/Ⅳ
/4
箱崎外流殺害について、久刻十字が一時間程度の事情聴取だけで解放されたのはおそらく天門坂の家の力だと思う。幸いにも僕は犯人と疑われることはなく後輩を殺された先輩ということで理解を得た。何の間違いもない認識だが、自分が無罪放免にされたことがここまで不快なのは何故だろう。そして付き纏う罪悪感の正体にも今はまだ至れそうにない。というよりも当分はまともな思考を展開出来る気がしなかった。
「遅かったわね久刻くん。貴方は無実だってくらい、すぐにでも分かりそうなものなのに」
夜の帰り道。街灯の下で天門坂が僕を待っていた。こいつも事情聴取をされたのかと考えてみるが、それはないだろうと結論を下す。遙風の話ではこの街における天門坂家の権力は法を凌駕しているらしい。勿論誇張はあるだろうけれど、証拠不十分ではかの天門坂のご令嬢を拘束するなど笑止千万だ。
「大分疲れてるみたいだけど大丈夫?」
「大丈夫じゃないって言ったら、お前は大人しく僕を帰してくれるのか?」
「まさか。話があるから待ってたのに、ここでアンタを帰したらわたしの時間は無駄になるじゃない」
街灯に凭れて腕を組む。話とは何か。夕方旧都に行かなかったことを怒っているようではなさそうだし、だとしたら他に天門坂が僕に対してする話とはなんだ。散々人をこの件から遠ざけようとしておいて、協力的な部分を見せるのも妙である。
天門坂は冬の空を見上げる。人工の光のその向こうに点る星の数を数えるように。しばらく間を置いてから話し始めたのは、天門坂の都合というよりもこちらが聞き手としての準備を整える猶予をくれたと思った方が妥当だろう。
「久刻くん、少し昔話してもいい?」
断ったって、どうせ話すのだろうから僕は何も答えなかった。否定も肯定も天門坂を前にしては何の意味も持たない意思表示でしかない。ならば受動的になろう。今は誰かに流されている方が楽で助かる。
「遙風輪廻に聞いて色々知ってると思うけど、貴方、旧都が健在だった頃の天門坂家についてどこまで知ってるの?」
天門坂、本家。七年前に旧都と共に途絶えた家系。僕は思い出す。昼休み、遙風が語ったこと。彼女は何と言っていたのか――そうだ思い出した。遙風は確か、「天門坂は世界を超えようとした一族」とその血統を称していたのだ。
「そう。世界を、ね。うん、まあ、詳しいことはわたしも知らないけど、そんな感じよ」
「怒らないのか?」
「なにが?」
きょとん、とした表情が首を傾げる。恐ろしく整った顔が少しだけ幼げに見える仕草だった。
「なにがって、普通自分のこと色々と詮索されたら気分悪いんじゃないのか?」
そう思うから僕は遙風を経由して自分的には秘密裏に天門坂を調べていたのだ。本人に色々と尋ねるのは常識的な方法とは言えないだろう。だからこそ――二週間前を境にして頻繁に旧都、災害跡に訪れ始めた天門坂の情報をこそこそと嗅ぎ回っていたというのに。
あっけらかんとして、天門坂。小さく悪戯っぽく、くすりと笑う。
「別にいいよ。お互い様だから。わたしもね、久刻くんのことは調べてたの」
「お前が? なんでさ」
「言ったでしょ。わたしは貴方を恨んでるって。……あ、違うかな。それだと逆だ」
一人で納得して頷いたりしているが、何のことか説明を求めてもいいか。
「悪いけど、その話は後で」
質問の権限は与えられていなかった。
釈明するように冗談交じりの軽い笑顔を含んで天門坂が続ける。
「今の段階だとわたしの方が久刻くんのことを知り過ぎてるから、不公平なのよ。だから知っておいて、わたしのことも。――天門坂家のしていたことも全部。貴方にはその権利があるから。あの震災で唯一生き残った『正常な人間』として、貴方には知る権利があるのよ」
それは遠い夜空の星に呟くような声で、この時初めて久刻十字は天門坂一月が人間らしい表情を浮かべるのを見た。空には月。金色が見下ろす深遠の世界の中で、天門坂が静かに語り始めた。
*
「『箱庭プロジェクト』――天門坂の連中はその実験をそんな風に呼んでいたわ」
事は遡ること三十年前。当時の天門坂家当主の発案により立脚した計画に与えられた名前が天門坂の口にする『箱庭プロジェクト』だったらしい。
「旧都を支配していた天門坂は広大な土地と巨大過ぎる屋敷、それから傘下にあった幾つかの家系と有力な外部の家系と提携することによってその計画を実行に移したの。――『箱庭プロジェクト』。忌まわしい計画の概要は簡単で、そうね、久刻くんの言った通り……つまり遙風輪廻の表現が正しいことになるけど……とどのつまりわたし達がしたかったことは、人間という素体を使って世界を壊す鍵を創ろうとしていたのよ。人間を人間としてではなく、ある一つの『衝動』や『現象』として先天的な異常者を造り出す。言ってみればそんなところ。少しでも世界にとって不都合な存在を、人工的に造り上げようとしたのが『箱庭プロジェクト』」
世界。
ここで天門坂の口にする世界とは即ち惑星という意味ではなくおそらくは、概念的に人間を存在足らしめる境界のようなものを指すのだろう。それを破却するために『人間』という現象を作り替え、ある一つの『衝動』として生成する。いわばヒトの形を持った混沌衝動。それ自体が既に成立した現象であり衝動であるがために、周囲に絶対的な影響を及ぼす因果の相対的矛盾の存在。世界を壊す鍵。つまり因果の鎖により形成される運命の流動を断ち切る破綻。天門坂が求めたのは、そんな存在。
「だけど、結果は言わなくても分かるでしょ。結局世界を超えることなんて出来なかった、ましてや壊すなんてこと。プロジェクトはただ破綻者を造り出すだけの異常生成機関でしかなくなった」
天門坂家の至った結論。やはり、世界には敵わない。僕達が僕達である以上、例え人間が人間としてでなく一つの衝動の形として造られようとも変わりはしない。何にしたって、全ての現象は世界の上に成り立つのだから。それに抗うことが出来ないのは必然。世界を否定することは己が存在を否定することと同義。完全な意味でレゾンデートルを剥奪することなど、世界に有る上では人工に行うことの出来ない業だ。
「そうして年月を費やして、たくさんの破綻者、異常者の生成を繰り返し――何人もの人間を境界の外に追いやった天門坂家は、だけどそれさえ計画の前準備でしかなかった、なんて平気で言うんだから本当にどうかしてるわよ。結論からして、全ては『箱庭プロジェクト』の前実験程度でしかなかったの。それが始まったのは発案から数年後。わたしの、姉さんが生まれた年からだった」
姉、その言葉に思考が止まる。まるで意識を鷲掴みにされたような感覚。異常だったのは、その単語を口にした瞬間の天門坂だった。思い出したくない記憶を無理矢理押さえ付けて否定した、そんな苦しさを滲ませる表情の歪みが確かに見えて、今までのどんな時よりも人間らしい一面を覗かせたというのにその実、僕が覚えたのは戦慄。いつかナイフを突き付けられた夜と同じ、寒気が体中を這い回る不快感。
僕の思考を断絶するように天門坂がその先を続ける。
「結局のところ『箱庭プロジェクト』ってのはわたし達姉妹を披検体にした実験だったのよ。そう。世界を超えるなんて不可能。世界を壊すなんてことは出来ない。子供にだって分かる答えよね、そんなの。だから方法を変えた。――世界を超えるのではなく、世界を生み出すってことにね。バカらしいでしょ? 壊せないものを創るなんて。いつだって何だって、創るよりも壊す方が簡単なのに」
