/Ⅲ
/3
それは語られることのなかった幕間。
ある少女の物語を垣間見た、少年の記憶。
*
天門坂一月に殺されかけた翌日の、また別の意味でも殺されかけた朝から時刻は時計が半分回って昼休み。遙風が本題、つまり本来僕らが昼食をともにする理由であるところの話題を持ち出したのは、購買での激戦が終結を迎えた後だった。この際だから戦況を回想したりはしないが、否応に痛む全身と疲労困憊した心身は筆舌に尽くし難い戦の経過を物語って自重しない。明日の筋肉痛は間違いないし、加えて右脹脛が異常な痛みを訴えている。人込みに揉まれている途中、誰かの膝なり肘なりが入ったのだろう。
僕達は中庭にある何期生かが卒業前に作っていった木製ベンチに腰掛け、僕は自販機で買ったパックのコーヒー牛乳を、遙風は正しく戦利品のタルトを片手に食後の緩やかな時間を過ごしていた。
「天門坂一月のことですが」
青空を仰ぎながら僕がパックの中身を吸い上げていると、遙風が唐突に切り出した。
穏やかな陽気に眠気を催していた僕はその一言で意識を元の場所に戻す。遙風は、両手でタルトを持ったまま僕を見ていた。
「話すのはやぶさかなのですが、どうしてそんなことを尋ねるのか理由を聞かせてはくれませんか?」
「理由……ねえ。それは聞かない約束をしたと思うんだけど」
「約束をしたのは昨日の私です。言ったはずですよ。私達は同じ遙風輪廻ですが、完全に別離した人格だと。彼が結んだ協定を私が守る必要はありません」
不可侵条約は意味を成さないということが、ここに明言される。
これは弱った。昨日の遙風は大雑把な性格だから深入りや詮索したりはしてこないのだが、この遙風は繊細にして几帳面な性格だ。誤魔化そうにも僕では天下の遙風を欺くことなど出来ないし。肩を竦めて苦笑。僕は言う。
「男子が女子を詮索する理由を、遙風、昼下がり前の女の子に話せると思うかい?」
「……それはつまり、不純な動機があるということなのですか?」
不純な動機、とは。これはまた随分な表現ではないだろうか。
遙風は唇を固く結んでしまい、やや自棄になった様子でタルトにがっついた。荒れ狂う戦場を駆け抜け、多大なる犠牲(僕)を払って手に入れた至高の一品を半分ほど平らげる遙風。口の中でそれを咀嚼嚥下し、残ったタルトを睨みながら、
「不愉快です。とても。とても不愉快です久刻くん」
「僕が女の子を気にすることが、君にとってそんなに気に食わないことなのか?」
俯き加減の視線が鋭く振り上げられ、槍の勢いで僕を穿った。
「このタルトが美味しく感じられなかったことが、不愉快だと言っているんです!」
「あ、口元、ほら。クリーム付いてる」
慌てなくてもタルトは逃げないだろうに。冷静な遙風にしては珍しい姿だ。
僕が遙風輪廻と過ごした時間は、実に半年ほどである。一年次はクラスが違っていたし、中学の頃の遙風なんて知りもしない。今年の四月にクラス替えがあって、五十音順に割り振られた座席で僕の前にいたのが遙風だった。きっかけなんて覚えてない。その程度の関係。別段特別な関係とは言わないでも、僕にとって彼女が平均以上に好意を抱いている友人であることは間違いない。
故に。
遙風の様子が異常だと感じ取ることは、呼吸も同然に容易かった。
「よし、オーケイ。まずは落ち着こう遙風。ほら、深呼吸」
「すー…………っはー」
案外素直だ。目を閉じてする本格的な深呼吸だった。流石はもと陸上部といったところか、やけにその姿が様になっている。断っておくが、僕は決して動作のたびに緩やかな上下運動を見せ付ける胸部を見てなどいない。
目を閉じたままの遙風に僕は問いかける。
「落ち着いたか?」
「……ええ、はい。ある程度は、お陰様で」
「それじゃあテスト。君のご主人様は誰でしょう? ヒントは、目を開けて最初に見えた人だ」
ゆっくりと、閉じた瞼のシャッターが上がり遙風の瞳に僕の姿が映し出された。
「……久刻、十字」
「あれ? 遙風輪廻、君は自分のご主人様を呼び捨てにするのか。それはまた不躾な話だな」
「ご、ごめんなさい……ご主人様……」
「なんだ、やれば出来るじゃないか」
催眠術にでも掛かった感じで僕に従う遙風。
「それじゃあ『行ってらっしゃいませ、ご主人様』とでも言ってみようか」
「…………」
「ほら、どうしたんだ? 早く――」
「逝ってらっしゃいませ、ご主人様」
にこり。向日葵みたいな笑顔が遙風に咲く。
だがその笑顔は直視した者を骨の髄まで氷付けにしてしまうほどに冷たい、氷点下の冷笑だった。
なんだか、様子が可笑しくないか……?
