた弱さだったから。だからこんなガラクタの命など、どうでもよかった。失うのなら、殺されるとしても、天門坂ならばそれも構わないと思う。

 ワンコール。

 二度目の着信。

 昼間に見たものと同じ番号が液晶に表示されているのを確認して、咄嗟に怪我をした右腕を勢いよく振り上げてしまう。端末を落としてしまうほどの痛みを黙殺して、通話ボタンを押し込む。直前に感じた激痛をおくびにも出さないように、声だけは落ち着き払って平常に努めた。

「……天門坂」

 名前を呼ぶ。無駄な前置きなど必要ではなかった。その声が早く聞きたいと焦る気持ちが、意味のない定型句を省略させる。

『分かったことがあるのよ、聞いてくれる?』

 そしてそのことは互いに同じであるらしく、前触れも前置きもなしに声は本題を促してくる。伝わらないと分かっていても、小さく頷く。声を出すと、動揺が悟られてしまう気がして、つまらない意地を張った。

『わたしね、勘違いしてたことがあったみたいなんだ。まずはそのこと、謝りたくて』

「……それなら、僕じゃなくて遙風にだろ。あいつは、殺人鬼なんかじゃなかった」

 疑われた矢先に一歩間違えれば死に至るほどの重傷を負わされた。都合のいいタイミングではあっても、それは何よりの証拠。遙風輪廻は殺人鬼などではなく、ただの被害者だ。この連続殺人に関しても、七年前から続く『箱庭プロジェクト』に関しても。一片の間違いもなく遙風は被害者側の人間と言える。

 そう主張する僕を天門坂は一言で否定した。

『違うのよ、そうじゃない』

 なにが違うというのか。携帯を思わず強く握ってしまい、端末の軋む音と共に傷口に痛みと熱を感じる。苦悶を押し殺して、声に出さずにそれに耐えた。

『考えてみてよ。連続殺人の被害者は、姉さん……久刻標月を除いては全員貴方に関係のない人物だった。それが何故、この二日で連続した殺人の被害者は二人とも貴方に近い人間だったのか。……つまりね、これは連続殺人なんかとは関係がなかったのよ、初めから』

 全ての仮定を覆して、展開される天門坂の推理。

 その先が読めてしまって否定したくなるが、その間を与えずに天門坂は矢継ぎ早に続ける。

『箱崎外流と、遙風輪廻。この二人の殺害はこれまでの事件を真似た模倣犯の仕業なのよ。旧都という瓦礫の街で行われた、誰かの復讐。それが都合よく連続殺人に符合しただけ』

「……なにが言いたいんだよ、お前」

『なにが言いたいのかなんて、そんなこと――本当は分かってるでしょ? アンタはお人好しだから、気付かない振りをしてるだけよ。全部分かってて、否定してるだけ。自分で認められないなら、わたしが言ってやるわよ』

 苛立ちを堪えた声が、調子を荒げて言った。

『これは久刻十字への復讐。その周囲の人間が襲われたのは、それで説明が付く。なら誰がそれをしたのか、簡単よね。連続失踪事件が、連続殺人であると知っていて尚、被害者の状態を把握している人物。それに該当して貴方に復讐する理由を持っている人間なんて、一人だけじゃない』

 声には抑揚をつける話し方。思うのは二度目だ。

 だけど今度は本当に、この声に装うところはなく事実として、天門坂はそれを言いながら。

『これは、天門坂一月の復讐。久刻十字への復讐だったのよ。逆恨みから、自分が破綻しない為に繰り返した自分勝手な殺戮。ねえ、分かってたんでしょ。本当は全部、アンタは分かってたのに、何も言わなかったんでしょ』

 僕は、何も言わなかった。

『久刻十字の周りにいる人間を殺して、貴方を一人ぼっちにすることが目的だった。少しでも貴方にわたしの味わった七年間を感じて欲しいと思った』

 僕は、何も言えなかった。

『殺したいほどに憎んでいるから、一思いに殺さずに首を絞めるようにして、静かに復讐を進めていた』

 僕は、何も言わない。

『孤独の中に叩き込んで、絶望の中、罪悪感で八つ裂きになった貴方を殺そうと思った』

 僕は、何も言えない。

『少しでも苦しみが長く続くように、何もかも奪い去ってやりたかった――!』

 僕は。

 久刻十字は、

「……ふざけんなよ」

 傷が痛む。また血が出ているのかもしれない、そんな熱を感じる。熱いし痛い。だけどこんな傷みなど、なんでもない。天門坂が受ける苦痛に比べればこんなものはなんでもない。だからこの憤りの半分は久刻十字に向けたものだ。図々しくも自分が被害者であるかのように訴えるこの傷口への憤慨。

 そしてもう半分は、天門坂への腹立ち。

 思い描いてしまった。思い出して、しまった。

 泣きながら顔を歪めて不器用に笑う、強がりな少女の姿を。

「馬鹿なこと言うなよ。お前じゃない。絶対に、天門坂、お前は誰も殺しちゃいないんだよ。勝手なことばっかり言ってるといい加減に怒るぞ、天門坂」

 既に発憤はゲージを振り切っているが、なるたけ声には表れないようにトーンを抑える。

「お前は誰も殺せない。僕を殺せなかったように、他の誰も殺せないんだ。あの地獄を知っているお前だから、人の死がどれだけ大切なものかを知っているから。自分勝手な復讐だと? 笑わせんな。そんな理由でお前が人を殺すはずがない。天門坂、だって君は――何度やっても、僕を殺せなかっただろ」

『……バカ』

「僕はお前を信じるよ。天門坂が誰も殺していないって。君がなんて言ってもそれだけは譲れない。絶対に認めてやるかよ」

『……この、バカ!』

 先に爆発したのは、天門坂の方だった。

『何を根拠にそんなことが言えるのよ! どうして――自分を殺そうとした相手を信じるなんて言えるのよ! アンタから何もかもを奪った震災は、わたしの所為であの街の崩壊は起きたのに! そのわたしを、天門坂一月をどうして許容できるの!?』

「だって、それでもお前は――」

『人なら殺してる。もう七年も前にたくさん。あの街に消えた全ての命は、わたしが殺したようなものなの! とっくの昔から殺人鬼に成り果ててた。終わりの月は街一つ分の鮮血を以って満たされたのよ。なのに……なのにアンタを恨むことで――自分の境遇を嘆く振りをして破綻しないように的のない復讐を企てて――』

「――泣いてたじゃないか。その全ての死を悼んで」

 天門坂の叫びが止まる。

「お前の言う通り、僕はお人好しだよ。でも君はそれ以上に、優しいんだ。だから罪の意識に耐えられなかった。裁いてくれる存在がなかったから、苦しんだ。それなら、僕が――」

『………………いいよ、もう。何も言わないで』

 悲しみの果てに、全ての感情をなくした声が絶望の響きを奏でる。

 これ以上の問答は不要と判断して、あるいはこれ以上は無意味と思考して、断ち切るような拒絶の声がそれ以上の発言を遮る。今までよりも低い、唯一あった声の抑揚もない平坦な声がピリオドを打つ。その先にあるのは、後書き染みた少女の嘆きだけだった。

『遙風輪廻をどうするかは、貴方に任せる。彼女が犯人だとしても、わたしにはどうこうする権利はもうないから。それと、貴方と話すのはこれが最後。もう会わないし、話もしない。……これ以上わたしに関わっちゃダメだよ、十字。だって、わたしは『終わりの月』だから。あの実験で生まれた、終焉のカタチは無自覚に周囲を巻き込んで全てを終わらせる。このままだと本当に、久刻くん、貴方の何もかもが終わるから』

 別れの言葉が、二人の関係を終わりに導く。

 それを阻止する為に僕は、無理矢理自らの意思を捻じ込もうとして、

「…………聞いてくれ、天門坂」

『バイバイ、久刻くん。ごめんね、いっぱい苦しめて』

 やはり、それは認められず、残ったのは無機質な機械音だけ。通話が切れたことを示す一定間隔のその音を聞きながら、それでも僕は口にする。冷たくて暗い、夜の病院に残響するその声はどこか濡れているようでしかし感情を感じさせなかった。

「僕は、君が好きなんだよ。殺されたって、構わないくらいに」

 誰にも聞かれることはなく、誰にも届くことのない告白が暗闇に溶けて消失した。



 *



 翌朝医師に告げられて、目を覚ました遙風の病室を訪れた。親族が出入りした痕跡はなく、実際尋ねてみたところ病室に入るのは僕が最初であるらしい。遙風の保護者を名乗る人物は電話だけを掛けてきて、その体に問題がないことを聞くとそれだけだったと言う。確認したかったのは、遙風輪廻の状態なのかそれとも『箱庭プロジェクト』の経過だったのか。

 思うところは数多くあったが、僕がそれをごちゃごちゃ考えても仕方がないので何も考えないようにする。今は意識を回復した友人に会えることを素直に喜ぶとしよう。この時だけは全てを忘れて。遙風輪廻が連続殺人鬼であると語った天門坂のことも、その天門坂から突きつけられた絶縁状も考えない。

 個室の扉を一応ノックする。返事がないことは分かっていたので、少し時間を空けてから自己判断で入室した。部屋の中を描写するなら、それはやはり誰もが想像する病室そのもので、殺風景でものがない広い空間に白の装飾が目立つといった具合。壁、天井、カーテン。部屋の雰囲気を作り出すそれら三種のアイテムが全て白。病的なまでの、白色。

 遙風は、これもやはり白いシーツのベッドの上で上体を起こしていた。僕の入室に気付くなり、閉め切られた窓から視線をこちらに変更する。普段通りの気さくさで、片手を上げて挨拶。遙風は表情を変えないで頷くような仕草で返事をくれる。

「よかったよ無事で、退院にはもう少し時間が掛かるみたいだけど」

「そうですか。……来てくれてありがとうございます、久刻くん。申し訳、ございません」

「いやいや、僕は遙風のいるところならどこにだって現るさ。一日に一度君を視界に納めないと生きていけない依存症なものでね。ここに来たのも僕自身の生存の為だから気にしなくていいよ」

「いえ……そうではなくて……その」

 遙風の視線は戸惑うように、僕の肩口周辺を彷徨っていた。言わせずとも理解に及ぶ。一晩病院の廊下で過ごした僕は着替えなどしておらず、切り裂かれた制服はその切り口を鮮血で赤く汚しているのだ。その下を包帯で巻いているのは見えないとしても、何があったのかは自分の状況と照らし合わせて一目瞭然である。

「なんだ、いや、これは近所に凶暴な猫がいてね。襲われちゃっただけなんだよ……」

 ……苦しいか? 