笑っちゃうよね、言いながら天門坂自身は一切笑っていない。表情に含まれる成分の一粒にだってご機嫌な要素などあらず、星を見上げる横顔はどこか悲哀の色を帯びていた。
「箱庭。世界を表すその概念はね、外界からの干渉の一切をなくした閉じた空間。わたしと姉さんは同じように屋敷の中で幽閉されるように育てられた。孤独に寄り添って。絶望に身を寄せて。衝動は『邂逅』と『終焉』。始まりと終わりを繋いだ閉じて完結した世界。わたし達は対となる現象として世界の製作の軸にされるはずだった」
――はずだった。故意に、それが叶えられなかった目的であることを強調する。
そこまで聞けば、あるいはそれさえ聞けばその後を想像するのは容易い。天門坂の言おうとすること、何故『箱庭プロジェクト』は成立しなかったのか。その意味を僕は知っているはずだ。――七年前のあの夜に、全ては集束する。旧都、この街の半分を瓦解させた震災の日。全ては崩れ、消し飛んだ。遙風は言っていた。バチが当たったのだと。
「……さてと。実はね、本題はここからなのよ久刻くん。貴方に話しておかなければならないのはここから先。あの夜の真相を、貴方に教えます」
「……真相? まさか、あの震災も天門坂家の起こしたものだって言うつもりか? それさえも『箱庭プロジェクト』とかいう実験の過程だと言うんじゃないだろうな」
有り得ない仮定を口する。茶化すみたいに肩を竦めて苦笑する天門坂。罵るのでなく、疲れた仕草で語る。もしそうだとしたら、むしろその方がよかったのに。そんな風に笑う。
「半分正解かな。計算外ではあったみたいだけど、あれを計画の一貫として取り入れることにしたのは確かよ。スイッチだった。全ての切欠で、言うならば撃鉄。――もっとも、それは本家にとっては予想外の出来事だったんだけどね」
「……その、地震を起こしたのは分家だった、てことか?」
「いいえ。言ってるでしょ、半分は正解だけど、半分は外れだよ。震災はあくまで天災。そこは人間の力でどうこう出来るものじゃない。だから半分正解だったのは、これが計画の一部だってこと。ねえ久刻くん、可笑しいと思わない?」
「なにがだよ」
「震災はこの街全体に平等に被害を与えたはずなのに、ならどうして――崩壊したのは旧都だけだったの? 新都の被害も勿論大きかった。だけどこっちの死傷者は人口の一割程度にしか満たない。火災? まあね、確かにそれはあっちだけだったかな。だとしたら、旧都の人達は新都に逃げればよかったのよ。――どうして、それをしなかったのかな? どうして生存者が数えられる程度しか、存在しないのかな」
「……ちょっと待てよ、それって」
「合点がいった? 貴方の考えてる通りよきっと。あの晩――旧都は封鎖されていた。あの街は震災の夜、そこに住む人々を焼き殺す煉獄として利用されたのよ。避難経路の全てを閉ざして、隔離された世界を作り出した。救助機関も何もかもが機能を停止して、旧都は人為的に滅ぼされた」
風が吹いていた。夜の冷たい風。だけどそれに気付いたのは肌で感じた感触ではなく、天門坂の長い髪が虚空に流れる様子の視覚で、実感はしかし何の意味も持たず世界の静寂に飲み込まれて消えた。わざと空白を作って、天門坂が口を閉ざす。旧都の崩壊を語ったそのままの表情で、ぼんやりと幻想を見送るように。
「本家には想像もしていなかったことだろうけど、どこかで納得はしていたと思う。何も知らなかったのはわたしと姉さんだけ。あの日、姉さんと屋敷を抜け出した後、逸れたわたしを助けてくれたのは分家の人間だったわ。安全圏まで逃げて、そいつはわたしにこう言ったの」
煌めく街は滅び行く一瞬に紅く輝き、燦然たる光景は夜空の星を散りばめたみたいに美しくも凄惨だったという。その終わりの世界を見下ろして、
「『見なさい、これは君達の為に用意した世界の果てだよ』――拒絶も許されず、助けを請う絶叫をほくそ笑んで見下ろしながら、わたしが聞いたのは実験の完成だった。『箱庭プロジェクト』は、旧都という箱庭を崩壊させることで完成したのよ。破壊という名の終焉を以って――」
天門坂の左手が右の肘に触れる。寒さとは別の震えを堪えているような、自分の体を抱くような姿。それが普段毅然に振る舞う少女には酷く不似合いで、本来の小ささや細さ――存在としての脆さを如実に表していた。目を逸らしたくなる、消えかける儚い笑顔が泣き顔に変わりそうで――
「この箱庭の滅びを以て――終わりの月は満ちる」
――強くも、脆い、一切の感情を殺した終わりの笑顔が涙を溢していた。
「『箱庭プロジェクト』が、街全体を巻き込んだ計画だって分かったのはその時。――わたしが、天門坂一月が終極の月として完成したのも、その日。わたしはその日から、ヒトとしての境界を外れて『終わり』として生きていたのよ。……でもね、計画は結局そこ止まり。わたしが実験の結果だとしても、実は何の意味ももうなかったのよ。どうしてか分かる、久刻くん?」
僕は答えなかった。本当はその理由に思い当たる所はあったのかもしれないが、それでも。何かを口にして、自分でそれを現実に肯定することが怖かった。だから何も言わずに、天門坂の模範回答を待つ。――涙を流して声を上げず泣いている少女に、その続きを促した。
「現象は単独では成り立たない。対となる事象と共存しているからこそ存在として成り立っているのよ。終焉は、邂逅がなければ訪れることはない。わたし達はその究極系。本来なら独自に内包しているその表裏を持たないことこそ、矛盾の根源。拮抗がないから一方に偏るの。わたしはそのベクトルを終わりという最終地点に向けられたカタチ。終わりの月。全ての最終系。どんな存在もその概念には逆らえない。だって――」
不思議と、その先を僕は知っている気がした。聞いてはいけないと心が叫ぶ。耳を塞げと体が震える。知ってしまえば戻れない。被害者としての自分を肯定できない――だから、続きを聞いてはならないはずだと言うのに。それに抗ってでも天門坂から目を逸らさなかったのは久刻十字なりの罪悪感があったからなのかもしれない。
どんな存在もその概念には逆らえない――果たして、天門坂一月は言った。
「――この世界は決して、永遠ではないのだから」
分かってはいても、事実として認めるのにはやはり抵抗がある。だが否定は出来ないのだ。思えば片鱗は確かにあった。それを疑わせる天門坂の言動や行動も、出逢ったあの夜から幾つも見てきたはずだ。
この世界は決して、永遠ではない。それは、その言葉は何度も聞いてきた久刻、標月の口癖。
「……ねえ、もう分かるでしょ? わたしが何の為にこの殺人を追ってるのか。誰の為の復讐を望んでいるのか。もう、分かるよね十字――久刻標月は、わたしの姉さんなのよ」
七年前の記憶が過る。絶望の果てに叶えられた生きたいという願い。それをしてくれたのは誰だ。忘れるはずもない。標月姉さんだ。忘れていたのは、彼女が僕に言った言葉。抱き締められた腕の中で聞いたその懺悔。
“ごめんね”
安堵して、心からの涙で声を濡らして、
“私はキミを――妹の代わりにするよ”
救えなかった者の代償にせめて、小さな願いを叶えただけ。自分勝手な代償行為に選ばれたのが偶然そこにいた久刻十字であっただけの、本当にたったそれだけのこと。助けられたなんて、自分が特別だったなんてことは決してない。なのに、自分の前で泣いていたその人があまりにも綺麗に見えたから思いたかった。自分は選ばれたのだと信じていたかった。助けて貰えたと、誰かの代わりではなく個人として。