「いや、遙風、それはなんだか違う気がするんだが……。もっと、なんていうだ――」
「お還りなさいませ、ご主人様」
「ごめんなさい! 調子こいてすいませんでした!」
僕は謝った。ベンチから飛び跳ねるようにして、今にも土下座に移行しかねない勢いで。周囲の生徒達から注目を浴びることなどお構いなしに、天まで届けとばかりの大音声を響かせて。僕の醜態を見た生徒達に告ぐ。後学の為に覚えておくといい。これが、身から出た錆だ。
顔を上げると遙風の冷笑は収まっていたが、冷ややかな侮蔑の視線で僕を見下す瞳は健在。それは自分とは違う何か、ケダモノでも見ているように非難や嫌悪を孕んだ眼光が僕の全身に向けられている。やめろ、溶ける。
「久刻くん、言って御覧なさい。誰が、誰のご主人様か」
「は、はい! 久刻十字は遙風輪廻様の奴隷でございます!」
「では、私の靴を舐めなさい」
「はい! ご主人様!」
僕は遙風の靴に両手を沿え、ゆっくりと持ち上げて口元に近づけた。
そこで、
「久刻くん」
「はい! なんでございましょうかご主人様!」
「空気を読んで下さい」
「……」
それを言われてしまったら、お終いじゃないだろうか。
返す言葉もなく固まった僕を見下ろす遙風は、依然として掴まれたままの脚を定位置に戻す。やれやれとばかりに溜息を吐き出して、その表情はより一層憂いを含んだものに変化した。
「先に取り乱したのは私ですが、久刻くんのそういうところは改善すべきだと思います」
もっとも過ぎるが、悪乗りしたのは遙風、お前だぜ?
僕は地面に突いた膝を上げて、また遙風の隣に腰を下ろす。今度は僕が深呼吸をして空気と気持ちをリセット、清浄化した。おふざけなし。話を振ったのは僕の方で、遙風は貴重な時間を割いてまで僕に付き合ってくれている。ならば、これ以上昼休みを無駄に過ごすのは無益でしかない。時間は永遠ではないのだから。
さて――前置きが長くなったが、ここからようやくにして本題だ。
遙風はまず一度重たい口を開いて息を吐き、俯き加減僅かばかり瞳を細めて話し始めた。
「先に断っておきますが、私に話せるのは『天門坂』についてです。残念ながら、『天門坂一月』という個人については話せることがありません。勿論、まったくないというわけではありませんが。それは久刻くんにとって既知の情報だと思うので割愛させていただきます。よろしいですね?」
早口に言った遙風に首肯。分かりました、と遙風は頷いて話を進めた。
「有り体な言い方ですが、天門坂という家系はこの街で最も旧く巨大な家系です。知ってましたか? この街も昔は殆どが天文坂の私有地だったんですよ。まあ、それはいいでしょう」
遙風はそこで一度言葉を区切った。間を置くというよりも自分の中で次の句を発する心構えをしているような、そんな沈黙。さっきほど大袈裟ではないが、小さく深呼吸もしている。
ややあって、遙風が言った。
「――天門坂の家系は既に途絶えています」
「……なんだって?」
まったくと言っていいほど間を空けずに僕は問い返す。
「ちょっと待った、遙風。途絶えた家系って言っても、現に天門坂姓の人間がいるじゃないか。それじゃあ矛盾するだろ」
天門坂なんて名字、そう頻繁に見かけるようなものでもない。この小さな町の中で天門坂と言えば、きっとその姓を持つ家系は一つしかないだろう。それが途絶えたというのならば、僕達のクラスメイトである天門坂一月は一体何者かとそういう話になる。
一人内心で動揺している僕の心中を読み取ったように――というよりその疑問が発生することを初めから予想していたと言わんばかりに、遙風は直ぐに答えを寄越した。
「途絶えたと言っても、根絶やしになったというわけではありません。大きな家系ですから、分家は今でも生き残っています。とはいえ、正統な意味での天門坂は事実として終わったのです」
意識して見ないようにしていたのだろう、校舎の遥か上空、あるいはそれよりももっと遠くのどこか果てに向かっていた視線が僕に向けられる。正面から大きな瞳が僕を映し出して、瞬きさえもなく遙風は告げた。
「天門坂本家は、七年前に屋敷ごと全滅しました。――この意味が分かりますか?」
遙風は僕を見ていた。表面的な意味ではなく、内面的な意味で。これまでは呼吸も同じく読み取っていたであろう僕の心象を、今回は特に注意して逃すまいとするように。僅かな漣も見逃さず捉えようと、心の深い部分まで視線が突き刺さる。
七年前。この町に住む者なら否応でも脳裏に思い描く、あの夜の震災を。真紅に染まった地獄に等しい滅びの世界を。絶え間なく夜空に響き渡る断末魔の嗚咽を。
炎に身を焼かれ、廃墟の下に埋もれ、降り注ぐ瓦礫に押し潰される人々の姿。
死後の世界があると仮定するなら、地獄という概念に形があるとするならば間違いなくあの夜は地獄そのものだっただろう。
黒煙が支配する空。終焉無き煉獄を照らす金色の月。
その全てに一切の救済はなく、それらはただ無慈悲にこの街の終わりを見下ろしていた。
瞼の裏に描いた絶望の具現を消し去って、僕は今日の晴天を見上げる。
「震災、か。天門坂の屋敷もあっち側にあったわけだ」
「はい。では天門坂本家がどうなったかを想像するのは容易でしょう?」
容易どころじゃない。想像するなんて行為自体が無駄だ。