「久刻くん、冗談は止めてください」

 指摘されるなら止めておこう。

 ……よく考えてみれば、気を遣って冗談なんて言っている場合ではない。謝らなければならないのは遙風ではなくて僕の方だ。怪我をしているのはお互い様。だが、その程度は比べ物にならない。殺す為の傷と、脅す為の傷。軽症は僕の方。それだけでなく、遙風が怪我をしたのは僕の所為なのだ。

「僕の方こそ、ごめん遙風。僕が君を旧都に呼び出したから、こんなことに」

「了承したのは私です。久刻くんが気にすることではありません。それにこれをしたのは久刻くんではないのですから……この傷は、私自身が望んだ結果です」

 そんな、訳の分からないことを遙風は言った。

「カーテンを開けてくれますか、久刻くん。自分では出来ないので、お願いします」

 遙風は逆手で窓側の肩に触れて、小さく笑って見せた。動かすだけで傷が痛むのだろう。昨日の自分を思い出すと、よく分かる。僕は言われるままカーテンを開けて窓の視界を開く。外の景色は灰色の雲。雨でも降るのか、この寒さでは雪も降るかもしれない。病室は三階。目を凝らせばその果てに瓦礫に埋もれる旧都が望める。

 灰色の雲を眺めて、あるいは窓に映る自分の虚ろな黒い瞳を見詰めて。独り言のようにぽつり、と遙風が零したその言葉を僕は聞き逃さなかった。

「遙風輪廻の在り方は彼が話して知っていますよね、久刻くん」

 遠い昔のことのように、それは奇妙な語り口だった。遙風は昨日の彼女、彼を他人のように言う。それが違和感の正体だと気付くのに数秒。そこから最悪の現状を連想するのには、昨日の遙風と交わした最後の会話を交えた回想を挟んだことでさらに数十秒遅れる結果になった。

「遙風輪廻は一人だった。二人でありながら、一人であることしか許されなかった。だから私達は常に自分を否定していたのです。そのことが双方の破滅に繋がることも分かっていたのに。いつ消えてしまってもいいように、繋がりは少しずつ消してきたつもりです。自分のことですから、終わりが近くなれば分かります。少しずつ、少しずつ捨てて、空っぽになる予定だったのに」

 窓から目を離す。遙風の視線が捉えたのは僕だった。

「あなたがいたんです、久刻くん。遙風輪廻の中にはあなたがいた。そしてそれだけはどうしても、遙風輪廻には捨て切れなかった。例え自らと比較しても、守っておきたいと思える存在でした」

 ――お前が、いたから。捨てられるわけがなかったんだ。遙風輪廻にとって、久刻十字は全部だったんだよ。……だから、どちらかが消えるしかない。どちらかを、残す為に。

「だから、どちらが消えるしかない。どちらも消えてしまったら、遙風輪廻の中の久刻十字は永遠に失われてしまうから。それだけは、嫌だったんです。私も、彼も」

 同じだ。やっぱり、遙風輪廻は同じなんだ。

 悪いのは誰か。

 何度も繰り返したその問いかけに、今なら答えられる。紛れもない、久刻十字だ。遙風輪廻を苦しめていたのはこの僕に他ならない。何度も彼女は遠ざけようとした。もしもの可能性があったから。空白だらけだった彼女の中には他人が入り込む隙間が、その意思に反して幾つも存在していると、遙風輪廻は知っていたのだ。なのに、僕は。

「……間違えないでください、久刻くん。私は決してあなたを恨んでなどいません。むしろ感謝しています。だって、何もなかった私の唯一になってくれたのは、生まれて以来あなただけでしたから。それこそ、自分を捨てても構わないと思えるくらい」

 優しく笑っていた、その少女。

 失くしてしまったと分かっているはずなのに、遙風輪廻はもう一つだけなのだと知っているはずなのに。……そんなこと、他人の僕にだって分かる。もう彼がどこにもいないこと。それを彼女が気取られないように努めていることも。

 遙風は、まだ動くその手を傷口の上に乗せた。目を閉じて、そこにあった何かを思い出すように。

「だから、彼がしなければ、私がしていました。――たまたま、その機会が彼と重なっただけなんです、久刻くん。嬉しいんですよ、私は。自分を捨ててでも、守りたいユメが遙風輪廻の中にあったことが。ですから、これは――」

 押し殺した感情。閉じた瞳、噛み締めた唇。傷口を覆った包帯を強く握って、両肩を――全身を震わせる少女。遙風輪廻は、嗚咽の混じるその声で言った。


「悲しくて、泣いている訳ではないんです」


 様々な遙風を見てきた。僕らが過ごした時間など、その生きてきた年数と比較すれば微々たるものでしかないだろう。それでも僕は、曲りなりに彼女の傍にいて見て来たつもりだった。遙風輪廻を、すぐ近くで。廻り廻って移り変わる季節のように、変化するその表情も全部。

 ぶっきら棒にため息を吐いた彼。冷静沈着に振舞いながらも、時折その表情を朱に染めた彼女。慇懃な言葉で罵りつつも、最後には互いに笑いあって破顔した少年のような彼の表情。強く凛々しくも、歳相応に綻ぶことを知っていた少女の一面を失わなかった彼女の表情。

 だけど、一つだけ、見たことがなかった。

 遙風輪廻が涙を流している姿を、悲しい色にその顔を染めた表情を、久刻十字は知らなかった。

 大粒の涙が、包帯を濡らす。指先が震えて、どれだけの力でそこを握っているのか、想像することも出来ない。きっと痛みに耐えているはずだ。体の痛みと、心の痛みに。涙は代償のように、流れ落ちる。

「少しだけ、後ろを向いていてください。直ぐに済みます。……直ぐに、元通りになりますから」

 掠れる声が紡いだ、精一杯の強がり。虚勢だと見抜くことは簡単で、けれど彼女の抱えている心中を測ることは出来なかった。痛々しい姿。寒さに耐えるように震える細い体。止まらない雫。強く努める泣き顔。

 僕に出来ることは、いつものように彼女の隣にいて。

「……久刻、くん? ……後ろを向いていてくださいと、言ったのに」

「悪い、遙風。でもさ、悪いけど僕は自分勝手なんだよ。でもいいだろ、これなら顔は見えないから」

 傷口を握る手を掴んで、患部から遠ざける。余計な痛みはやっぱりない方がいい。

 きつく抱き締めて、そこにいる少女を感じていた。同時に、そこにはもういない彼の存在を思い出す。無邪気に笑っていた、少年のような彼。最後、歪に笑って目を閉じた久刻十字の友人。……そういえば、彼は友人未満と称していたっけ。それでも構わない。彼がなんと思おうとも、僕がどう思うかは自由なのだ。

「……本当に、勝手ですね。……こんな時くらい、私の頼み聞いてください」

「こんな時だから、聞けないんだよ」

 答えは、まだ見付かりそうにないけれど、抱き締める強さが一方的でなくなったこの瞬間だけは思えた。――遙風輪廻に声を掛けたことは、間違いではなかったと。一人だけでいなくなろうとしていた彼と彼女の傍にいられたこと。僕はそれを幸福に思う。

「……遙風、教えてくれ」

 不謹慎でも、訊かずにはいられない。

 もう何かを失うのは嫌だから。これ以上、何一つなくならないように。終わらせない為に、決着をつけなくてはならなかった。僕は尋ねる。一連の終わりに繋がるその真相を、彼女に問う。

「――旧都で、誰に会ったのか。誰に、その傷を付けられたのか、話してくれないか」



 †



 七年前の傷跡。今尚残される震災の爪痕はしかし、それでもあの夜の凄惨さを示す上ではまだまだ足りないと思う。あの夜は正しく終わりだった。全てが壊れていく、崩壊していく経緯が連結する終焉。誰もが逆らえなかった運命染みた破滅。

 灰色の空に昇る月はなく、冷え込んだ世界に音はなかった。

 僕はその空の下、旧都災害跡地を訪れた。ある一つの結末の為に。螺旋のように廻り続けるこの復讐に幕を引く為に脚を運ぶ。世界は停止していた。こんな空で雨がいつまでも降らないのは時間が止まってしまったからだと、本気でそんなことを思う。

 家の前から人影を追いかけて、大橋を渡る。入り組んだ瓦礫の道を歩く内、しばらくして僕はその人物を見失った。が、その人影の役目はそこで終わっていたのだ。もしかしたら自分が跡をつけられていると気付いていたのかもしれない。だからそこに辿り着いた時、先導の役目が終わった彼は姿を消したのだ。

 ずるり、びしゃり。ぐちゃり、びちゃ。

 ――水音。生々しい、まるで掻き混ぜるように、引き千切るように。咀嚼するように嚥下するように。嬉々として弾む音に身が竦むのを感じた。何が起きているのかを想像するだけで、鳥肌が立つのを抑えられない。事実を直視してしまえば戻れないから。