だけど構わない。本当はそんなことなんてどうでもよかった。自分を弟のように扱ってくれた彼女に憧れたから、あんな、強く笑える存在に心を奪われてしまったから――他人の為に流されたその涙さえ尊いと感じたからこそ、素直に嬉しかった。偶然でも代替でも構わない。標月姉さんが誰かの代わりを求めていたならそうなりたい。――彼女にとっての久刻十字が意味のある存在であって欲しいと望むほど強く憧れた。
終わりの世界にあって輝いていた、開闢の月に、少しでもその存在の近くありたい。助けられたと思いたかった。そう思うことで、遠過ぎる月の光を手繰り寄せたつもりになっていた。
「わたしはね、貴方が憎い。殺してしまいたいくらい。姉さんを奪った――わたしの七年間を奪った貴方が許せない。……だけど、分かってる。本当はそんなの逆恨みだって。本当は貴方がわたしを恨むのが当然なんだってことくらい。そうでしょ」
閉口する。何も言えないで僕は天門坂を見詰めていた。姉妹というだけはあってやはり、その泣き顔は月明かりに映える輝きを持っていて美しい。なんてことを考え、自分を誤魔化す。
「何にしたって、あの夜の破滅はわたしが原因なんだから。……ね、久刻くん訊いてもいい?」
儚くも、止めどない涙を流す小さな幽かな笑顔を浮かべて、天門坂一月は最後、問い掛けてくる。
「――例えば生まれてから一度も不幸を体験したことのない人間がいたとして、その誰かの人生は幸せだったと言えるのかな?」
それは僕を指して言っているようにも、あるいは天門坂自身を指して言っているようにも聞こえる質問だった。
*
「――構わないよ」
その声は自分の声ながら恐ろしく落ち着いていた。これが自分を殺したいと望み、そう告げた相手に対して発せられる声なのかと我が事ながら疑問に思う。しかしそれでも反面で理解できたのは、始めから僕は彼女になら殺されたっていいと思っていたということ。一昨日のあの夜、心は諦観とは違った意味で死を受け入れていた。そうだ始めから、どこかで分かっていたのかもしれない。天門坂が標月姉さんと同じ輝きを宿していたことに、気付いていたのかもしれない。
君にはその権利がある。そして僕にはそうされる責任がある。
天門坂のこれまでを奪ってきた、その贖罪の責務が、僕にはある。
――確かに、その通りだ。その通り僕には天門坂から姉を奪った罪がある。だけどそんなのは所詮建前。本音はこの後ろめたさを払拭したいと思う事故防衛の精神。天門坂ではなくて僕が救われたことに対する罪悪感からの解放を望んだだけのこと。何もかも、自分の為の我が侭だ。
「……なんでよ」
小さく肩と拳を震わせて、天門坂が僕を睨む。鋭い眼光。迫力は健在。
「アンタはなんでいつもそうなのよ……! わたしに殺されるのが嫌じゃないの!? どうして生きていたいって思わないのよ!」
自分はこんなにも憎しみを抱いているのに――涙を散らして蒼の瞳が訴える。天を衝く怒髪。夜空の月を砕かなぬばかりの叫び。残念ながら、僕は天門坂を恨むことが出来そうにない。
それをするのは、今を生きていたかった久刻十字だから。……あの夜に、その久刻十字は死んだ。途切れたという方が正しいのだろうか。いずれにせよ、今の久刻十字は天門坂標月と出逢った瞬間に始まったのだ。さながら始まりの月導に導かれるように。邂逅の月に照らされて、新しく始まった。天門坂一月という少女のその後を代償にして。
だから、僕は天門坂を恨むことなんて出来ない。
「……ふざけないでよ」
感情が荒々しく波打ち静かな憤慨の声。
「ふざけないでよ! 生きたいって願いなさいよ! 生きていたいって、生にすがって懇願しなさい! アンタの命は、わたしの代わりなんだから!」
「……だからこそ」
こんな言葉が誰の救いにもならないことは分かっていたけど、
「僕は、お前になら殺されてもいいって、思えるんだよ」
紛れもない本心を口にして、それがここまで後味の悪い台詞だったのかと無感動に実感する。罪の意識。違う。……これは多分、呪縛。姉さんが僕に遺した一つの呪いだ。
――キミを妹の代わりにするよ。
ならさ、僕、もういらないんじゃないか?
みっともなく生きていく意味なんてないだろ。なら、天門坂に殺された方が全然ましじゃないか。元より僕は彼女の代替品。どっちがドッペルゲンガーか分からないけど、こうなった今偽者の僕はもういらない。天門坂が望むなら、殺されたって構わないと思う。
「……でよ」
衝撃。
胸を打ち鳴らす弱々しい天門坂の拳。小さい、少女の手だ。今更そんなことに気が付く。死神。ナイフを携えた姿をそんな風に形容した自分が馬鹿らしい。終わりの月。……なにが、『箱庭プロジェクト』だよ。やっぱり失敗してんじゃねえか。
「なんで……アンタはわたしを恨んでくれないのよ……! 本当は謝りたいのに。出来ることならあの街の全ての犠牲になった人達に、謝りたいのに……。アンタが、わたしを恨んでくれないとわたしは――」
そこにいたのは死神でも、終わりの月なんかでもなく、
「――ここにいてもいいんだって、思っちゃうじゃない」
天門坂一月という一人の、罪の意識に潰されそうな脆い少女だった。
「ダメなのよ。わたしはたくさん殺した。この街を壊したのはわたしなのよ。そのわたしが生きていていいわけないのに……。お願いだから、ねえ、久刻くん、わたしを恨んでよ。咎めてよ」
泣きながら、悪夢に魘される子供のようにそればかりを繰り返す。その度に力のない拳が胸を打った。
「思えよ……思えばいいだろ。ここにいてもいいって。耐え切れないなら、僕が傍にいてやる。お前が僕を恨むことで楽になれるならそうすればいい。殺したいなら、そうすればいい」
「……やだよ。そんなの、嫌だよ」
泣き声。聞いたこともないくらい人間味のある、感情の含まれた声色が子供染みた舌足らずの泣き声混じりに訴える。
「…………分かってるのよ。十字を恨んだって、標月姉さんは帰ってこないって」
はっきり言って、安心した。
天門坂がまだ自分と同じ場所にいるとそう思えたことに少しだけ。その月は決して手の届かない場所にあるわけではないのだと思えたことが。水に映った幻影を見ていたわけではなかったのだ。天門坂一月は確かにそこにいて、触れることも出来るし声も届く。
「天門坂……あのさ」
何が言えただろう。何を、言えただろう。
どんな理由であれ、逆恨みだとしても自分を殺したいと言った相手に対してどんな風にこの気持ちを伝えればいいのか分からない。言葉が見つからず、名前を呼ぶだけに止まってその先を声にして吐き出すことが出来ないでいた僕に、いつの間にか俯いていた天門坂の声。
「……久刻くん、ごめん、今日泊まっていってもいい?」
爪先に語り掛けてるみたいだ。場違いにもそんな表現をして天門坂の発言の整理を遅らせる。上目遣いに濡れた瞳がこちらを見上げ、
「今夜は一人になりたくないから。だから――作戦会議。いいよね、久刻くん」
強がりだとは一目に瞭然だったが敢えて指摘してやることはせず、いつものように強く振る舞おうとする彼女を受け入れる。気丈に努めて、いつもの自分を装って。そんな姿が、大丈夫だから、と言っている気がして僕にはそれ以上は何も言えなかった。
大切なモノを失った胸の穴が、今は何か別のモノで蓋をされている。
帰り道。月の見下ろす夜の世界。
……間違っていないよな。
この夜、久刻十字は、天門坂一月を好きになったのかもしれなかった。
…
“お前さ、最近妙にオレに付き纏って、どういうつもりだよ?”