僕ほど頻繁に災害跡地を訪れていなくても分かる。直観は直感よりも尚鋭利に人間の脳に切り込み、真理として記録されるのだから。見渡す限り一面の廃墟。瓦礫に埋もれた景色。あの中で原形を留めている建造物がない以上、天門坂邸も無事で済んでいるはずがない。
あの夜、あの場所は全てが終わったのだから。
天門坂が誇っていた巨大さを僕は詳細には知らない。だがそれでも、街を治めるほどの家系が数人程度しかいない生存者の中に納まりきるとは到底思えない。遙風が終わったと言うのなら、それは本当なのだろう。
「ってことは、天門坂一月は分家の人間だってことか」
確率論でいって最も可能性のある考えを僕が口にする。遙風は肯定も否定もしないまま、
「あるいは――彼女自身も生存者の一人であるか。です」
その可能性を口にした。
「気をつけてくださいよ、久刻くん」
これまでにないほど真剣な声音で遙風が脈絡もなく言う。
「もしも天門坂一月が生存者であるとするならば、彼女はあなたをどう思うでしょうね。誰も人が寄り付かないあの災害跡地に足繁く通っているあなたを。そのことを、彼女が知ってしまったのなら」
「別に。なんとも思わないんじゃないのか?」
廃墟と見るや侵入したくなる子供のように思われるか、ただの変人だと思われるか。どちらにしたって特別な感情など発生しない筈だ。彼女が生存者だとしてもそれは変わらない。天門坂が災害を経験していたとして、その地に僕が踏み入ったからといって何だというのか。
「そうですね。普通ならそうです。普通の人間なら、久刻くんの頭が変だと思う程度でしょう」
「……お前のその台詞には、何だか悪意を感じるな」
遠回しに遙風が僕を罵倒していたとしても、それは普段のことだから気にならない。
気になることがあるとするならば、彼女がもう一つ遠回しに暗示している事柄だった。
「普通の人間なら……ね」
冒頭を思い出す。遙風は『天門坂一月について』は話せることがないと言った。その割にはここまでの話の運びは天文坂個人のことで、遙風が初めに言った『天門坂家について』のことを僕はまだ聞いていない。
天門坂個人に関して、おおよそ予想でしかないにしろ外堀だけなら情報を貰った。遙風にとってそれが前提だったというなら、この次には本題――天門坂家についての情報が提示される頃だろう。
「今となっては真偽が不明な話ですが、過去、天門坂家にはある噂がありました」
前置きを済ませる遙風。その様子から、僕が汲み取った遙風の意図はおそらく間違ってはいなかったと認識する。
「天門坂本家は当時分家の一つを使って人体実験を行っていた、そうです」
「人体実験?」
にわかに信じ難い非常識な単語を僕が反復する。
対して遙風は、首肯してから首を傾げるなどと矛盾した動作で僕を見返してきた。自分の発言に違和感があったのか、それか伝えたかった事柄が上手く伝わらなかったと言っているような。補足するように遙風が続けた。
「人体実験……というのは表現に誤りがあるかもしれませんね。天門坂家は遺伝子操作、DNAの組み換え、近親相姦など……そういった方法で『優れた人間』を造ろうとしていたといわれています。人工的な天才、先天的に造られた才能とでもいうのでしょうか」
遙風としてはこちらの方がしっくりきたのか、その口調は先刻よりも確かなものだった。
「そいつはまた。『優れた人間』が欲しかったんなら、物心ついた瞬間から英才教育漬けの日々を送らせるなりすればよかったのに。人体実験なんて表現をされるような方法をどうして選ぶのか、僕にはまるで想像が付かないよ」
時に頭のいい人間の思想は常人には理解が及ばぬ発想をするという。正しくその類の話だろうかと考えて、やはり僕にはそれさえも理解できないことに思い至った。何だか誰か知らない頭のいい存在にバカにされている気分だ。
頷いては、いいえ、動作と口上で矛盾する対応をまた遙風が見せる。
「それでは届かないんですよ。人間の限界は生まれた時から決まっています。上限は初めから定められていて、ヒトのスペックは無限ではありません。だから彼らは常識的な手段を選ばなかった。自分達の求める域に達するには、常識という檻を破壊する必要があったのでしょう。切欠なんですよ。平穏の揺るがない世界を動かすための。理を覆すための手段。天門坂にとって、方法とは鍵と同義です。こういう言い方も出来ます」
一度息を溜めてから瞳を閉じ、再び開かれた水晶体に僕の姿を映して、
「――天門坂は、世界を越えようとした、壊そうとした一族だったとも」
スケールの飛躍し過ぎた話に僕の思考が若干の遅れを伴ってリアクションする。けれどやっぱり、世界なんて単語を持ち出されてはいまいち的確な反応が見当たらなかった。世界を壊す。それが比喩的な意味を持つ言葉だとしても、僕には何の例えか皆目検討も付かない。
だとしても一つだけ理解できたのは、遙風が言葉よりもむしろ目で語っていたことだった。
本人が意図して眼光に意思を篭めたのか、僕が勝手に深読みしてしまったのか。なんにしろ、分かってしまったことはどうしようもないのだが。遙風は純黒の瞳で僕を見据え、こう語っていた。
だから、罰が当たった。
憎しみも悲しみも、哀れみなんて到底なく。ただ静かに落ち着いた視線が無言で主張していた。
「といってもまあ……全て仮設なんですが」
最後に全体を曖昧にする言葉を付け加えて話を締める。