 一歩前に脚を進める。音の発信源に少しだけ近付いた。

 びちゃ、ぐしゃ、じゃくり。

 止まない音。さらに一歩。足音を殺すことさえここでは意味を持たない。角を曲がったところにその光景が待っている。もう一歩身を乗り出せば視界にそれは飛び込んでくる。意を決して、僕は全身で角を曲がった。

 瞬間。

 信じられない光景を、およそ予測していながらもその凄惨さで想像の範囲を凌駕していた景色に怖気が走る。寒気が電撃になって背筋を流れ、本能的に自分の目を潰してしまいたくなるくらい、そこは常識を外れて異常だった。

 理も道徳も無視した、それは一つの世界。蓋をして閉じた異界を内包する箱の中。

 敢えて、その異界を言い表すとして、


 有り体に言えば、ここは終わっていた。

 鮮烈過ぎる真紅の飛沫。

 四方を濡らす、美しいほどの赤色。

 四肢を引き千切られた――否、喰い千切られた死体。

 濃厚な死の臭い。

 その、全てが終わった鮮血の囲いの中で、

 ――――僕は、彼女に出遭った。



 *



 そこにいる少女を見て、僕は意識を抜かれたように立ち尽くした。

 分かってはいたのだ。一つだけ想像と違っていたのは、肌で感じるリアルな死の気配。一面を真紅に濡らした四方の壁も、充満した死臭も、横たわる傷だらけで四肢を失くした死体も、何もかもが思い描いていたそれを遥かに凌ぐほど猟奇的だった。

 びしゃり、ぐしゃり。僕のことなど意に介さず、少女は『食事』を続けている。

 その度飛び散る赤い飛沫。……粋のいい、噴水染みた鮮血。人間の踊り食いと、その状況を形容してもまだ背徳性が足りないほどの異常。異界の中に在って、尚も壊れている。理の捻じ曲がった箱の中にありながらも常軌を逸した死のカタチ。

「……未美好ちゃん」

 まだその名前を呼んで、振り向いてくれるかは分からなかったけれど。僕は僕の知っているその名前で、彼女に呼びかける他に為す術を持ち得なかった。果たして、白い顔に赤い血の化粧を施した少女が顔を上げる。彼女の好んで来ていた白色のパーカーも、今は赤の染色を逃れた部分の方が貴重に思えた。毎日変わる服装。未美好ちゃんが同じ服を着ているところを、僕は見た覚えがない。

 つまりそれは、こういうことだったのか。

「お隣のお兄ちゃん」

 理性を取り戻した瞳で、未美好ちゃんが口に出す。いつもと変わらないその声調にも関わらず、今日この時にこの場においては震える体を抑え付けることが出来なかった。

 ぺたりと、血溜まりに座り込む齢十二の少女。その少女の姿に声が出ない。驚きよりも明確な恐れが、自分より一回り以上も小さな子供に与えられる。下手をすれば、数分後そこに転がっている死体は久刻十字の姿をしているかもしれないのだ。

 背筋が震える。肩が跳ね上がる。

 怖気づくように、無意識に働いた逃走本能から一方後ろに引いた時、その声が聞こえた。

「これが、君の知りたがってた真相だよ。久刻くん、感謝してくれよ。君がついて来てることを知ってて、親切に案内して上げたんだからさ。……まあ、その内君にもばれるだろうと思ってたけど。タイミングとしては、丁度いいかな」

 肩に乗った、冷たい手。

「枯……さん」

「驚いてるみたいだね。俺をつけてきたってことは、全部知ってるんだろ? どうしてかな、聞かせてくれよ」

 この異常な場においても尚、枯さんは微笑を崩さない。肩に手を乗せられいるだけなのに、全身を掌握されているような被支配感に吐き気を覚える。枯さんの笑顔が冷笑に見えた。逃げ出したい。ここにいれば殺される。

 本能が叫んでいた。今すぐに全てを放棄しろ。そうでなければ壊れてしまう。だから早く、一秒でも早くこの異界から逃げ出せ。でないと久刻十字は間違いなく――

「俺の質問、聞いてるのかな? 久刻くん」

 頭部に衝撃。痛みよりも脳が揺れる感覚に喉の奥から迫り上がってくるものが呼吸器官を塞ぐ苦しさに目が飛び出しそうになる。視界が揺れた。体の平衡感覚が失われ、立っていられない。ずるずると何かを伝って膝を突き、何が起こったのかを理解する。瓦礫の壁に、強く頭を打ち付けられたのだ。自覚すると余計に痛む。……無茶苦茶だ。

「あのさ、久刻くん。人とのコミュニケーションってのは大事なんだぜ。先に俺がこの光景を見せて上げたんだから、次は君の番だろ?」

 獣染みた、人間の言語に成り切らない苦悶を自分から聞く。肩口の傷に激痛の再来。枯さんの脚がそこを踏みつけ、容赦なく体重を掛けてきている。拷問なんかではなく、それは僕が質問に答えるまでの暇潰し。発言しなければ無限に続く苦痛。

「……遙風が、教えてくれたんだよ」

 痛みに耐えて、何とかそれを人の言葉にして吐き出す。枯さんの脚が肩から離れた。一瞬解ける緊張感。僕はその時、自分が無意識に呼吸を止めていたことに気が付いた。

「へえ、あの娘がねえ。俺としたことが、殺しそびれちゃったわけかな? それとも助かる見込みがあったのか。彼女、遙風さんだったよね。俺が殺気立って近寄ってることに気付いていた癖にさ、抵抗しなかったんだよ。でもな、殺せなかったのか。残念じゃないけど意外だな」

 枯さんは、ジーンズのポケットからナイフを取り出してその切っ先を弄んでいた。その様子はまるで遙風のことなど意識していない、彼の言葉通り残念がっているのではなく不思議がっているように見えた。

「……ちゃんと、殺したさ、あんたは」

 痛む肩を押さえて、片膝で体を立てる。見上げる姿勢になりながらも、目を逸らしてはいけない気がしていた。

「なんだそれ。分からないな、久刻くん。だったら君、誰にこのこと聞いたんだよ。……いや、まあ、何でもいいけどね。今の俺が関心があるのは君だ。それ以外はどうでもいいよ」

 やっとの思いをして、中腰に起き上がる。だというのに、枯さんはその行為から意味を剥奪するように体勢を屈めた。何をするのかと思えば、また僕の肩に手を置いて巻き付くように背後に上半身を回す。――凶器をその手に持った、上半身を背中に。

「ちょっと痛むけど、我慢してくれよ」

 注射を打つ前の医者のようなことを言ったかと思うと――即座に、僕はその発言の意味を知る。思考よりも何千倍も早く、脹ら脛に感じる痛み。駆け上がってくる激痛に絶叫する。刃物が体内に侵入してくる感触。痛覚を刺激する、その冷たい鋭利な尖端。上下に少しずつ振れて、ようやく抜ける。異物が出ていくことで吹き出す血を、喘ぐような声を出しながら感じていた。

 それがさらにもう一度。右と左の脚をそれぞれ丁寧に潰された。右の段階で痛みに意識が飛びそうになっていたのを、左の痛みで引き戻される。声が枯れるほどの大音声を上げて、痛覚から意識を逸らそうとする自分が惨めだった。

「少し、長い話になるからね。それとこの後のことで逃げ出されるのは困る。だから逃走手段を絶たせて貰った。……あれ、脚だから手段ってのも可笑しいか? いいや、そんなこと。心配しなくても綺麗に斬っておいたから大人しくしてれば上手く塞がるさ、ただし、その肩と同じで無理は出来ないけどね」

 地面に頬を付いて、上から降ってくるその声を聞いていた。視界に映るのは枯さんの靴の爪先。そんなところを睨んでいても何の抵抗にもならない。そう思った瞬間に引き上げられる視界。頭を掴まれて、強引に体を起こされた。枯さんはそのまま乱暴に、僕の頭を放り出すようにして瓦礫に凭れさせる。

「まずは……俺と未美好のことから話そうか。『箱庭プロジェクト』のことは知ってるだろ? ある一つのコンセプトに基づいて人間を後天的に作り替える。そうすることで先天的な異常者を製造する実験。その結果も、聞いてるよな。俺と未美好もその実験の産物なんだよ。夜杜はね、天門坂に飼われていた被験家系だったんだ。素体の提供をしていた訳さ。未美好、こっちにおいで」

 呼ばれて、従順な犬のように兄に駆け寄るツインテールの少女。未美好ちゃんが二足歩行をしていたことに安心した。よかった、この娘はまだ獣に成り下がった訳じゃなかったんだ。先刻の『食事』が礼儀正しい彼女にしてさあまりに乱雑だったから、理性も何もかもをなくしたのかと思っていた。

 枯さんは駆け寄ってきた未美好ちゃんに笑顔を向けて、その頭を撫でた。血の滴る口元を拭いてやる様子が、どこにでもありふれた兄妹の食事風景にしか見えないのが異常だった。枯さんはにこやかな表情を一片も崩さずに、それをそのまま僕へと向けた。

「見ての通り、未美好は『食欲』をコンセプトに作り上げられたカタチなんだよ。そしてその食への意識は徐々に強大になっていってね、近頃では肉と見れば衝動が湧き起こるらしい。……困ったもんだろ。妹を満足させる食事を用意する為に、俺は人を殺さなくちゃならなくなったんだよ。満足っても一時的なものだけどね。人間の肉を生で食べて無事なほど人間の消化器官は優秀じゃない。大変なんだぜ、未美好の食事に付き合うのは。もっともそのお陰で、死体の処理には困らなかったんだけどね」