慇懃な口調は、その容姿から想像を絶する酷く荒々しいものだった。
“何とか言えって。……あー、面倒臭い。いいや、オレが言ってやる迷惑だから。そういうの止めろ”
彼女は、まるで性別をうっかり間違ってしまったみたいな語調でそんなことを言う。奇妙なものを見ている気分だ。姿形は何の変化もないのに――制服の着こなしこそ彼女には有り得ないが――目も声も雰囲気も一変して、人格を別人と取り替えたように。
“……ちょっと待った”
言いたいことを言って立ち去ろうとする彼女……彼を呼び止める。無視されるのは覚悟の上だったのに、その覚悟が無駄に終わって、髪の長いその後姿は脚を止めて振り返った。間違って、運動神経が脳の誤作動で発信されてしまったと言わんばかりに振り向いた顔は悪辣としている。そうしてしまった自分が心の底から嫌になる、と瞳が語っていた。
“なんだよ、まだ何か用かよ変わり者”
“久刻十字。僕の名前だ、君は?”
“はあ? ……お前馬鹿なのかよ。オレが誰かなんて分かってるだろそんなこと”
呆れるように、荒々しく吐き捨てて、
“――遙風輪廻。オレの名前だよ”
気だるくため息を吐くみたいな様子で、けれどどこかでそれを誇るように彼は自らの名前を告げた。
噂には聞いていたけれど、実際にこの目で見るのは初めてだったから戸惑ってしまったのだ。二重人格。不定期に人格のスイッチする人物が同級生にいるとは有名な話で、勿論それが僕の耳に届いていないはずがない。だがここまで見事な豹変ぶりだとは、誰が想像できただろう。
“もういいか? そろそろ帰りたいんだけど”
“……あ、ああ。時間を取らせて悪かったよ”
“そりゃ、どういたしまして”
“なあ、遙風”
呼びかけると立ち止まってくれる。遙風の習性を僕はこの時学んだ。
今度は上半身だけでこちらを向いて、明らかな怠惰の表情を貼り付けて。いい加減次辺りは本当に無視されてしまうんじゃないかと思うほど、顰め面が明確に拒絶を訴えている。だから僕は言った。一方的に言われるだけだった久刻十字の、今日で唯一の意思表示。
“また明日な”
それは毎日彼女に繰り返し伝えていた、再会の約束だった。
…
果たしてそれは作戦会議と呼ぶにはあまりにも無惨な結果に終了した。
家まで辿り着いた頃には日付が変わっていたなんて当たり前で、もう数時間もすれば夜が終わってしまうほどの夜更けになってアイムホームを宣言した後には数秒もしない内に睡魔が大挙をなして襲い掛かってくる始末。意識を繋ぎ止めることが困難な疲労困憊に曝され――疲れていたのは体ではなく心だ。脳がその日あったことを処理しきれていない――あえなく目を閉じた僕は、相対して開いた睡夢の門を潜ったのだった。
少し懐かしい夢を見ていた気もするけれど内容をはっきりとは思い出せない。断言できることはそれがいつもの夢とは違っていたことだけ。天門坂標月と出逢った夜の記憶の再生が行われたわけでは、なかった。
目が覚めて最初に確認したのは現在時刻だったが、時計を目視するまでもなく予感めいたものを感じてはいたのだ。その予感を裏付けするみたいに明る過ぎる外の世界とか高く昇り過ぎている太陽とか全部、今が昼を回った頃だと無言のまま主張している。そして一応にして念のために確認した時計の針が、それを否定する材料にならなかったのは言うまでもない。
そういえば、とついでのように疑問を抱く。本来それは真っ先に考えなくてはならない事象であるはずなのに。天門坂はどこだろう。ここまで一緒に帰ってきたのは覚えているが、それから間もなく僕は意識を昏倒させてしまったので彼女がどうしたのか知り得ない。以前のように朝食を作ってくれてはいないのが残念だ。
と、待てよ。
部屋の中に天門坂一月の姿はない。だけどそれはここが僕の家だからとかそんな理由とは別に当たり前ではないか。むしろ間違っているのはこっちの方だ。久刻十字こそここにいるべきではなく、本来いない存在なのだなぜならば。……今日は平日だから。
「……あー、やっちまったな」
学校、サボっちまった。いやまだ間に合うか。時間的には昼休みになるから、これから登校すれば午後の授業を受けることは出来る。遅刻するくらいなら休む、なんて高尚ぶった主義など僕にはない。だがどうだろう。今の時間から登校するほど、久刻十字は学校という場所に執着しているのか。それに一日休んだくらいなら出席日数に影響もない。さて――
そこまで考えた時である。ポケットの中の物体が突然のバイブレーション。何事かと震源に手を伸ばして発覚したのは、その正体が内ポケットの携帯電話だということともう一つ、自分が今制服を着ていることだった。
知らない番号。間違い電話を疑ってみるが一応通話ボタンを押して端末を耳に当てる。
「もしもし」
定型句で呼び掛けると電話の主は平坦な声で、
『あ、起きてたんだ。ダメじゃない学校休んだら。それとも今起きたばかりかな、久刻くん?』
こっちが電話に出ないことを前提にしていたみたいな言い草を聞かされた。その声は紛れもなく天門坂一月のもので、この言い分だとこいつは自分だけ先に起床して登校していたらしい。起こせよ、僕も。
『よく眠ってたから、悪いと思って。あ、そうだ。まだお礼を言ってなかったわね。昨日は泊めてくれてありがとう、久刻くん』
昨日とか言う時間ではなかったし、寝床として利用しただけなら礼を言われるほどではない。
「何の用だ、天門坂」
だから、である。天門坂がこんなくだらないことの為にわざわざ電話を掛けてくるとは思えなかった。こいつにしてみれば何か話すべきことがあるから、電話なんてしてきたのだ。そして天門坂が僕にする話といえば題目は一つに限定される。
『せっかちだなぁ。まあいいけど。本当は昨日の内に言おうと思ってたんだけどね、貴方すぐに寝ちゃったから』
作戦会議とやらは名目だけではなかったということか。
『犯人の目処がたったわ。久刻くん、誰だか分かる?』
冗談で言っているわけでは、ないのだろう。天門坂はあっさりとそんなことを言って退ける。元々声には抑揚のある喋り方をする奴なので、不意に僕の脳裏には携帯を片手に不敵な笑みを浮かべている天門坂が浮かぶ。どうあっても現実ではそのような情景は有り得ないだろうけれど。
「いや、分からん。まったく」
『……はあ。寝起きだから頭が起きてないんだ。それとも惚けてるの?』
惚けるとは何だろう。それではまるで、僕が犯人の目星をつけていて、しかもその上ある核心的な証拠も掴んでいるくせにあえてそれを看過しているようではないか。残念ながらそのようなことは全く以てない。誰が犯人であるかに見当をつけているなら暢気に眠ってなどいられなかったはずだ。
久刻標月――天門坂標月を、仮にも久刻十字を弟と扱ってくれた人を殺した誰か。今ではさらに、箱崎外流をもその手に掛けた異常者を一秒でも生かしておきたくない。
『そっか。本気で分からないんだ』
「で、誰なんだよ天門坂」
『そう焦らないの。ねえ久刻くん、わたし、死体の状態は話したよね』
「……ああ、聞いたよ。確か致命傷を避けた傷が全身に刻まれてたとか」
『なのに致命傷は荒々しく、暴力的だった。一つの殺人における殺意やその意義が全く異なった形で二つ同時に存在していたって言ったのよ。つまりね、一人の人間の中で、同時に二つの意識が成立していたということ。本来人間は異種の感情を一緒に抱くことなんて出来ない。ましてや殺人衝動に連結するほどの感情を二つも持つなんて――人格が一つしかない人間には、到底出来ないことよね』