はあ、とため息を吐き出した彼女の表情は少しだけ弛緩していた。
「今となっては全て真相は闇の中、もとい瓦礫の下ですね」
「上手いこと言ったつもりかよ、それ」
これは珍しい。遙風が冗談を言った。本人にそのつもりがあったかは定かでないが。
僕は苦笑して、遙風は笑わなかった。緩くなった空気が今一度固さを取り戻し、
「ですが、火のないところに煙は立ちません。噂に、全く根拠がないなんてことは有り得ないことなんです。あの場所でなにが行われていたのか分かりませんが、私に言えることは一つです。天門坂という家系は常軌を逸しています。分家だってそれは変わらない。久刻くん、あなたがどんな理由で天門坂一月に関心を持っているのかは知りませんが、気を付けてください」
真っ直ぐに僕を見、穿つ視線。
僕は知らず口内に溜まっていた唾を飲み込んで遙風の瞳に応える。
「彼女には関わらない方がいい。天門坂と関われば、日常なんて簡単に壊れてしまいます。……私はあなたを失いたくはありません」
特別と普通。
異常と通常。
二つは同じ場所になく、決して寄り添うことは出来ない。
この場合、天門坂に関わって飲み込まれるのは僕だということか。遙風にとって、少なくとも僕は平凡で通常らしい。そして彼女にとって、今僕らは同じ場所にいるという意味でもあった。それは、素直に喜んでもいいことなのだろうか。
「大袈裟だよ、遙風」
心配し過ぎだ。さっきの話を仮設だと言ったのは他ならぬ遙風自身だというのに。
もっとも、遙風に心配して貰えるのは僕としては身に余る光栄なので素直に喜ばせてもらう。
友人は大切にしなければならない。ただでさえ僕は交友関係が広いわけではなく、遙風は数少ない友人の中で特別友好度の高い人物だ。彼女の気遣いを蔑ろにすることは絶対に避ける必要がある。だから僕は平静を装って日常の言葉で返す。
きっと遙風が友達と思ってくれているだろう久刻十字として、僕は僕自身の偽りなき誓いを口にした。
「心配しなくてもいい。未来永劫、僕は君以外の人間の靴を舐めたりはしないよ」
僕は笑って、遙風は笑わなかった。代わりにもう嘆息さえも出てこないという風に肩を竦め、それでもやはり堪えきれなくなったのか、はたまた無意識なのか本日最大級のため息を吐いた。
それでいいんだよ遙風。
だってさ。
僕らの日常に、シリアスパートなんて必要ないだろ。
それはある日常の頁。ひょんなことから読み飛ばされた幕間。
「死体が消えてた?」
またなんともホラーなことを事後報告とばかりに天門坂が告げたのは、その翌日の昼休みであった。ところで近頃僕の昼休みはスプラッタであったりサイコであったり果てはセカイ系の話題に占領されているのは如何したことだろうか。健全なハイスクールライフの休息時に好んで持ち出す話題でないことは確かだ。
「リビングデッドとかそんな類いかよ。止めてくれよ天門坂、幾らなんでも僕は吸血鬼みたいなのと秘密裏に戦う学園生活は送りたくないぜ。ニンニクとか嫌いだし」
死者の蘇生に関して最もポピュラーなのはやはり吸血鬼、ドラキュラとかのオカルトだろう。しかし現場に撒き散らされた異常な量の血液を見る限りその類いの怪異を持ち出すのは不適切だ。奴等はきっと一滴の血も残さない。
「冗談で言ってるんじゃないの。ふざけてるなら本気で無視するわよ。別にわたしは一人でも構わないんだから」
「い、いや悪い。ちょっとくらい軽い空気を挟んでおいた方がいいと思ってさ、ほら、精神衛生上とか。暗い話題ばかりだと気が滅入るだろ」
「……もう。いい? 一応言っとくけど今は現実的な話をしてるの。吸血鬼云々は空想でしょ。そんなのが有り得ない以上、昨日まであった死体が次の日になって消えてたってことがどういうことか。それぐらいアンタにだって分かるでしょ?」
嘆息を交えながら筋道を立てる天門坂。どうにも冗談に付き合ってくれる気配はなく、いやはや、遙風と違って扱いの難しい奴だ。単刀直入に本題を持ち出した天門坂に合わせて、僕も上がりきらないモチベーションを無理具利持ち上げる。
死体の消失。
空想上の概念や理論を排除した上で導き出される結論は――何者かがそれを隠した、ということ。あるいは持ち去って埋める、焼くといった手段により一度殺した人間を完全に消し去ったか、だ。今朝の地方新聞を拝読した限りでは、まだ失踪事件は都市伝説扱いで小さな枠を隅に構えるのみだった。あんな変死体が正規のルートによって発見されたならことは既に一大事になっているはず。それがないということはつまり、死体を破棄ないし移動させたのはそういった部類の人間ではない。世間にその存在を認知されては困る誰か――他ならぬ犯人だ。
「昨日の朝にはなくなってた。迂闊だったわ。前に死体を見つけた時も次の日には消えてたんだけど、前のは今回よりずっと酷くて、色々考えようがあったから気にしてなかったんだけど」
本当に、残念。天門坂は発言に相応しく心底悔しそうな顔をしている。苦杯を飲みなんてものじゃなく、樽ごとイッキした感じだ。苦杯が樽に入っているかはともかくとして。
悔しい。その通りだ。天門坂一月は寸分の狂いもなく見立てに違わず悔しさを湛えた心境なのだと思う。だがそれは『手掛かりを失った』とか『あの場で張り込んでいれば犯人を捕まえられたのに』のような悔恨でしかない。決して死した誰かを気に掛けるのではなく、死者への冒涜に憤りを感じているわけではない少女の表情にこちらは複雑な心地に陥る。復讐は、こんな少女を冷酷無比な存在に変容させてしまうのかと。