 狂ってる。何もかも。この空間、隔離されて形成された今この場所の全てが完膚無きまでに狂い尽くしている。どこを見渡したって正常なものなんて在りはしない。――狂った世界には狂った存在しか有り得ないのだ。踏み込んだ時点で諦めるしかない、ここに正常を求めることなど。それを理解している僕もまたやはり、狂っているのだろう。

「とはいえ、そんな厄介な衝動には流石に制限が付くのさ。これが実験の敢行側による配慮なのかは知らないけどさ。未美好の場合、この衝動は『閉鎖された一定範囲の空間に対象となる存在と一対になった時』に抑えられなくなるんだ。つまりこの空間だ。この箱庭染みた異界こそ、未美好の異常を造り出す空間なんだよ」

 喫茶店から帰る時のあれは、なるほど確かに忠告だ。仲の良い兄妹だと思ってた、いつも行動を共にする理由もそれで納得がいくが疑問は残る。

 この空間が未美好ちゃんを豹変させる要因だとして、もしそうなら他にも似たような状況は作られてしまうではないか。そして夜杜未美好の衝動を抑える為に取っている行動も、また逆効果になるのではないか。例えばそう、あのアパート。どの程度の空間面積において衝動が起きるのかは分からないが、ここで条件を満たすなら向こうでも――

「察しがいい君なら分かってるだろ。そうだよ、自宅では常に未美好は猛獣さ。でもだから何だ? 人間は獣を飼い慣らす外道な生物だろ。サーカスでもよくやってる。獣を従えたいなら首輪を作ればいい、つまり力に依る蹂躙、支配だよ」

「あんた……まさか」

 徐に、枯さんは未美好ちゃんの服の袖をたくし上げた。白い肌が晒される。その細い腕を引っ張り上げ、未美好ちゃんの体が半分宙に浮いている。どれだけの力でそれをしているのか、ここに来て初めて未美好ちゃんが小さな悲鳴を上げた。

「ぁ……うぐぅ……あぁ……」

 目を固く閉じて痛みに耐える小さな姿。

「止めろ……! あんた、自分が何やってるか分かってんのかよ! 未美好ちゃんを離せ!」

「俺が、何をやってるか? ……それを今君に見せてやってるんだろ、ほら見ろよ、これ」

 未美好ちゃんの細腕をなぞる指先。つつつ、と歪な線を示す。

「ここは一昨日。これは一昨々日で、ここが先週。意外と綺麗に治るもんだよな。……あれ、そこからだと見えないか。腕は何かの拍子で見えかねないから控え目にしてるんだよな。――でも、これなら見えるだろ」

 くるりと、まるで物のように未美好ちゃんを回転させ、背を向けさせる。あろうことか、さらにその上で仮にも兄である枯さんがしたことは未美好ちゃんの服を捲り上げるということだった。肩甲骨まで露になる少女の裸体。そこには、無数の傷跡が残されていた。

「兄妹ってこともあってね、俺達は上手く符合するんだよ。未美好の衝動が『食べる』なら、俺は『虐げる』なんだよ」

 白い背中を撫でる手。骨盤の下辺りから這い上がっていく五本の指が途中にある傷口や傷跡、瘡蓋に触れて上へ上へと上がっていく。下着の紐を跨いでその上へ、首の下まで這ってようやくその手が止まった。続いて、その傷を一つ一つ丹念に舌で撫ぜる。手と同じ道筋を辿り終えて、枯さんは未美好ちゃんを解放する。また小さな悲鳴。虐待に耐え忍ぶ苦言を聞いた枯さんに睨まれて、未美好ちゃんがの身を縮める。捲られた服も下ろさないまま懺悔の面持ちで兄を見上げている。

 虐げる――虐待と支配の図がそこにあった。

「俺の衝動は未美好と違って年中無休でね」

 未美好ちゃんに微笑みを落とす。媚びるような目に満足したのだろうか。

「溜め込むのはよくないだろ、だから、未美好には発散の手伝いをしてもらってたんだ。最近は食事の準備もあって、衝動の処理には困らなかったから助かってもいたしな。君の後輩と、それから昨日の男勝りな彼女。二人にも大いに助けて貰った。まあ、昨日はいまいちだったけどね」

 思い出して、枯さんが身震いしている。その感触を思い出すと興奮が止められないというみたいに、全身を小刻みに震わせながら光悦に口元を歪める。

「ああ、あの彼女はよかったよ。箱崎パズルだったね。家に帰りたいって言うから連れてって上げたんだよ。そしたら心底嬉しそうに笑ってた。笑って、俺に言うんだよ。ありがとうございます、ってさ。その満面の欣喜をぐちゃぐちゃに凌辱してやるのが気持ちよくってさ――最初の一太刀なんて最高だったよ。喜びで浮かべてた笑顔が自分の血を見て凍り付くんだ。何が起きたのかを悟るより、痛みを感じるより先にもう一回斬り付けた。致命傷だったよ、それが。最後まで悲鳴は上げさせなかった。最後にさ、そこが何でもない、ただの知らない誰かの住んでた廃墟だって教えた時の、あの泣き叫ぶような声! 思い出すだけで鳥肌が立つよ! ふは……あははは……ははは、ははははははははははははははははははははははははは!」

「この、外道――!」

 罵る声が哄笑に飲み込まれる。この脚で立つことが出来たなら、直ぐにこいつの頬を拳で撃ち抜いてやりたい。張り倒して頭蓋を叩き潰してやりたいと思った。こんな奴に、未美好ちゃんが毎日虐待されていた。こんな奴に、箱崎と遙風は襲われた。自己の衝動に流されて自分勝手に周りを傷付ける人外に命を奪われた。その胸糞悪い欲求を満たす糧にされた――!

「いいねえ、その目だ久刻くん。怒りに明かせていながら絶望を滲ませる目だよ。そこに残った光を摘み取って、媚びるくらいの意思で屈服する瞬間を想像するだけで震えてくるよ。君をそんな風に調教するのも悪くないが――」

 にやけた表情が、僅かに固く引き攣る。

 僕に向けられていた視線が別の方向に行き、それだけでなく体全体を枯さんはそちらに向かわせた。

「君との話は少しお預けだ。先に下準備を調えよう」

 大袈裟な仕草で両手を広げて、顔はいつもの微笑だが、彼の滲ませる空気は欠片ほどにも軽薄さを感じさせていない。高揚しているのは確かだった。だがそれはついさっきのような欲求の成就などとは関係なく、待ち焦がれていた何かをその視界に認めた時のようなそんな気分の高騰。その原因に、僕も目を向けた。

「ようこそ。待っていましたよ、天門坂のご令嬢。こうして会うのは二度目ですが――貴方はきっと覚えていらっしゃらないのでしょうね。高貴なる、天門坂様」

 敬うように頭を下げて、次の瞬間彼が灯した瞳の光は殺意のみを宿した怨嗟の暗く鈍い鉛の輝きだった。

 そしてその敵意と殺意を一身に受けて尚も毅然と立つ、対抗するかのごとく蒼い目を綺羅星のように光らせる死神――天門坂一月は一振りのナイフを手にしてそこに佇んでいた。



 *



「……随分、ぼろぼろだね、久刻くん。もう虫の息じゃない」

 静かに憤る声が、僕に向いていた。

「ここには来るなって、言ったのに。約束、守ってよ」

「……なんだよ。もう会わないし、話さないんじゃなかったのかよ」

「知らない、そんなこと。もう忘れた」

 あっけらかんと言い捨てて、殺意の矛先が黒い殺傷衝動に放たれる。遠目にでも分かってしまった。天門坂は怒っている。僕にしたように直ぐに飛び掛からない辺りが不思議に思えるくらいの、一触即発を満たす空気の中で視線による殺意だけを相手に向けていることが信じられなかった。自身を必死に制御しているのか、それにしては落ち着いている。表情こそ強張っていても、そのナイフはいつまでも待機したまま動かない。

 黒い男が言った。

「来てくれて嬉しいよ。それに、君がまだ破綻していないことも。よかった。既に壊れていたら虐げる楽しみがなくなる。お高く止まった天門坂様が涙ながらに赦しを請う姿を見る為に、俺は今日まで色々と準備を重ねてきたんだからね」

 かちゃり、その手に握るナイフが音を立てる。もしも握られていたものが拳銃だったならば、彼は間違いなく既に引き金を引いていたことだろう。表面上の殺意は互いに拮抗し合い、ぶつかりあって充満する。一挙手一投足と一言一句に呼応して波紋を生み出す殺意と殺意の停滞がはち切れる寸前の絶妙なバランスを保って蟠る。

「一応聞いておくけど、君、俺のこと覚えてる?」

 一方的に話を投げ掛けているのはさっきから枯さんだけだ。天門坂は視線に意思こそ籠めてもそれを威嚇以上のものとはせず、手に持つ銀の強靭も無気力に地を向いている。ただこの質問にだけは、それでは回答にならない。天門坂は目前の黒い存在を侮蔑する瞳で睨み付けながら、ゆっくりと口を開いて返答した。

「知らない。覚えてない」

 皮切り、あるいは口火とでも言うのか。

 弾けたのは枯さんの方だった。天門坂のような常人離れした運動神経を持たない、その肉体面では普通の成人男性でしかない踏み切りはそれでも常識の範囲であるならば相当な速さと言えただろう。少なくとも、普通ならば疾走の速度と剥き出しの殺気に当てられて標的は初撃を躱すことが出来ないはずだ。仮に可能だったとしてもそこまで。反射の極致的な反応を以てして射程範囲を逃れても竦んだ体ではそれが限界。不様に倒れ伏すのが関の山だ。

 しかし不運にも枯さんが標的としたのは常識の外にある存在。死神の目が煌めく。無勢力に萎れていた腕が跳ね上がって――交錯、二つの刃が音を立てて交わった。共鳴するように光を放つ刀身。銀の閃光が描く軌跡。