「……天門坂、お前何が言いたいんだよ」
分かったことは二つ。天門坂が冗談でこんなことを言っているのではないことと、それから――彼女の言う犯人とやらが誰であるか。天門坂が殺意を向けて語るその対象の名前が口から出そうになるのを、僕はどうにか堪えて否定の事実を模索する。
その何かが見付かるよりも先に、電話から機械音に変換された声が告げる。聞きたくもない、その名前を。
『遙風輪廻。知ってるでしょ、二重人格者の彼女のこと』
「……なんでさ」
違う。遙風じゃない。そう言葉に出来るなら救われる心地だと言うのに、何故かはっきりと天門坂の言葉を否定することが僕には出来なかった。
「遙風がそんなことをする理由が、ない。大体、全部推測だろ状況からみた予想でしかない。遙風には動機もなければ、疑われる理由もない。その……二重人格だってこと以外は。それだって他に仮説は立てられるだろ」
『この殺人がそもそも異常なのよ。もっともな常識的見解なんて有り得ないわよ』
「そんな理由で遙風を疑うってのかよ。いい加減にしろよ天門坂、それ以上は――」
『だから。だからね、この殺人の犯人は異常者なのよ。徹底的に壊れてる。わたしの知る限り条件に該当する異常者は遙風輪廻だけ』
「だから、遙風はお前が言うところの『異常者』なんかじゃないだろ。二重人格ってだけで他は普通の――」
『箱庭プロジェクトに関わってる時点で、もう彼女は普通なんかじゃないのよ』
二度、発言を遮られる。天門坂ははっきりと、決定的にその事実を口にして、僕は何かを言い返すことも出来ず彼女の発言を反芻していた。『箱庭プロジェクト』――その忌まわしい計画の名前を聞くだけで、脳が拒絶反応を起こす。何か反論を行う為に口を開けば同時に嘔吐してしまいそうだった。
後天的に先天的な異常者を造り出す計画。閉ざされた小さな世界を壊して完成した、終わりの月を生み出す為のプロジェクト。天門坂は何と言った? 遙風がその、馬鹿げた計画に関係している。……信じられるはずなど、無論なかった。
『遙風の家はね、脳の研究における権威なのよ。だから目をつけられた。異常者の構造を調べるのにはどうしてもその方面の知識が必要だったからね。補足程度にだけど、遙風家は新都側にあったから七年前の震災による被害はなかったわ。その裏側を知っていたかは分からないけれど』
「遙風も……プロジェクトの被験者だってのか」
『似て非なるものよ。遙風輪廻個人に関して言うなら、厳密にはプロジェクトに関わりはない。だけど並行して行われた実験の被験者であることには違いないわ。その実験が全く箱庭プロジェクトと関係がなかったとも言えないしね。あっちのことはわたしも詳しくは知らない。だけど大まかな概要なら聞かされてる。……そうね、天門坂が体を通して衝動を形にしたのなら、遙風は心を通して現象に至ろうとした、とでも言うのかな。つまりね、わたし達は人体の雛型をして衝動を刻まれた、外側から加工された存在なの。対して遙風輪廻は内側を加工された存在。その形があの、二重人格なのよ』
意味が、分からなかった。理解できないのではなく、話している言語がそもそも異国の言葉のように感じられる。いや、遙風が疑われているという状況も相乗してまるで人外の植物か何かと会話している気分でさえある。
なによりも、遙風が『箱庭プロジェクト』などという実験に関わりを持っているその事実が吐き気を覚えるほどに不快だった。
『人間は基本的に一つの人格までしか自己として許容出来ない。後天的な二重人格者ってのは、自己を閉ざすことであたかもそこに他人がいるかのように装う究極系。遙風輪廻のアレはね、そもそもが奇異な形の二重人格なのよ。本来の二重、あるいは多重人格を想像するなら……例えば一つの巨大な箱があって、それがホストとなる人格だとするでしょ。その箱の中には記憶や感情といったモノが収容されるのだけど、まかり間違って別の小さな箱が入ってしまったとする。箱の中に箱があるのよ。それが多重人格という症状。で、遙風輪廻の場合はここが異なる。彼女はね、遙風輪廻という箱に腫瘍のような別の箱が接着された結果の多重人格なの』
――私達は同じ遙風輪廻ですが、完全に別離した人格です。遙風の言葉を思い出す。……そういえばそうだ。遙風は今まで一度も、お互いのことを他人のようには言わなかった。遙風輪廻は一人だけ。紛れもない個人。
『目的はヒトとしての概念の破壊。自己の完全な欠落と喪失。二つの人格は互いの存在を肯定する為に喰い合っていずれ一方を消し去る。そういう内面的な殺人衝動を植え付けられた存在が遙風輪廻。遙風側はそうした結果空っぽになった遙風輪廻の素体に後からシステムをインストールするつもりだったんでしょうね。やろうとしていることは箱庭プロジェクトと同じよ。遙風輪廻の中で全てを完結させる。その為の二重人格』
「……だとしても、それが何だよ」
そんなことが、遙風を猟奇殺人の犯人に仕立て上げる理由にはならない。
『自己否定、破綻を恐る感情からその衝動を外部に向けていたとしたら。――二つの殺人衝動もこれなら説明がつくでしょ。二回分殺さないと、その衝動は収まらないの』
反駁は、見付からなかった。天門坂の言葉には確かに説得力がある。……僕は死体の惨状を思い出していた。四肢を引き千切られた、喰い千切られたような死体。食欲染みた、殺意。不覚にも僕は思ってしまったではないか。遙風輪廻は、なんと『食欲』に忠実なのだと。
『決着をつけるわ。貴方はどうするの久刻くん? まだ、遙風輪廻を庇うの?』
「…………いや、分かったよ天門坂」
何が分かったものか。何を僕は納得したというのだ。――自分の友達が大切な姉を殺した異常殺人鬼だなんてことを。ふざけるな。信じたくない、決して。だが信じることは出来る、忌まわしいことに。
『そっか』
「ああ……ただし条件がある。まだ遙風だって決まった訳じゃないだろ」
『十中八九そうだろうけどね。それで?』
「遙風と話したい。あいつはきっと、お前の思ってるような悪い奴じゃない。だから、僕もその決着とやらには同伴させて欲しい」
駄目だと言われても認めやしない。その意思が伝わったのだろう、天門坂はあっさりと、だけど呆れた様子の声で、
『分かった。それでアンタの気が済むなら好きにすればいい』
承諾の意思を口にしてくれた。
一悶着を想定していた僕は脱力して安堵の息を漏らす。あるいはそれはため息だったのかもしれない。全身から力が抜けていく感覚に立ち眩み染みた軽い目眩を覚えた時。
調子外れのインターホンがコールされ、その音が室内に鳴り響いた。どうやら腰を落ち着ける束の間を天は僕に与えてくれないらしい。
玄関に向かって歩き出しつつ、
『場所は……そうね、旧都がいいわ。あそこなら――邪魔が入らないから』
「……分かった。時間は?」
物騒な打ち合わせをしながら除き穴に目を向ける。扉の前にいる人物が誰であるかをそれで確認し――
『それはまた後で。遙風輪廻はわたしが呼び出すから、時間とかは折り返して』
「いや、待った。それは僕が引き受ける」
『はい? どういうつもりよ。心配しなくたって、アンタが話をするまではなにもしないわよ』