なにより。この僕自身もまた、その概念に取り憑かれて自己を乱されてしまうのかもしれないという、恐怖に似た不安。人間らしい感情を殺してまで、僕は――久刻十字は姉を思っていられるだろうか。それを考えると嫌になる。自分と彼女を天秤に掛けようとする自分に言い知れぬ嫌悪感を抱いた瞬間だった。
「ねえ、聞いてるの十字? ……アンタさ、その人に喋らせておいて途中にどっかいっちゃう癖、治した方がいいわよ。話してる側からしたらすっごく気分が悪いんだから」
憤懣と不満に眉を怒らせながら、覗き込むような角度で睨んでくる天門坂。驚いたのは彼女の端整な顔がやたらと近くにあったことで、往年のテレビアニメなら僕の左胸がハートマークを突起させていたことだろう。だがそのことは意に介さず、冷静な口調で平然をアピールする。
「悪い。どうにも気になったことがあると考え込んじまう性格なんだよ」
「へえ、それじゃあさっきの話で気になったことがあったわけね」
う……何だこいつ、嘘発見器みたいな勘してやがる。宿題を忘れた言い訳を追及される気分で僕は咄嗟に口から出任せを吐き出す。後付けになるけれど、それが意識せずとも口をついたのは深層心理のどこかに疑問として引っ掛かっていたからかもしれない。
「腕――」
思い出したくもない、鮮血の匣の中。欠如したパーツ。
「……死体から腕と脚がなくなってただろ。あれ、なんか意味があるのかと思ってさ」
思えば、あれを死体と認められなかったのは、その認識に抵抗が付いて回ったのはそれが理由だったのかと今になって思う。人体を模しているにも関わらず、決定的に足りない四肢。乱雑に喰い千切られたそのパーツを見ていない。そこだけが持ち去られたように消失していた。
「なんだ。本当に考えてたんだ。ちょっと意外かな」
いちいち言葉と表情がぴったり適合し合う奴だ。隠す気などさらさら、目を丸くして天門坂が僕の思考が未だ至らぬ先を継ぐ。
「確かにね。どうせ全部持っていくんだったら初めからそうすればよかったのよ。なのに犯人は四肢を無くした胴体だけを残した。疑問と言えば疑問よね」
「何か推理とかあるのか?」
「残念ながら。そうした理由は皆目見当も付かない。単純に、一度に全部運ぶのは重いから分割した、とかしか思い付かないわね。手足を千切って放置しておけば、その間に血も抜けて軽くなるし」
天門坂一月。同期の女の子が口にするには残忍過ぎる上背徳的過ぎることを臆面なく言って退ける。
「でもね、その疑問から分かったことが一つあるの」
ぴん、と人差し指を立て、若干得意気に口元を吊り上げる。大人の盲点をついた事実を自分だけが見つけた子供みたいにあどけない、話題からして明らかにそぐわない表情。……何度も思ったけど、こいつの精神構造はどんな風に形成されてるんだ。
「あの死体には、実は二種類の傷があったの。昨日確認したけど、あの死体はぱっと見ただけで全身傷だらけだった。どこを見れば負傷してないのか分からないくらいにね。だけど、それだけ大量の傷を刻まれていながら、そのどれも致命傷ではなかったのよ。正確に、意図的に急所を避けられてた。大事に大事に殺さないように傷付けられていた。それなのに肩口は酷いものよ。乱暴に噛み千切った、とか無理矢理引き裂いたとかそんな感じ。他の傷が全部『傷付ける』為の行為によって出来たものならこっちはまるで、『解体する』ことが目的みたいだったっていうのかな。殺さない傷をあれだけ作っていながら、止めの致命傷があれだけ乱暴なのはどう考えても可笑しいわよ。あの死体にはね、同時に二つの異なった目的の傷痕、いわば『意思の痕跡』が残ってたのよ。――わたしの言いたいこと、分かる?」
「……犯人が二人いるってことか? それか、一人の人間の中で完全に異なった意思が二つ成立していて、それが何かの拍子にスイッチしたとか」
傷付ける目的の先に、偶然行き着いたのが殺人という結果。殺す目的があったのではない。これではまるで――目的なく殺した結果が、傷付けるという行為の先にあっただけ。血と肉の塊。知らずそんな表現をしていたのは全身に刻み込まれた多過ぎる傷のせいか。直観が思考と繋がって、ようやく自分の考えが明らかになってきた気がする。
天門坂は無表情に、惨状を喚起して悼むようでもなく、
「正解。わたしもその考えに賛成かな。まあ、後者は現実的じゃないし、冷静に冷静に人体を傷付ける人間が衝動的な激情に流されて腕を引き千切るなんて考えられないから、賛同するなら前者かな」
「犯人が二人……ねえ」
だとしても、それでもやはり疑問は残る。複数犯による連続殺人なんてそうあることじゃない。共犯者が多いほど犯罪は成立の難度を上げる。計画的に特定の人間を殺すならともかく、不特定多数の人間を目的なく殺害する愉快犯が複数人であるなどありえるのか。状況だけで見た仮定なら正しいかもしれないが、所詮こんなのは当て付け論法。欠点は幾らでもある。
「今の段階でわたしに言えるのはそれくらいかな。今日も、もう一回旧都に行ってみるつもりだけど……って何よそんな風にまじまじと。わたしの顔、何かついてる? それとも見惚れちゃった?」
常套句の後に天門坂らしい、からかうみたいな発言が付け加えられる。