 天門坂はさらにナイフを弾いただけに終わらず、身を捻って枯さんの体を往なす体勢に入る。枯さんはナイフを上段から振り下ろした勢いを殺し切れていない。天門坂はそれを利用し、脚を捌いて枯さんの体を空中前転させる。無防備に晒される背中。急所を守るものは何もない。脊椎にナイフを突き立てればそれで全ては終結を迎える。

 ゆらりとナイフを掲げて、位置を固定。落下地点を定めて後は一思いに腕を降れば決着。天門坂の目が細まる。音を立てる鉄の刀身。それは刹那の躊躇。決死を目の前にして乱れる彼女の殺意が上げた断末魔。

 ぴたり、と。

 ナイフの切っ先はそこで停止したまま動かされることは決してなかった。

「――っ」

 舌を打つ。天門坂の一瞬の戸惑いが決着を破綻させた。

 誰よりも驚いていたのは天門坂自身だろう。無表情を僅かに歪めたのを見て取り、そうして気が付く。彼女は誰に対してもああなのだと、誰かに対してではなく万人に。例えそれが自分を殺そうと刃を突き立てる相手であっても、天門坂は殺せない。

 ――終わりの月。

 彼女は終わらせる者であって、殺す者ではない。

 万物を終焉に到らしめる終わりの具現。現象のカタチ。――それが、天門坂一月。

 天門坂自身は死の重みを知っている。この瓦礫と廃墟に埋もれた街の破滅の一部始終を傍観していた彼女には、自ら人を殺すことなど出来ない。そのことは僕が彼女に訴えたことじゃなかったのか。――あるいはそれが原因で。彼女に気付かせてしまった。自分は、誰かを殺すことを恐れていると。

 天門坂の驚嘆の間に受け身を取った枯さんが起き上がる。奇妙にも延命した僥倖を無感動に享受し、寸前と変化のない殺意でナイフを握り直す。再びの疾駆。だが今度はさらに勢いがある。今の一撃で枯さんも気付いていたのだ。天門坂には人が殺せないと、看破した。だから迷いなく懐に入って斬り合える。接近戦で反撃の恐れがないならば手数は多い方がいい。踏み込んだ脚をより深く。致命傷を与えるに十分な至近距離に迫り続ける。

「いつもだ。お前達姉妹はいつも俺達を見ているだけだった――!」

 叫び、一閃。

 鉄の弾ける音と彼の叫び。

「全てはお前達二人の為に行われた。俺も未美好も、他の多くの人間もだ! 一人残らず実験の過程として、人間としての扱いすらされなかった」

 嘆き、一閃。

 閃光の煌めく軌跡と彼の憤り。

「それを覚えていなかった。そうさ。そうだろうなご令嬢! お前にとっては俺も未美好もこの街の全てが踏み台でしかなかったんだよなあ! 思い出せ、終わりの月。お前はどうやって生み出された? どれだけの犠牲を払ってここにいる? 分かるか。分かるよな! 全部だよ。この街の全部! ここはお前の為に破滅した。ここに生きていた全ての命を殺して――終わりの月は数え切れない犠牲で満たされた――――!」

 一段と甲高い音が響く。斬り付けたナイフを弾く為に振るわれたナイフが軌道を誤って弾き切れなかったのだ。それだけではなく、力も足りていない。反応が遅れた分それだけ衝撃もまた大きくなる。不意に後退する天門坂。傾ぐ姿勢。一瞬だけ生まれたその隙を衝かれる。

「天門坂……後ろだ……!」

 天門坂は失念していた。殺人犯はツーマンセル。二人一組の猟奇殺人鬼。夜杜兄妹は黒の烏だけではなく、白の木菟も含まれる。彼女を背にして防戦に回っていた時点で既に勝負は決していたのかもしれない。

 未美好ちゃんの跳躍は、その体格から考えて異常な高さを記録していた。さらには繰り出された攻撃もまた常軌を逸している。理性をなくした瞳が振り翳す二本の腕が左右両側から天門坂の首元を襲った。凶器は爪。牙とならんで獣の武器とされる、無骨な刃。

「う――ぐぅ……」

 苦痛に歪む天門坂の表情。飛沫のような鮮血が飛び散る。

 着地した未美好ちゃんは尚も攻撃の手を緩めない。両手両足を地について四つん這いの体勢――それは大地を駆る肉食獣を思わせる姿勢で、凶器と化した爪が天門坂の脹ら脛を抉った。自分も同じ目に遭ったからこそ容易に想像出来る痛み。間もなく、勝敗は決した。

 天門坂が膝を屈する。足元に朱を落としながら。

「未美好の衝動は何も、限定条件下のみというわけじゃないんだよ。条件を満たすと制御出来なくなるだけで――本当はいついかなる場合においても、夜杜未美好は猛獣に豹変するんだよ」

 息が荒い。狩猟の後で体力を使い切った獣が体を休めるように、未美好ちゃんは早い間隔の息を吐いて身体の熱を冷却している。矮躯に強いた無理な運動。彼女が理性を奪われた獣となる代償は、決して小さくはない。

 ぱたりと倒れた未美好ちゃんの異常な発汗。アスファルトに染み込む、天門坂の流血とそれが交わる。この閉ざされた空間の中、三人の人間が地に伏した。最後まで膝を折らずに、今現在全員を見下ろしている支配者。虐げるもの、黒の怪鳥。――夜杜枯が不気味に口元を三日月型に歪めた。

「いい様だね、ご令嬢」

 見下す視線。脚を潰されても尚殺気を放つ天門坂を、不満げに見下ろして、

「その目はよくないな」

 威圧的に言い捨て、天門坂の手首を爪先で蹴り上げる。無機質な金属音が反響して、天門坂のナイフが転がった。抵抗する術を奪われて、しかし未だ萎えない反抗の意思。今度は目に見えて不機嫌に、舌打ちをした枯さんが、天門坂の胸を爪先で打ち抜いた。

 肺から漏れ出たような苦悶と悲鳴を上げて、天門坂の体が反り返る。さらにもう一度。今度は腹に食い込む蹴りを受けて、反った体はくの字に折り畳まれる。夜杜枯は、だがそれでも止まらなかった。自らも片膝を突き、目線を天門坂に合わせる。

 前髪を掴んで顔の位置を固定し、その頬に往復で平手打ちを見舞った。掌が打ち抜かれる度に小さく零れる悲痛な呻き。必死に押し殺しながらも歯の隙間から出てしまう、その声を天門坂は憎らしげに聞いていた。痛みよりも、その暴力よりも、悲鳴を上げようとしている自分が気に入らないというように。

「止めろ……止めろって!」

 何十発目かの平手の後、枯さんは天門坂を開放した。興味のなくなった玩具を投げ捨てるみたいに、無惨に転がる少女の体躯。頭蓋骨が地面に衝突する低い音が響いた。息を止めていたのか、咳き込む天門坂。白い頬に掠れた赤が付着している。それが誰の血液なのかは分からない。

 息が上がっていたのは枯さんも同じだった。冷静に冷酷な表情を浮かべながら、肩を上下させている。だが自分よりも苦しげに呼吸を荒くする天門坂の様子に満足したのか、髪を掻き上げた枯さんはまた口元に歪な笑いを作り出した。

「そういえばさあ、一つ疑問にだったんだけどね」

 くるり、とナイフを逆手に持ち直す。

「君、なんでさっき俺を殺さなかったの?」

 それを問う男の瞳に感情の色はない。

 それを問われる少女の瞳には、それ以上に色がない。虚ろで胡乱な、果てのない絶望が渦巻く空白みたいな孔が感情もなく僕を見ていた。目が合った気がして、けれどやはり偶然だったのだろう。頬を地に擦り付けるような姿勢が、たまたまこちらに顔を向けていただけだ。

「答えなよ。……ああ、そうかい。分かったよ。君は優しく扱われるのは趣味じゃないわけだね。とんだ変態だ。なら望み通りにしてやるよ。痛いのは嫌いじゃないみたいだから、ね」

 言うなり、天門坂の胸倉を掴み上げる。引き起こされた体。付属された首はそこだけが別神経を経由しているように、力なく垂れ下がっている。まるで人形だ。天門坂の自我が、この時既に崩壊していた。

「ほら、じゃあ一回目だ」

 喜色の色。唇を吊り上げ――なんの迷いもなく天門坂の肩口を斬り付けた。遙風と同じ部位。出血が吹き出す。返り血を浴びて光悦とする殺人鬼。その手に取られた人形は……天門坂はそれで意識を回帰させる。まるで痛みを感じる為だけに気を持ち直したように。今度こそ堪えることもなく、喉を切り裂く絶叫を響かせた。

「ははは! いいじゃないか! ちゃんと鳴けるじゃないか人外!」

 加速する。虐待の手。食い込む刀身。吹き出す血液。飛び散る鮮血。木霊する悲鳴。

 耳を塞ぎたい。目を背けたい。今すぐに駆け寄りたい。だがその全ての望みが僕には許されない。後者はこの脚が動かない所為。前者二つは、それをしてしまえば苦しんでいる天門坂を見捨てることになりそうだから。

 僕は呪詛の言葉を吐き出して、歓喜する異常者を罵ることしかできない。

 それさえ、彼の哄笑の前では微々たる振幅でしかなく、軽く飲み込まれて消えていく。無力だ。この場において久刻十字は悉く無力。声を上げて苦しむ少女を救うことも出来なければ、同じ苦しみを背負うことも出来ない。

 のそり、と未美好ちゃんが体を起こすのが視界に入り込んだ。

 血で湿った綺麗な黒色の光沢を垂れ提げ、まだ整わない息を調整している。理性を取り戻した童女は、目の前で繰り広げられる虐殺から目を逸らしていた。硬く瞼を閉じて、体を震わせて見ないようにしている。