「そういう訳じゃねえよ。いいから、任せといてくれ。それじゃあな」
『あ、ちょっと十字――』
ぷつり、がちゃり。
通話を切って扉を開ける。開かれる扉。広がる視界。そこに立つ人物に向けて僕は自分の中にある普段の久刻十字を心掛けた可能な限り平常のままの笑顔を浮かべて、
「やあ、遙風。君が訪ねてくれるなんて珍しいね。まあ上がれよ。ちょっと話したいことも――」
そこにいた遙風輪廻を歓迎しつつ予想外の人物を同時に視界の中に認めてしまった。
「枯さん……と、未美好ちゃん?」
お隣の兄妹が白と黒を着て部屋の前にいたのだった。
*
複雑に入り組んだ繋がりの上に成り立つ、それは四人を頂点とした四角関係。現在その様な四人が久刻宅にて四者面談を絶賛開催中である。一応、ウェルカムドリンクとして麦茶なんかを入れてはみたのだが、目を離している隙に三者は三様のくつろぎ方をして久刻十字を待ち受けていた。
黒い霧みたいなヒトガタ、夜杜枯さんは部屋の床に膝を立てて座っていてそのルックスも助けてかなり様になっているのが何とも言えない。本当はあまり行儀はよくないのだが、彼の微笑はどこから誰が見てもその体勢を許容する高品質さを持っていた。次にその隣で対照的な態度を取っている妹の未美好ちゃんに注目する。この兄にしてこの妹は有り得ないと言いたくなるくらいに礼儀の正しい正座で、いっそこのままずっとそこに飾っておきたくなるくらいの可愛さを振り撒いている。今日は白い上着に赤のシャツ。ツインテールを形成するゴムの色も赤色。スカートと靴下は相変わらずの黒。お気に入りなのだろうか。
最後にもう一人。
今現在のこの室内において枯さんを上回る不躾さを体現しているのは、ある意味で意外なことに遙風輪廻だった。彼女――様子からすると彼か――はベッドの上で胡座なんかを掻いているのだ。しかも滅茶苦茶あからさまに機嫌悪そうだし。なにこいつ、恐い。
「……まあ、お茶、入れたから飲んでください」
後半に連れて声が消えて行く。何故ここまで気不味い空間が生成されているのか。
「あー、遙風、まず君、学校はどうしたんだよ。まだ五限目の途中じゃないのか?」
「サボりの現行犯に言われたくないよ。今日は午前中までだ。近頃は物騒だからな」
……ああ、そういうこと。箱崎の事件は明るみに出てるから、学校側も配慮しないわけにはいかないわけだ。そうでなくともこれまで片鱗は見え隠れしていたのだから、今回のことを機にするのは確かに頷ける。して、遙風がここにおいでなさった理由は。
「バカが珍しく休んでるから、風邪引いてるんじゃないかって心配したんだよ。実際に見た感じは大丈夫そうだけど」
「……バカは風邪引かないって諺、知ってるか。まあいいや。心配掛けたことは謝るよ、そんでありがとう遙風」
素直に心配してたと言ってくれる辺り、やはりこっちの遙風は話が早い。隠し事など全くしない性格だからな、あるいは――お前が箱崎を殺したのかと、問えば簡単に首を縦に振るかもしれない。……そうならないことを、心から祈る。
「で、枯さんはどういった用件ですか?」
「俺はたまたまそこで彼女と会って、面白そうだからついて来ただけだよ。思いの外話も合ったしね」
「帰れよあんた」
本気で、この人のことが分からない。
「……いや、本当に一度席を外して貰えますか? ちょっと遙風と話があるので」
「俺がいたら迷惑な話かな?」
「ええ、はい」
遠慮なく即答させて貰う。この人が相手なら気を遣うこともないし、はっきりと言いたいことを言う方がお互いに気分がいい。
「分かったよ。なら外に出ていよう。未美好、ほら行くぞ」
「はーいです」
枯さんの後ろを飛び跳ねるようについていくツインテール。未美好は玄関直通の超短距離廊下に出ると威勢良く振り返って、部屋の中に極上の笑顔を振り撒いた。
「お隣のお兄ちゃん、ごちそうさまです」
室内の光度が増した、その瞬間である。未美好ちゃんがいれば人類には採光技術も発光技術も得る必要がない。そう断言せざるを得ないほどの輝かしく眩しい純粋無垢な満面の笑顔だった。
二人がいなくなり、部屋には僕と遙風だけが残される。遙風は音もなく麦茶を啜っていて、ちらりともこちらを見ようとしていない。話があると言う旨は枯さんに対して伝えた際、同じ部屋にいた遙風にも自動的に伝播するはずなのだが。わざと慮外にされているのだろうか。
「枯さんと何の話したんだ?」
気にはならなかったが、話題がないので訊いてみる。
「いかにして人間を屈服させるか、その効率的手段と能率性について」
「僕には、お前が分からないぞ遙風輪廻!」
叫んだところで、遙風がコップを置く。今度はこっちの番だというような視線を投げ寄越して、
「話って?」
そんな風に直接本題を促してくるのだった。
分かってはいるのだ。こういう直線的で装うところがないのが遙風だとは、僕も重々承知している。だけど今回に限っては少し遠回りをしたかったというのも本音。この胸に一抹でも彼女を殺人鬼と疑う気持ちがあるのなら、それが否定できなくなるのはもっと後がいい。
「……なんつうか、気になったんだけどお前さ、ずっと僕のこと遠ざけようとしてただろ。それって、その、お前の二重人格が原因なのかなって、気になったんだよ」
「お前、さらっと酷いこと言うよな。オレは気にしないからいいけどさ。後で割りと気にするんだぜ遙風輪廻は」
「あ……悪い」
婉曲して言ったのが却って遙風を傷付ける言葉になるとは思っていなかった。こちらにしてみれば迂回した言い方でも、遙風には直接的な言葉の暴力だったのだ。気付かなかった僕は、言い訳させて貰うならそれくらい気が滅入っていたのだろう。
「いいよ、気にすんな。……さて、どうだか。遙風輪廻は人とは出来るだけ深く関わろうとしなかったからな。お前もその例外じゃなかった、それだけだよ。だから二重人格とか、そんなのはきっと関係ない。単に、人と必要以上の関係を持ちたくなかっただけなんだ」
「……君は、なんていうか、もう一人の遙風輪廻をどんな風に思ってるんだ?」
「別に。ただ、もう一人ってのは違うな。遙風輪廻は常に一人だよ。孤立してて、孤独で、単一であって単体だ。二重人格何て言っても、ちょっと気分が変わるみたいなものなんだよ。オレはアイツだし、アイツはオレだ。……上手く言えないけどさ。物凄く近くにあって、なのに互いが互いを認識しきれていない感じ。だって自分の顔を鏡なしじゃ見れないだろ」
「……遙風」
「なんだよ」
訊くべきか、一瞬迷った。でも僕は、それを訊かずにはいられなかった。
「――人を殺したい、って思ったことあるか?」
どれだけ気分の悪いことを言っているかは、分かっているつもりだ。なのに訪ね終わった後になっても後悔はない。心の痞が落ちたような気分さえしている。だってここからの僕はなにもしなくていいから。残りは遙風がこの質問を否定すれば全部終わりだ。
だってのに、遙風は。
「あるよ。そんなの、毎日だ」
至極当たり前のことのように、そんなことを口にする。
「そういう風に造られてるんだ、オレ達は。――なあ十字、自分だけの空間に別の誰かがいたら、居心地悪いだろ。困ったことにね、遙風輪廻って器には一つの心しか入れられないんだ。なのに、オレ達は無理矢理二つ、押し込まれてる」
一人の人間が許容できるのは、一つの人格まで。天門坂の言葉を思い出す。犇めき合う器の中。容積を超えた内包量に耐えきれなくなった場合、遙風輪廻という器はどんな対応を取るだろう。