「いや、何て言うか天門坂、お前って結構いい奴なんだなって思ってさ」
「なによそれ、わたしが十字みたいなお人好しだとでも言いたいの?」
褒めてるのに、なぜ仏頂面して突っぱねられなければならんのか。素直に喜んでもらいたいところ半分、紅潮して狼狽する天門坂を見たかったところが半分であった僕としては大変不本意な結果だ。こんなところで王道を外して欲しくない。
腰に手を当てて、仁王立ちした天門坂の表情が曇る。腹の底から引き摺り上げた深いため息をこれ見よがしに吐き出して、
「あのね、わたしは一応協力関係にある以上最低限の義務は果たす。アンタ強情だから、どうせ何を言っても一人で犯人捜しを続けるだろうし、そうなったら目の前をちょろちょろされるのは鬱陶しいのよ。まあ……十字を躍起にさせたのはわたしだし、責任がないわけじゃないから……。頭数なら一人くらい邪魔にならないし、二人の方が見えてくるものも多いと思うからね。それにほら、昔の人が言ってたでしょ? 三人寄れば文殊の知恵ってさ」
そういうことは照れ隠しを含んで言って欲しいのだが。要望は通らないだろうから、指摘する点を文末に絞る。
「一人足りてないぞ」
「大丈夫よ。わたしが五人分はカバーするから」
「僕いらねえじゃんか」
文殊の知恵が二つ完成していた。
「もういいでしょ。くだらないこと考えてる暇があったらちょっとは善後策でも練りなさいよ。言っとくけど、手掛かりないんだからね、わたし達。どうやって犯人を特定するかとか、問題は山積みなんだから」
偉そうに言うことでもないのだが、天門坂の言うことは正論だ。放っておけばまた次の被害者が出てしまう。今は手探りでしかないが、せめて捜査の方針くらいは定めるべきだろう。
「とにかく、わたしは放課後旧都に行くから。見落としがあるかもしれないしね」
じゃあね、と黒髪を翻して歩き出す。天門坂の背中が僕を向いたとき、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響いた。……なんか別れ際を上手く決めたみたいな後姿だけれど、僕も戻る場所は同じなんだよな。思いつつ、腰を上げたのは天門坂の背中が見えなくなってからだった。なにをしてるんだろうね、久刻十字はさ。
*
「箱崎」
放課後だった。僕は先にすたこら教室を出て行った天門坂に遅れを取ること掃除当番分の時間とそれから気分的にどこか重たかった足取り分だけを経て、旧都と新都を隔てる川の岸辺までやってきた。大橋の傍に立って、ぼんやり蜃気楼でも眺めているみたいな様子の箱崎外流を見付けたのはその時である。
「なにやってんだよお前、ていうか、こっちには近付かないようにって言っといただろ」
昨日の今日もいいところ。先輩の忠告など聞く耳持たない箱崎。少しだけの苛立ちと九割の呆れを含んだ口調で呼び掛けると、
「ああ、なんだ。なんですか。誰かと思えば年がら年中発情期の危険男子、久刻ザ無脊椎先輩じゃないですか」
「お前とは一度法廷で話し合わなければならないみたいだな」
「奇遇ですね、ボクもどう意見です。つきましては昨日の強制猥褻について裁判官の良心にしたがった判決を仰ぎたいところですね」
「……き、貴様箱崎……!」
「なんです久刻ザ童貞無脊椎先輩?」
「お前を殺して僕も死にたいなまったくコノヤロウ!」
とか。
まはやお約束になりつつあるやり取りも学校の外で行うと新鮮に感じられた。悪い意味であること間違いない。通行人の奇異なる視線や、子供に見ないよう注意する母親とか、その母親と手を繋いでこちらを指差す子供とか。路上で騒いでる変な高校生に世間は冷たかったのであるまる。
だがその冷たさが僕の頭を冷やす役割を担ったことも事実なので、結果オーライと言えなくもないのではないかと自分を慰めつつ咳払いを一つ。勝ち誇る顔をしている箱崎後輩の死角を衝いた。
「ところでだ箱崎、まだこちらの質問に答えて貰っていないんだが」
「はい? ああ、でしたね。これは失礼。今日のボクの下着は上下水色ですよ。確認してみますか?」
スカートの端を持ち上げる後輩女子の姿を僕は直視した。ここで退くのは男ではない。
が、僕は男でありながら箱崎外流の先輩なのだ。
「しない。誤魔化すな箱崎」
「おや? 下だけでは不満ですか。では上下とも――」
「箱崎」
「…………」
迂回ルートにパイロンを乱立させて、箱崎の逃げ道を塞ぐ。悪いがここは真剣な場面にさせて貰う。
「色々と聞きたいことはあるがまず第一にお前、部活はどうしたんだよ。エースランナー不在で陸上部は活動中か?」
「休みですよ。先輩の仰る通り、最近は物騒らしいですから。学生間の噂でしかないと思いますけど、顧問が割りとそういうことを気にする人なんです」
連続失踪事件。……いや、世間的には事件ではなくまだ都市伝説程度のトピックスでしかないが、それを気にして部活動を一日休止させるくらい事は次第に世間に浸透している。事態を甘く見ているのは噂の伝達役を担う学生達の方かもしれない。
「だとして」
僕は言う。箱崎の曇った表情を見据えて。
「何でお前、またこんなところにきてんだよ。この間もうろついてたんだろ。何かあるのかよ、ここ」
「その……えっと」
戸惑う仕草が年相応で、こういうときくらいしか僕は箱崎を後輩と認識できないくらいだった。だって明らかに態度が可笑しいもんこいつ。