 ざくり。嫌な音を聞いた。

 最後、天門坂の嗚咽交じりの絶叫が聞こえた。

 見れば、彼女は全身傷だらけだ。それはまるで多くの被害者のように。彼女と出逢ったあの夜に見つけた死体と同じか、それ以上。致命傷を器用に避けた無数の傷から滲み出る鮮血。細くて綺麗な腕も、脚も、腹にも、背にも、胸にも。唯一その端正な顔だけは避けられて、刻まれた傷の数は数えることを嘲笑うような多数。

 喘ぐ声、辛うじて行える呼吸がそれを苦悶にして音を生み出している。枯さんが手を離すと、天門坂の体は無力に横たわった。

「さて、同じ質問だ。どうして、俺を殺さなかったんだ?」

 横顔を踏みつけて、男が問う。

「答えろよ、終わりの月――!」

 踏み鳴らす。鈍い音。耳を塞ぎたくなるなんてものじゃない。今すぐに鼓膜を爆発させたい。この目も、少女の存在を感じる全ての感覚器官を破壊してしまいたい。

「……………………だって、嫌、だから」

 虐げる、その蹂躙の中で、天門坂が言った。

「……殺しちゃったら、戻れない、もん。十字が……信じてくれるって、言って、くれたのに。裏切りたく、なかったんだ」

 やっと気付いた。天門坂は僕を見ている。その、消えそうな眼光を絶やさぬように守りながら、傷付いた体を気にするよりも、それを為す術なく見ていただけの僕を。――何故か、大切な何かを見るような顔をして。死にそうな重傷でも、安堵したみたいに。

「天門坂……お前、そんなことで」

「わたしを……認めてくれたから、十字が。……なのに、なにもかも捨てるなんて、出来ない」

「…………だからって、それじゃあお前が」

 自分が、潰れてしまう。今にも消えそうな瞳の色を、失ってしまう。

 やっと、そんな人間らしい顔が出来るようになった癖に。

 皮肉でなくても、強がりじゃなくても、笑えるようになったのに。

 全部、消えてなくなるじゃないか。

「……いいんだよ、わたしのことは。これが……報いなんだから」

 本当に、汚れた顔を本当に幸せそうに綻ばせて。

 涙を流しながら、その少女は――笑っていた。今が幸福だと、こんな地獄よりも酷い世界の中で。強く、幸福を噛み締めて安堵した少女の笑顔。初めて見せた、心からの欣喜。天門坂一月――終わりの月と呼ばれた少女が、おそらく七年振りに他人に明かした本音。

 それを、足蹴にして、怒髪する黒い虐待。

「笑わせるなよ、終わりの月」

 苦悶が少女の笑顔を破綻させる。

「なにが戻れるだよ。どこに、戻るんだ? 見てみろよ、これ。この場所。全部なくなってるだろ。全部終わってんだろ。誰の所為か分かってるよな! お前だよ! お前が原因なんだよ! お前の所為で死んだんだから、お前が殺したのと同じじゃないか! それを今更、何百の何千の幸せを破滅させたお前が――自分だけ人並みの幸福を享受しようなんて、虫が良すぎるんだよ」

 蹴り飛ばされる、少女の体。もう加えられる力に抵抗など出来なくて、転がる体は瓦礫にぶつかって動きを止める。そうなった天門坂は、死んでしまったように動かなかった。

「……さて、と」

 濁った目が、僕を振り向いた。

「話の続きだよ、久刻くん。……あれ? なんだっけ、まあいいや」

 優しい、笑顔。いつもの隣に住んでいる話好きな青年の顔になって、

「俺は別に、君を殺す気はないんだ。虐げようとも思わない。久刻くん、俺たちは同志だ」

 身を屈める。

 悪魔のような微笑が、血に濡れた笑顔が提案する。

「天門坂一月を殺せ、久刻くん」

 絶望の輝きで、赤く濡れた刃を光らせるナイフが、差し出された。



 *



「なにを……言ってんだよ、てめえ」

 沸騰する精神で、どうにかそれを言葉にする。

 冷ややかに笑って、黒いソレは答えた。

「意味はそのままだよ。君の願いを叶えてやろう、ってそう言っているんだよ。なあ、久刻くん。君、本当はこの娘が憎いんじゃないのかい? 考えてみろ。七年前、君は全てを失くした。奪われたんだ。あの震災に便乗した、忌まわしい計画の為に。君は元々狂ってなんかいなかった。普通に生きられるはずだったんだよ。なのに、家を奪われ、街を奪われ、家族を奪われ、生活を奪われ、人生を壊された。恨んでいいんだよ、君は。同情されるべきだ。報われるべきだ。狂ってしまった人生の――復讐をするべきなんだ」

 真剣な表情で枯さんが言っていた。それは天門坂に向けて罵倒を紡いでいたときの顔ではなく、心から久刻十字の境遇を嘆いて共感している、そんな表情。

 七年前の震災。

 全てを失くしたあの夜。

 ……思い出せ、僕は、どうして天門坂のことを調べようとしていた? 遙風に彼女のことを訊いたのは何故だ。この旧都で天門坂を見かけたから。そんなことじゃないだろ。彼女の姿が似ていたから、気に掛けた。天門坂標月に似たその少女に興味を持った。

 だけど真意は。

 こんな場所を訪れる理由が普通ならない。そんな理由から漠然と彼女を疑った。姉さんがいなくなったことで気が可笑しくなっていたのだろう。手当たり次第を疑う疑心暗鬼。目に映る何もかもが怪しく見えた。

 悪いことに、その疑いはあの昼休みで加速したのだ。そして確信に至ったのは、天門坂自身の告白。久刻十字から何もかもを奪い去った震災。回避出来るはずだった崩壊。その逃げ道を塞いだ、天門坂家の実験。恨みがないといえば、そんなのは嘘になる。

 復讐。……天門坂一月への、復讐。

 果たされなかった、救われたかった全ての人たちの願い。この街で消えた多くの願いを、根こそぎ摘み取ったその存在。終わりの月は旧都の仇。そうだ。もしも何も起きていなかったならば、誰も傷付かなかった。箱崎は死ななかったし、遙風も消えなくて済んでいたはずだ。

 夜杜兄妹も、こんな異常者に成り果てる前に普通の人生を送れていた。誰かを殺すようなことをしなくて済んだ。誰もが幸福な日常が、そこにあって、絶望の夜は訪れない。諸悪の根源。全ての、悲しみの始まり。

 天門坂が、『箱庭プロジェクト』がなければ誰の人生も狂わなかったのに。

 失われたモノが多すぎた。涙を流した人の数は、数え切れない。終わりの夜。破滅の月が煌く崩壊の日、生きたいと願った全ての犠牲者。――その懇願を笑いながら踏み潰した、家系。

 生きたい、と誰かが泣いていた。

 助けて、と誰かが求めていた。

 その声が始まり。復讐の鎖が繋がる杭。その杭がなければよかったのにと――そうだ、天門坂がなければ。

 大切な人を失わずに済んだ。箱崎も遙風も、姉さんも、誰も彼も死ぬこともなかったのに。


 ――出会うことも、なかったのに。


 震える手で、それを掴んだ。黒い殺傷衝動はその僕を見て満足気に微笑む。

 いいのか、これで。

 これで、間違っていないのか。

 僕は、焼けたコンクリートから背中を離す。受け取った凶器をしっかりと握り締めた。

 これで最後。

 全ての決着。

 いいじゃないか。そうする為に、ここに来たんだろ。

 なら迷うことはない。

 手の中にある無情の重みを確かめる。

 久刻十字はその感触を握り締め、

 その切っ先を、

 ――夜杜枯に、振り上げた。

「断る。僕はあんたみたいにはならない。あの震災の結果で誰かを恨むのは間違ってる。天門坂を殺したからって、何も変わらない。あの夜はもう過去のことだし、失われたものは永遠に還らない。なら、復讐なんて意味を持たないんだ。……少なくとも、救われた僕が彼女を恨むのは間違ってる。自分一人が助けられた身で、それでも天門坂を恨むなんて出来ない。報われなかった全ての人達の為にも――あの崩壊の責任を誰かに押し付けるなんて、してはいけないんだ……!」

 枯さんは、刃の刺さった自分の肩を興味なさそうに見ていた。

「久刻十字は今ここに在って、今の日々を貰った。――箱崎や遙風、標月姉さんと出逢えた『今』をくれたのが天門坂一月なら、僕は彼女に感謝だってする。そうだよ。確かにいつかの日々はなくなったけれど、それでも僕は今が好きだから――そんな間違った復讐なんて、絶対にしない」

 握った柄に力を籠めた。叫びの度に刀身を押し込んでいく。強く握りすぎて、掌には血が滲んでいるのか湿っていた。熱い血の滾り。枯さんの肩口から、背後に倒れている天門坂を見据える。聞こえているかは分からなかったが、病院で言えなかったことを口に出す。

「僕は天門坂が好きだから、あいつを恨んだりしない。復讐がしたいなら、そんなのはあんた一人でやってろ。僕は前に進む、生き残った罪も何もかもを背負って、だからそんな間違った復讐なんて絶対に認めない……!」

 久刻十字の啖呵を受けて、夜杜枯は動かなかった。

 感慨もなしに傷口を見下ろしたまま、無色の感情が瞳に濁っている。

 やがて――冷たい手が僕の手首を締め上げた。慄いたのは万力染みた握力よりも、それをする枯さんの形相。表情こそは色を持たないそれでありながら、目だけは、刃物の鋭さを伴う殺意に煌いていた。天門坂に終始向けられていたその眼光が、今は僕に向いている。