「問題はスペックじゃないんだ。遙風輪廻が二つを内包出来ないのは機能の問題じゃない。収納なら出来るんだよ。問題はさ、オレ達には序列がない。優先順位が存在していないことこそが問題なんだ」
決まっている。殺し合え、と。己の居場所を守る為に他者の居場所を剥奪せよ。それが下される決断。遙風輪廻という箱は一つだけ。だから二つを与えられた彼女は一方を消去しなくてはならない。それは、永遠に自己に向けられる殺戮衝動。
「どっちが本物か分からない。だから優先順位が定まらない。しかたないから有象無象のまま循迷って、不確かな自己を保ち続ける。……だけどさ、遙風輪廻はそのあり方に耐えられるほど丈夫じゃないんだよ。だから本能的に、一方を消そうとする殺人衝動が沸き起こるんだ。こればっかりは抑えきれない。――分かってるよ、いつかどっちかがいなくならないといけないって。そうしないと、遙風輪廻は破綻するから」
「遙風……」
自己への破壊衝動は内側から自らを壊していく。遙風輪廻はいずれ二つの人格による摩擦で擦り切れて消失し、空っぽになる。天門坂曰く、それこそが遙風家の狙いだそうだ。……まだ、続いている。旧都を、そこに住まう人達を犠牲にしておいて尚、七年を経て何人もの人間を殺してそれでも未だに――『箱庭プロジェクト』は続いている。遙風輪廻の中で、今もまだ。
どうすればいい。
僕は遙風を恨めばいいのか? 久刻十字の友人を。大切な、友達を。
「話はそれだけか、十字? だったらオレは帰るけど」
「……また後で、もう一つ話がある」
「何だよ。だったら今すればいいだろ?」
「今は、駄目なんだ。ちょっと時間が欲しい。……いつもの、夕方の災害跡でいいか? あの夕焼けの見える場所で」
「……変な奴。まあいいよ、変わり者。あれは結構好きだから行ってやる」
「ありがとう、遙風」
無邪気な、少年みたいな笑顔で遙風は承諾してくれた。
誰が悪い。誰が、悪いんだよ。『箱庭プロジェクト』なんて馬鹿なことを始めた連中が、全部悪いのに。
「十字? どうした顔色悪いぞ」
「そうか? 何でもない大丈夫だよ」
「そっか。それじゃまた後で」
じゃあな、と片手を挙げて去っていく遙風。
約束は夕方。旧都の瓦礫が赤く染まり、硝子が金色に煌めく赤い夕凪の時間。それまでに決めなくてはならない。僕は、久刻十字は友達である遙風輪廻をどうするか、決断しなくてはならないのだ。確固とした一つの答えを定めて。
だがそれは直ぐには、決められそうになかった。
*
過ぎる時間は人を待たない。足早とはもはや言い難い、駆け足で過ぎ去った時刻を振り返るに、一応色々と考えてはみたが答えは得られなかった。結局久刻十字は何の意思もないまま約束に突き動かされて旧都に向かう。天門坂には連絡を入れておいたから、あいつが先に遙風とコンタクトを取ってはいないと思う。確信はない。ともあれ、天門坂は約束してくれたのだ、遙風と話をさせてくれると。確かに。
だから安心していい。まだ遙風と話は出来る。その上でどうすればいいのか、どうするべきなのか、どうしたいのか――それらを判断しよう。しかし今一つだけ確かなことは、どうあっても僕は遙風を心の底から憎むことはきっと出来ない。彼女の境遇に同情しているなど、そんな理由ではなくて。久刻十字はただ依然しているだけなのだ。遙風輪廻というたった一人の大切な友人に。彼女を、失いたくないのだろう。
こんなことを言ってしまうと、天門坂は怒るのだろうな。そう思って、瓦礫の隙間に見える空に視界を向ける。
そうして、奇妙な体験をした。
空は晴れていたのに、雨に降られた。それも随分局地的な。……いや、雨という表現もよく考えれば正しくない。その液体は嫌に生暖かく、そして染色されていたのだから。咄嗟のことで思考が追い付かなかったのだろう。同時に、そんなものが降ってくるはずがないとも思ったから分からなかった。
誰かの血液を、僕は顔に浴びたのだ。額に落ちた雫が鼻の上に流れていく不快感。粘膜に絡み付く異臭。
さらに次の瞬間には。
どさり、と、砂の入った袋が高所から落下したみたいな音を背後に聞く。嫌な音だった。まるで落ちてきてはいけないものが落ちたような、聞いてはいけない音のようでそれは、どうしてか水分を感じさせる感じの音に聞こえないこともなくて。
恐る恐る、背筋の凍る思いで振り返る。故意にゆっくりと。なにがあるかを知っているから、時間を掛けて。いつもいつも思うことがある。
「なんで……だよ、そんなの」
嫌な予感はいつも毎回、期待を裏切らずに的中してくれるのだ。
――うつ伏せに倒れて静かに血溜まりを作りながら、そこには制服を鮮血色に染めた遙風輪廻が落ちていた。
両手と両足を広げて、花を模るような歪な体勢。幸いというべきかそれはまだ関節の稼働範囲で可能な方向を向いていた。もっともそれの繋がる体が二度と動かないとしたら、そんなことは何の救いにだってなりやしないのだが。せめて原型を留めたまま地に伏すなら、この旧都においてそれは幸運なのだ。
冷静に、彼女の死を検分するならそんな結論を下すことが出来ただろう。
だが、そんなことが出来るはずがない。昨日の今日だというのに、まるで初めてする体験のように、自分で自分の感情を抑えきれなくなる忘我の衝動。無意識に足取りは血溜まりに向い、彼女の体に触れる。血に濡れた白い顔。静かに目を閉じた、その表情。
心臓の辺りから斜めに、鋭利な刃が振り上げられ辿ったであろう軌跡。それは深い溝になって遙風輪廻の体に刻まれていた。それだけで十分致命傷に成り得る傷跡を目でなぞる。首筋の辺りに到って、それは止まっている。
傷だけではない。落下の衝撃もまた、遙風の人体に多大な影響を及ぼしているはずだろう。
腕に抱いた体を持ち上げようとする。その時、だった。
そっと、赤の滴る白い指が、頬に触れた。
「……十字。ごめん、約束、守れなかった」
薄く目を開いて、生気のない声で遙風は言う。
「話……あったんだろ? いいぜ、聞いてやるくらいの時間は、あると思うから」
「お前……そんなこと言ってる場合かよ!」
肩を抱いて、体を起こす。口元から一筋流れる鮮血。落下した際の衝撃が血を逆流させたのだろう。見れば、遙風の目の焦点があっていない。いつもの覇気にも似た眼光が存在しない。胡乱な黒目が朧な幻を見詰めるように、
「なんだよ……話、あるんじゃないのか? ……ああ、それともオレにじゃなかったかな……」
「違う……。違うんだよ、遙風。そんなこと、今はどうでもいいんだよ!」
急いで、遙風を担ぎ上げる。
まだ生きていた。間違いなく、遙風輪廻はまだここにいる。なら助かるかもしれない。話なんてどうでもいい。誰が、遙風輪廻が殺人鬼だって? ……冗談じゃない。誰も殺してやしないじゃないか。遙風は自分への殺人衝動を、ずっと我慢してきたんだ。
「なあ十字……オレさ、いつかは自分がここにいられなくなるって、思ってた」
「……何でさ、そんなこと」
「遙風輪廻が、ここにいられるように。……オレ達はさ、いついなくなってもいいようにって、出来るだけ未練は残さないようにしてたんだ。誰とも必要以上に関わりを持たず、大切な物を持たないようにしてきた。何だって捨てられるんだよ。オレ達は……遙風輪廻は『何かを大切にする』ことが出来ないようにプログラミングされてた」