長い沈黙を挟んで、口ごもりながら箱崎は言った。僕の目を見ないようにして、瓦礫の果てに思いを馳せる横顔に哀愁を漂わせ、そのあまりに不慣れな真面目な表情と口調で言葉を紡ぐ。
「………………家が」
泣いてしまいそうな、嘆きに似た虚な声と眼差し。霞む幻影を眺望するように、白昼夢の中を循迷うような様子の少女が消え入りかける微かな声で風に乗せた言葉。夢の続きを現に口に出すように、箱崎は先を自らの声で継ぐ。
「……家が、見つからないんですよ。もうずっと、帰れないんですボクは」
*
箱崎の話をまとめると次のようになる。
当時小学三年生だった箱崎外流の住所は旧都であって、それなりに旧い歴史を持つ家系に生を受けたらしい。だがある日のこと。それは唐突に訪れたという。切欠は両親の一言だったそうだ。その日珍しく父に呼び出された箱崎は、普段なら入室を許されない父親の書斎に脚を運んだ。律儀にも、あるいは他人行儀に。ノックの後、廊下に膝をついて許しがあるまで顔を上げずに。
やがて扉越しの声に入室を許可された箱崎はそれに従って立ち上がり、部屋の中に入る。開口一番。豪奢な椅子に腰を深々と押し沈めた父親は娘を振り返りもせずに宣告した。
“外流、お前は今日から箱崎の家に預けることにしたよ”
子供の箱崎外流が果たしてどのような心境でもってその言葉を――およそ一ヶ月ぶりに直接耳にした父親の声による離別の宣告を聞いていたのかは計り知れない。本人曰く、不思議と抵抗はなかったらしいが詳しいことは覚えていないと語る。泣いていたかも知れないし、笑っていたかも知れない。怒っていたかも知れなければ喜んでいたかも知れず。だが曖昧な記憶から理解に至るのは、自分がその瞬間を思い出さないようにしていることだけだった。
荘厳な声が続ける。
“外流、お前は失敗作だったんだよ。方針が間違っていたらしい。私はお前を『娘』として育て過ぎた。徹しきれなかったんだよ。自分の役割を履き違えていた。私は――”
忘れたかったのは、消し去りたかったのはその、
“お前に父として接してはならなかった。すまないな、外流。これ以上、お前をこっちには置いておけない。忘れなさい全て”
反転した椅子に落ち着いた白髪の男。顔さえ忘れかけていた父親がゆっくり歩みより、腰を屈める。箱崎外流が忘却したかったのは彼の言葉ではなくてその時に見たあの、
“ここにあった全てを忘れなさい。――そうすればまだお前は幸福に生きられる。だから忘れなさい全て。今日までのお前を忘れなさい”
頭に載せられた手が微弱に振動している。握力の少しずつ籠る掌が髪を掻き回す。忘れなさい。言葉は呪いのように。忘れなさい全て。懇願は螺旋のごとく循環を描き。そうすればお前は――。垣間見た一瞬のそれはきっと。
――そうすればまだ、お前は幸福に生きられるから。
彼の。終始涙を溢しながらも声色を変えず表情を表さなかった父親の願い。
忘れたかったのは。
最後に見てしまった父の泣き顔で。――楽しかった、幼い日。家族の笑っていたいつかの思い出ではなかったはずなのに。
そうして新都に移り住んだ箱崎外流が以後、旧都の家に帰ることはない。家を離れるその日、迎えに来た車を見送る家族の姿はなく、箱崎は父と母の顔を正確に思い出すことが出来ないと言う。ただ一つ鮮明に覚えているのが最後の夜に見た、父の顔。他の記憶は彼の言い付けを守ってなくしてしまった。
以上が箱崎の語った話である。
道端では長い話になるので、会話は近くの喫茶店で行われた。僕の提案なので、支払いを押し付けられるだろうことは予想の範疇だ。奢ってやるつもりにしては、いやに高そうな雰囲気の店に入ってしまったなと絶賛後悔している最中。
補足として、箱崎は何度も家に戻ろうと試みているが結果はいつも大橋を渡ることさえ出来ず川の対岸で立ち往生。本日よろしく瓦礫の街を眺めることしか出来ないでいるそうだ。それは決して触れてはいけないから。父に与えられた禁忌であるから、遠くから臨むだけ。……なるほど。少しだが話が読めてきた。しかしそれにしても、だとしたら箱崎のしていることはあまりにも……
「遙風のことと同じなんだな」
遙風信者、箱崎外流。しかしてその実態は――一度も彼女と会話をしたことがないどころか、まともに視線を合わせたことさえない、憧れだけで繋がった疎遠の存在なのだ。箱崎は遙風に憧れている。それだけでなく、行き過ぎてその信仰は崇拝の域に達しているが、畏れ多い遙風様には声すら掛けられないと言う始末だ。だから彼女の近くにいる久刻十字にしつこく絡む、一人のファン。それこそ箱崎外流の正体だった。
「お前さ、中学の大会で……その、何て言うか遙風に憧れた、つうか率直に言って惚れたわけなんだろ」
「はい。初めてだったんですよ『自分より速い生き物』に会ったのは。ええ、ボクの前を走っていく遙風先輩の背中にどうしようもないくらい心を奪われたんです。その純粋な速さに、魅了されたんです」
回想する箱崎。……それはつまり、こいつは遙風を好きになったのではなくて遙風の持つ『速さ』に惹かれただけということではないか。ただこいつは、『速さ』という概念に取り憑かれてしまった結果が遙風への好意や憧憬に連結していると今宣言したのだ。
「それって何か違くないか? お前、遙風が好きな訳じゃないみたいに聞こえるぞ」