 咄嗟にナイフを離してしまう。それが、合図になった。

「痛いよ、久刻くん」

 当たり前の感想。

「分からないかな、刺されたら痛いんだよ。俺だって痛い。君さ、それくらい分かるだろ?」

 蹴り付けられる傷口。完全に塞がっていないそこを踏み付け、捻られる。

「あ……ぐ…………」

 思ったよりも声が出ない。そんな激痛。痛覚神経を直接切り刻まれているような感覚だ。分かる。血が滲みながら熱を帯びていく傷口。噴き出す血潮は叫びの代償。痛みと相乗して天井を知らない激痛が全身を駆け巡る。

 ぐちゃり。自分の体から聞こえたと、思いたくないその音。枯さんが脚を離すと、それが蓋の役目をしていたのだろう、塞き止められていた鮮血が一気に溢れ出した。熱く、燃え上がるような激痛。視界が霞む。意識が白む。

 だがそれを許さない追撃。追い討ち。肩のその一点に絞られて、蹂躙は続く。

「痛いってば、ほら見ろよ、こんなに深く刺さってる。でも残念だなあ、ここじゃ死なないんだよ。心臓の位置は知ってるよな? なら狙えよ。まさか殺したくないとか言わないよな? そんな覚悟もない癖に人に痛い思いさせたんじゃないだろうなあ? あー、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。惜しいな、折同じ相手を見つけたと思ったのに」

 傷口を嬲るのに飽きたのか、今度は逆の肩。腹、胸、頭、頬と、各部を丹念に蹴り上げられる。骨の砕ける音が聞こえた気がした。全身から、生きる力が抜けていく。傷口からは、何か零してはいけないものが出て行く気がする。

 一秒ごとに確実に、あの夜と同じ状態に自分が戻っていく。

 死を受け入れて生存を諦めた、あの時のように体が死んでいく。

 けれど、違うこともあった。

「残念だなあ、惜しいなあ――久刻くんを、殺さないといけないなんて」

 ――体は死を認めていても、心は、最後まで生きていたいと願い続けていた。

 顎の下から突き上げる、強烈な蹴り。部分的には上段だが、それを行う側には下段。威力は脳を貫いて意識を白濁させる凶悪無比。まだ生きてる自分が逆に不思議なくらいだ。

「いいや、もう。全部終わりにしよう。君の言う通り、俺は俺の復讐を果たすとしよう」

 他人事のように自分の肩からナイフを抜き取って、ソレは破壊し尽くした僕に背を向ける。

 夜杜枯の目標はこの瞬間、天門坂一月へと変更された。

「そこで見てなよ。君が好きだって言ったその娘が、ばらばらに引き裂かれるのをさ」

「…………め、ろ」

 上手く話せない。口の中が切れていた。

 夢遊病患者のようなふらつく足取りで、凶器を携えた殺人鬼は倒れ伏す少女に近づく。

 ふらり、ふらり。満たされ過ぎた欲求の反動か、定まらない足取りが些細なことで躓いて転んでしまいそうに見える。動かない体。出せない声。目の前の虐殺を止める手段が僕にはない。足は動かない。だから手を伸ばす。傷が痛むことなど意に介さず。激痛の果てに意識を飛ばしそうになりながら、その痛みで自我を打ち鳴らしてここに繋ぎ止める。

 伸ばした手。

 だが、それは。

 あの夜と同じで、直ぐ傍の月には届かない。

「…………どういう、つもりだ?」

 だから、ソレが立ち止まったのは別の理由。他の要因に、それは脚を取られてしまったのだ。

 そこで気がついた。目の焦点がっていない。白い靄が掛かっているように、目が霞んでいた。ほとんど盲目の状態。光がないのではなく、些細な光さえこの体には強過ぎて耐え切れない。網膜が焼かれている。……見せろ。そこで何が起きてる。僕にも、それを見せろ。

 強く願うことで無理矢理に視界を回復させた。目を凝らすことであらゆる体の部位が痛みを訴える。意識を叱咤して、僕は見た。

「未美好、そこをどけ」

 黒い殺人鬼の前に、両手を広げて立ち塞がる小さな少女の姿を。

「どけってば、未美好」

「嫌……です、兄さま」

「俺の言うことが聞けないのか? ……早く、どいてくれ。邪魔しないでくれ、未美好」

「や…………嫌です。もう、止めてくださいカラス兄さま」

 舌打ちが聞こえて、未美好ちゃんの矮躯が撥ね飛ばされる。悲痛な叫び。今日、誰よりもか弱くそして悲痛を感じさせるその少女の声。僕は目を疑っていた。あの、夜杜枯が、それだけはしないと思っていのに。未美好ちゃんを足蹴にするなど、信じられなかった。

 それだけで動かなくなる矮躯。未美好ちゃんの体格では一撃で動けなくなるのが必然だ。だというのに、彼女は、這いながら全身を引き摺って兄に迫る。今正に自分を蹴り飛ばした爪先に縋り付くように、脚を全身で抱擁して封じる。

 あまりに、弱過ぎる拘束。黒い殺戮が躊躇なく、未美好ちゃんを振り落とした。

「お願いします……カラス兄さま……。もう、やめて……! やめてよ――お兄ちゃん!」

 何度も振り払われ、何度も脚にしがみ付く。

 涙を流す懇願を見下ろす内、遂に枯さんの感情が爆発した。

 子猫を持ち上げるようにして、その首根っこを掴んでひょいと持ち上げる。

「なにが気に入らないんだよ未美好! 俺は、お前は、この女の所為でこんなにされたんだろ! 俺もお前も他の誰も彼も、傷付かずに済んだんだ! 悲しまずに済んだ。そうすれば、俺は、俺達は――人並みに、生きられたのに……!」

「だめっ、だめだよぉ……お兄ちゃん。未美好のことならどんなに苛めてもいいから、痛いの、我慢するから! だからもう、十字お兄ちゃんを苛めないでよ……! そのお姉ちゃんも、やめてあげて。……お願い……お願いします!」

「なんでだよ未美好! お前だって泣いてだろ! こんなのは嫌だって泣いてたじゃないか! 何で分かってくれない! 俺はお前の為に、何人も人を殺してきた! 虐げるだけでなく、殺してきたんだ! お前の為だぞ!? なあ、そこまでした俺をなんで止めるんだよ。もう最後の仕上げなんだ! これで、全部終わりに――」

「――だって、お兄ちゃんが悲しそうだから……!」

 いつもの礼儀正しさをかなぐり捨てて、普通の童女がそこで手足をばたつかせていた。駄々を捏ねるように泣いている。泣き叫んで、涙を流していた。――その涙の原因が兄にあって、その兄を哀れんで。自分の境遇を喘ぐのではなく、体の痛みを訴えるのではなく。ただその兄が悲しいから、泣いていた。

「お兄ちゃん……いつもミミズクを叩くときは辛そうだから。無理して笑ってたから。今だって、ずっと苦しそうにしてるよ。……もう嫌だよ、お兄ちゃん。やめようよ、こんなこと」

 懇願する。

 涙の雫が、血のついた兄の頬を洗い流すように滑っていく。

 枯さんは、夜杜枯は――夜杜未美好の兄は、

「ははは」

 乾いた笑いを、零していた。

 未美好ちゃんを下ろす。尚も続く哄笑。止まらない笑いに額を押さえて天を仰ぐ。

「ははははははははははははははははははははははははははは! そうか! 俺が悲しそうか! そんな俺を見ているのが辛いか、悲しいか、未美好! お前を毎日苛めてきたのは俺だぞ! そんな俺を、俺を――」

 その続きを、彼は声に出来なかった。

 嗚咽が、それを邪魔したから。

「優しいな、未美好。本当に、いい子だ」

 頭を撫でる、震える大きな手。泣きじゃくる子供をあやすような優しい声。

 ……そういえば、未美好ちゃんは言っていた。

「なあ、未美好。俺なんかが……お前の兄で、家族でよかったのかな……?」

 ――カラス兄さまはとても、可哀想な人ですから。

 満面に、濡れた笑顔と赤い頬で頷くその少女。

「ミミズクは、お兄ちゃんが大好きです。ずっと、ずっと」

 ――だから、ミミズクが傍にいるです。

 ――カラス兄さまの傍には、ミミズクがいないといけないんです。

 それを言った彼女の顔はどうだった。

 忘れるわけがない。

 無邪気に無垢に純粋に、幸せに綻んだ晴れやかな笑顔で、兄を語る時の夜杜未美好は笑っていた。

 ――ミミズクの兄さまは――

「夜杜未美好のお兄ちゃんは、枯お兄ちゃんだけです」

 いつものように笑って。いつかとよく似た台詞を口にする。

 枯さんが膝を屈した。立っていられなくなったように崩れて、その姿勢で妹をきつく抱きしめる。……少しだけ、その心境が分かった。抱きしめた理由は、少なくとも。兄としてはやはり、泣いている顔を見せたくなかったのだろう。

「…………ありがとう未美好。ありがとう、本当に。それで――お終いだ」

 華奢な肩を掴んで、言い聞かせるような形で未美好ちゃんに言う。

「いっぱい傷つけて、ごめんな。終わりだ。――もう我慢しなくていい。俺を、食べていいよ」

 驚愕は誰のものだったか、未美好ちゃんは一度だけ悲しそうに目を見開いて、けれど直ぐに兄の意思を汲み取った。終わらせる。彼らが彼らである限り、その呪いは消えない。自らが衝動であるから、抗えない。ならば、何を持って終わりにするのか。

 決まっている。

 現象そのものを、殺せばいい。

 未美好ちゃんと手を繋いで、枯さんが迷路の奥に去っていく。夜杜兄妹は闇に溶けかけるほどの距離を歩いてからふと思い出したみたいに立ち止まると、枯さんはその視線を僕へと向けた。さよならを言い忘れた、そんな程度の軽い雰囲気。