中学を卒業して、突如栄光を捨てたトップランナー。
多くを魅了し、なのに自ら失速したスプリンター。
「だってのにさ……お前が、いたから。捨てられるわけがなかったんだ。遙風輪廻にとって、久刻十字は全部だったんだよ。……だから、どちらかが消えるしかない。どちらかを、残す為に」
言い終えて咳き込む。肩に遙風の血が染みていく感覚を覚えた。
「もういいから、喋るな遙風! すぐ新都の病院に連れてってやるから……!」
「……十字、あのさ」
喋るなと、言っているのに。
「……こんなこと言ったらきっと後悔すると思うんだけど、どうせ最後だから言っておくよ」
呼吸は落ち着いて――否、荒っぽかった息が少しずつ消え初めていた。
「嬉しかった。何もないまま空っぽにならなくて――お前がいてくれて、よかった」
「……遙、風?」
「じゃあな、十字……ありがとう、ここに、いてくれて」
かくり、と首を折る。俯くように、泣いている顔を隠すように。肩に感じる温もりが、その濡れた温かさが遙風の血なのか涙なのかは、僕には分からない。そして、それを知っているだろう張本人は、その体を何度揺らしても返事をすることはなかった。
*
絶望の中にあって、けれど希望を抱かせる鼓動は微かに聞こえていた。
意識の落ちた遙風の体はしかし、まだ死んではいなかったのだ。まだ心臓は脈を打ち、全身に血液を巡らせている。空前の灯火といえる命かもしれないが、細い呼吸は確かにまだ続いている。このまま放っておけば助からない傷だが、治療すればまだ助かる状態だった。
遙風を背負って、半ば引き摺る形で運んでいく。意識の途絶えた人間を運ぶのは予想以上の労力を必要するらしいことが分かった。まるで無意味な学習だが。そんなことを考えていないと、正気を保っていられそうにない。
廃墟の角を曲がる。大橋までは後少し。
突き当たって左、瓦礫の形成する迷路の角。その先に。
天門坂一月が、唖然とした表情を貼り付けて立っていた。
「天門坂……頼む、ちょっと肩貸してくれ。まだ息が――」
皆まで言うより早く、天門坂は動き出していた。瞬く間の加速は、一歩の踏み切りで十メートルほどあった距離を一秒でゼロにする。かのスプリンター二人でさえ驚愕するだろうロケットスタート。だが、これに箱崎が惹かれるかどうかと考えれば答えは否。――天門坂の速さは、そもそも質が違う。
それは運動としての加速ではない。
それは――殺人としての過程的動作。殺戮衝動に明かせた、殺人のツール。
「天門坂、待て――」
一秒後の未来が見える。蒼い瞳に見入られた久刻十字の四肢が断絶される光景が容易く瞼に浮かんだ。――本気の殺意を携えて、あの夜と同じ、天門坂一月は凶刃を手にして久刻十字の懐に踏み込む。
ふわりと舞う長髪。疾駆は時間の逆走染みた速さを伴い、急停止した体は無駄な動きの一切を排除して、その瞬間その体はただ目の前の存在を殺す為だけの兵器と化す。瞬きと共に閃く銀色の一閃が虚空を流れ切り裂いていく。刃の向かう先は狂いなく僕の喉元。頸動脈への致命傷を狙った一振りが、眼下から跳ね上がる。
「――――ッ!」
回避出来たのは神の気紛れか運命の悪戯。どちらにしろ僥倖であることに変わりはない。飛び退いた負荷は想定の範囲を軽く嘲笑い――遙風の体の重みの分を忘れていた――無理な跳躍に背中から倒れてしまう。
「待てって、天門坂落ち着け!」
理性をなくした瞳が語る。――何も、聞く気はない、と。そう告げている。
「……この、野郎」
天門坂の体が飛び上がった。座ったままの体勢ではその跳躍が一層大きなものに見えてしまう。しかし目を引くのはその尋常でない運動神経ではなく、彼女が頭上に振り上げたナイフ。切っ先をこちらに向け、振り落とされる瞬間を待つ殺意の煌めき。
本能で飛び退いた。足掻くような、無様な抵抗をしてしかし命を繋ぐ。躱せるはずのない一撃。久刻十字は奇跡的にそれを回避できた。あるいは、それは。
隕石の落下。少女の細い身体が降ってきただけで、それだけの迫力を与えられる。耳を劈く金属音。大気と刃の振動。柄を握った力がどれほどのものかにも依るが、これではナイフを持つ天門坂にも衝撃が伝わってしまっているはずだ。攻撃にしては杜撰の一言に尽きる。芸術的な身のこなしに反して、殺しのその瞬間、殺意の爆発する決死の一瞬に彼女は乱れていた。
思えば、これまで何度も天門坂のナイフを避けられたのは、偶然でも奇跡でもなかったのかもしれない。
「……なんで」
震えていたのは、彼女の声だった。だらりと下げた手にナイフを持って、幽鬼のように揺らめく動作でこちらを向く。奥歯を噛み締めた悲痛の表情が、泣きそうな目をして僕を睨んでいた。
「……天門坂」
「――なんで、殺せないの――!」
爆ぜる少女の体。相変わらずの異常な加速。一度の踏み切りがそれだけで最高速の到達を図る。その流麗な、蒼い瞳の輝きと黒い髪の閃光に似た軌跡。何一つ無駄も迷いもない直線だというのにただ一つ、最後の瞬間にだけ――
「そんな…………なんで、なんで……!」
――禍々しい殺意は何故か、久刻十字の喉元を目前に狂い出す。あるいは迷いとも言えるのか。今度こそ僕は自身の意思とは関係のないところで、一切の動作をなしに彼女の殺意を躱した。
ナイフは顔の横に突き立てられている。横目に窺うと、汚れのない銀の刀身が瓦礫の壁に突き刺さっていた。
「わたしは……貴方が憎いのに……アンタを殺したいと思ってるのに……!」
どうしてこの手は、言うことを聞いてくれないのか。そう、自らに問い掛けるような悲しい叫び。
「ずっと憎かった、わたしの姉さんを奪って助かったアンタが恨めしかった! ずっと殺してやりたいって思ってたのに、なんで、わたしは……わたしには――」
きりきりと、音がしている。鳥肌の立つ、嫌な音。ナイフの先端がコンクリートを削りながら立てるその音に引き摺られながら、遂に天門坂は膝を屈した。からんと鳴って地に転がる凶刃。泣いているような声が、俯いた彼女から聞こえてくる。
「……殺せるわけないよ。わたしを、許してくれるって言ってくれたのに。人並みに扱ってくれたのに――こんな、復讐なんて」
ゆっくりと、顔を上げる。
「ごめん、久刻くん。……わたしには、貴方を殺せない。殺したいなんて、わたしが破綻しない為の言い訳だったんだ」
殺すつもりなんてなかったと、それは許して欲しいと懇願しているわけでもなく、そうしないと壊れてしまう自らが悲しいと泣いているだけ。
「だけど――」
不意を衝かれた。その一瞬、確かに僕の意識は弛緩していたのだ。
肩に感じる激痛。痛みに呼応して滲み出す傷口の焼けるような熱。何が起こったのかを理解するのに必要以上の時間が掛かってしまう。純粋に驚いた。そう、天門坂が振り上げたその今は赤を付着させる刃に感じたのは恐怖ではなくて驚愕。有り得ないと、それだけを思った。
「――だけど次に会ったら、殺しちゃうと思うから。……これで、さよなら」
「天門……坂」
痛みに膝を折ってしまう。跪いた姿勢で、おそらく苦悶に歪んだ表情をしていただろうその顔で天門坂を見上げる。
彼女は、
「だから、もうわたしの前に現れないで――わたしは、貴方を殺したくない」
優しい笑顔に、斬られた僕よりも深い痛みを背負っているような悲痛を滲ませて、涙を流して泣いていた。