「最後にさ、伝えとかなきゃいけないことがあるんだよ。そっちの、天門坂一月も。多分聞こえてると思うけどね、聞こえてなかったら君から言ってやってくれ」

 前置きは、それだけ。

「俺は天門坂を恨んでる。だけど復讐は止めだ。久刻くんの言う通り、意味がない」

 それと、と、付け加えられたのは――天門坂標月の最期だった。

「天門坂……久刻標月の遺言だ。彼女、自分の死に際だってのに、弟の心配してたんだよ。『ありがとう、いっしょにいてくれて』だとさ。君さ、本当に愛されてたんだよ。それからもう一つ教えてくれたよ。彼女、よくこの辺をうろついてたんだけど、その理由を訊いたら」

 天門坂に向けて、初めて彼が見せた、それは優しさのある微笑。

「妹を捜してるんだとさ。七年間ずっと。ここでなら、再会できると信じてたらしいよ」



 *



 何もかもが終わったその空間は、恐ろしいほど閑静で物寂しく、余韻というには虚し過ぎる静寂だけが残された。ここでさっきまで起こっていたことが現実なのだと、信じられないくらいに。あれは白昼夢でしかなかったと、赤い瓦礫を見てもまだ思えるほど。ここは、終わっていた。

「ご――ほ……っ」

 不意に吐血してしまう。内臓が破損しているのかもしれない。それを感覚で測れるほど、僕はフィクションの存在ではないので真偽は不明であるが。だが自分が今瀕死の状態にあることはノンフィクションの存在でも容易に理解出来た。

 好き放題蹴られ、殴られた体の節々もそうだが、何よりこじ開けられた切り傷が尋常じゃなく痛い。

 放っておいたらそこからの熱で全身が溶けてしまうんじゃないかと、そんな風に思う。痛くて、熱いのだ。この熱が冷え始めた頃、本格的に人間は死ぬのかと思うと、今はその熱が愛しい。どうやら久刻十字はまだ、死にたくないと思っているらしかったから。

 満身創痍の体に激励して、無理矢理に立ち上がろうとする。瞬間、迸る激痛。意識を拐う常軌を逸した痛みが脚を蹂躙した。雷に打たれたようだ、と体験したこともないそれを比喩にして倒れる。起き上がる気力も体力も、既にない。という以前に、脚が使い物にならない状態なのだと思い出した。

 だったらと、這う姿勢のまま肘で体を引き摺った。匍匐前進なら脚に負担は掛からない。だがやはり、今の状態では何をやっても駄目らしい。そもそも、これでは確かに脚に負担はないがそれ以上に重傷を負った肩に負荷が掛かり過ぎる。腕を突き出す度、肘を下ろす毎に、体が前に進むに連れて意識は一歩ずつ闇に近付いていく。途切れそうになるのを繋ぎ止めるのに必死だった。次の瞬間には、もう指一本動かせなくなるかもしれない。漠然とした不安が悪魔のイメージになって付き纏う、嘲笑ものの自殺行為。

 そうしてでもやはり、それを止めることは出来なかった。今の久刻十字に取って、止まることは死ぬことと同義。この前進を諦めれば――目指す先に横たわる少女が二度と笑ってくれない気がして。それだけは、死んでも嫌だった。

「天門坂……天門、坂……!」

 手を伸ばす。今の自分の中にはそれしか残っていないことを自覚した。

 天門坂一月。

 終わりの月と呼ばれた少女が、本音で言ったのだから。ここにいたい、と。同じ場所にいたいと言ってくれたことが嬉しかった。偽りなく、彼女の持つ弱さを見せてくれたことが本当に。泣きたくなるくらい。嬉しかったから。

「天門坂……君を、一人になんて、しない」

 譫言のように口にする度込み上げる血の味。嘔吐するみたいに吐き出すのを避けようとして、溜まったそれが呼吸の邪魔をする。息が詰まる。一度だけ吐き出して、大きく息を吸った。

「なんで……そこまでするのよ、十字」

 仰向けに倒れた天門坂が、消えそうな声でそんなことを聞いてくる。と、突然咳き込んでしまう。……どうやらお互いに言葉を紡ぐというのは自殺行為らしい。肺が酸素の吸引を拒絶している。これ以上は働けない、と痛みは人体のストライキ。もう休ませろと訴える声。

 だが生憎と聞く気にはなれなかった。体は迫る死を受け入れていても、心はどうあっても認めていない。まだここにいたいと言っている。まだ生きていたいのだと、生命を削りながら打ち鳴らす鼓動が叫ぶ。

 傷だらけにされた天門坂の腕を首に掛ける。酷く歪で、意味がないように見えるが、お互いに死に損ないでおまけに脚が機能しないと来ている。ならこんな形でも無意味ではないはずだ。これならまだ、天門坂に比べて傷の浅い僕が彼女を運ぶことが出来る。

「……なにやってんのよ、アンタ。いいから離しなさい……! わたしのことなんて、いいから。アンタだけなら、新都に行けるでしょ。そうすれば、助けも呼べるじゃない……!」

 どこにそんな元気を隠し持っていたのやら、天門坂が威勢よく怒鳴る。……なるほど、意識だけは腐っても天門坂らしい。暴れて抵抗することも出来ないくせに声だけを張り上げて、まだ文句を言ってくるほどの気力が残っていた。もしかしたらこいつ、僕より動けるんじゃないのか本当は。

「お願いだから……アンタには生きてて欲しいのに。嫌だよ……わたしの所為で誰かが死ぬなんて。わたしは、この街の人達を殺した責任があるから……! もういいのよ……助かりたいなんて、思っていいわけないのに……」

「……うるさい。少し、黙ってろ」

 叫ばれるとそれだけで耳が千切れるような錯覚を覚える。聴覚と痛覚が連動していた。聴覚だけではなく他の全ての感覚が痛覚を呼び起こすスイッチになっている。前に進むほど、代償に消えていくのは久刻十字が生きるために必要な何か。続ければ待っているのは終わりだ。分かってはいるけれど、止まれない。

「離してよ……十字。わたしは、貴方に死んで欲しくないのよ……。貴方はわたしに、生きていたいって思わせてくれたから――人並みに、扱って……くれたから」

「だったら……尚更放っとけないだろ。僕の所為で生きたいって思ったんだったら、僕がそれを叶えるのが筋だ」

「違うよ。もういいってば、そんなこと……。それだけで十分だったから、わたしは。そんな願い、本当は許されないから。――この場所で、幾つものそんな願いを殺したのはわたしだから……!」

「……うるせえよ」

 感覚も消えてきた。指先が地面に触れても、もう何も感じない。なのに厄介なのは一つだけ残留するこの痛覚だった。他の余計なものがなくなって、一層好き勝手暴れ回ってくれる。いい加減、厳しくなってきたかもしれない。

 折れそうな心を叱咤激励、天門坂への言葉は久刻十字を繋ぎ止める為の代償行為。

「……いいんだよ、そんなのは。願っていいんだ、お前も。それに僕だって……天門坂に生きていて欲しいんだよ。だから、いっしょに帰ろう。終ったんだから、全部。日常に帰ろう」

 こんな場所にはもういられない。ここは一切合切の終わった街。こんなところにいては何も変わらないし始まらない。だから帰るんだ。この外にあるくだらない幸せな日々へと。いつか天門坂標月という始まりの月が久刻十字にくれた、日常という幸福に。

 喉を震わせて、天門坂。都合のいい捉え方をするなら、その声は泣き声で、それも歓喜の涙を流す嗚咽だった。

「わたしは……人殺しなのに……それでも、生きていていいのかな……?」

「お前は誰も殺していない」

「……いつか、耐えきれなくなる。この街の壊した責任に、きっと、わたしは耐えられないよ」

「なら僕がいっしょに背負ってやる。お前が辛いなら、同じ苦しみを受け持ってやる」

「わたし、は……わたしは……」

 落ちていく綺麗な雫。それを指で拭ってやることは出来ないが、地に落ちたそれを見送ることは出来た。耳元で最後の言葉を繰り返している天門坂は、本当に、どんな時よりも弱いのに、どんな時よりも生きていた。実際に背負ってみて分かるその軽さ。強がってばかりの彼女は何を言ってもやはり、一人の少女でしかない。

「わたしは、貴方が憎い。殺したいくらい、恨んでる」

「言っただろ。構わない。君の好きにすればいい」

 天門坂にはその権利があるし、久刻十字にはそうされる責任がある。だから――

「――だから傍にいる。君に生かして貰った命だから、死ぬ時は君に殺されないと勝手には死ねないんだ。そうなる一瞬、その直前まで隣で同じ罪を背負う。君が思い返して悲しむ罪を、少しでも肩代わりする。約束だ――何があっても、僕は君を一人にしない」

 何度も何度も、肩越しに頷いてくれる感触を感じる。痛みは忘れていない。どんなに微々たる衝撃も意識を焼き払う激痛になり得るが今だけは、それさえ尊い。ここに天門坂がいて、生きている証がそれだったから。

「勘違い……しないでよね」

 声が普段の気丈さを取り戻していく。虚勢だなんて分かっていた。けれど彼女が彼女らしくあれるのならば、それも悪くないと思う。

「アンタのことが心配なんじゃ、ないんだから」

 いつか聞いたその前置き。

 違っていたのはその先で、

「十字を殺すのはわたしだから、死なれたら困るのよ。……だから死なないで。いつか気紛れにわたしが、アンタに復讐したくなった時――それが出来るように、生きて、傍にいるって約束して」

 久刻十字はきっと、その日交わした誓いを生涯忘れることはない。

 世界は決して永遠ではないけれど、願わくばこの約束が果てまで続きますように。終わりの月が世界を照らす、その最後の瞬間まで。ずっと、大切にしていよう。

 守り続けると、心に決めた。

 天門坂と交わした――その約束を。

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