「ですか? よく分かりませんね、誰かを好きになるってそういうこととは違うのですか?」
「……じゃあ仮に、遙風より速い誰かがいたら、お前はそいつを好きになるのか?」
数秒考える様子の箱崎。答えには五秒を要さなかった。
「はい、おそらく。……遙風先輩には特別惹かれる何かがありますが、それ以上にボクは彼女の『速さ』が好きなんですよ。堪らなく」
「……そうかい」
何故だろう。目の前にいる後輩を、自分と同じものと認識できないのは。こいつは、どこか歪な人間じゃないものが人間の形をしているだけではないか、そんな風に考えてしまうのは何故だ。当たり前のように、こちらの質問に頷いたこいつを、恐ろしいと感じたのは、どうしてなのか。背筋が冷たい。骨が軋んで体が冷却されていく。似たような感覚をどこかで味わった。あれは確か――旧都で、天門坂に殺されかけた時。初めて彼女の瞳を見た時と同じ。
いや待て。もっと身近にあった気もする。
「……そういや、箱崎。答えたくなけりゃいいんだが、お前の名前って元は何だったんだ?」
寒気を絶ち切りたくて話題を変える。暗示的に記憶に蓋をしている箱崎が旧姓を覚えていなくても不思議はないので返答には半ば期待をしていなかったがしかし、
「ああ、それでしたら――」
箱崎が何気なく答え、結果、違和感が現実に繋がった。
「――夜杜。夜杜外流です」
「ヨルモリ……? それって、夜に木編に土の杜で夜杜か?」
「よく分かりましたね先輩。ご明察ですよ」
分かったも何もありゃしない。だってその名前は。
「今度はボクから質問させてもらいます。答えたくなければいい、とは言いません」
「……なんだよ。拒否権なしって。これでも僕はお前に黙秘権を認めてやったんだぞ」
「お話したのですから先輩にも答えて貰わないと割に合いません。では行きますよ、心してお聞きください」
ずっ、と身を乗り出して。
呼吸の止まった、時間の止まった表情が詰問を寄越す。
「先輩は、ボクには近づくなと言ったあの場所で何をしていらっしゃるのですか?」
答えない。って選択肢はないんだよな。誤魔化して逃げ切れる雰囲気でもないようだし。
……構わないか。隠すようなことでも、箱崎が明かした過去に比べたら僕のそれなんてそこまで大層なことでもない。知りたいと望むなら教えてやろう。初公開。これが久刻十字の馴れ初めである。あー、決まらねえな何だか。
「姉さんがさ、いなくなったんだよ」
正確には。
天門坂の推理が正しいとしたら。
いなくなったんじゃなくて、殺されたのだが。
「知ってんだろ、失踪事件のこと。僕の姉さんもいなくなった一人なんだ」
訊いてはいけないことを訊いてしまったと、今更のように箱崎は気不味そうに表情を曇らせる。からんからん、と店の扉が開く音で沈黙は破られ、乗じて箱崎が質問を付け加えた。
「……ですが、それと旧都にどんな関係があるんですか? 先輩にだってあそこに行く理由はないじゃないですか」
言われて納得。確かにその通りか。事情を知らない人間には今の理由だけでは弱過ぎる。という以前に理由として成り立ってすらいない。ならばやはり、連動して深く掘り下げる必要があるらしい。
「……まあ、なんていうかさ」
どんな風に説明すればいいのかは咄嗟に浮かんでこなかった。婉曲させて一部を曖昧にしようにも上手い言い回しが見つからない。代わりとばかりに脳裏を掠めていくのはあの夜。もう何度も悪夢として見た地獄の景色と最果ての月。誰もが生きることを諦めた絶望の煉獄に迸る深紅の炎と、震動し嘶く大地。
僕は言った。
「あそこに行けば会えるんじゃないかって、思ってしまうんだよ。――僕が姉さんに拾われたのは、あの場所だから」
「拾われた……?」
思案顔は作り物ではなく心からのそれで、瞬きの内に箱崎が答えに辿り着く。凍り付いた顔に表れる感情。その心中を見越して僕は話の先を進める。
「そういうことだよ。僕はさ――あの震災で生き残った、幸運な一人なんだよ」
絶望の渦中。多過ぎる犠牲の結果救われたのは極少数。片手の指で数え切れるその人数に久刻十字も含まれていた。
本来ならあの日、間違いなく死んでいるはずだったのだ。それが何かの手違いで助かってしまっただけ。焼けた瓦礫に倒れ込んで、周囲を囲む火災を見るのも飽きて見上げた黒い空。黒煙の隙間に覗く金色に手を伸ばして、当然のように死を受け入れたその瞬間。――温もりに、伸ばした手を包まれた。
その時の彼女の顔を覚えている。煤に汚れながらも輝いていた美しさを生涯おそらく忘れることはない。絶望の中で一欠片の安堵を見付け、和らいだ笑顔。儚く脆く、直ぐに泣き顔に変わってしまいそうに涙を溜めた瞳で彼女――標月姉さんは微笑んでいた。
「お互いに身寄りがなかったから一緒に暮らすことになったんだよ。実年齢と名字は聞いたことがなかったけど、親子と言うよりは姉弟って言った方が正確だと思う」
この先は口に出さず独白に留めておくが、僕は久刻標月を姉としてではなく好きだった。自分を救ってくれたことへの感謝や、誰かを助けられる存在への漠然とした憧憬もあったのだろうがそれ以上に綺麗だと思った。誰かを好きになるなんて気持ちがどんなものかは知らないけれど、多分これはそういう類いの感情なのだと思う。
だから僕はこのふざけた猟奇殺人の犯人を――■■たい。絶対に赦すことなど出来ない。
「悪いことを訊いてしまいました。申し訳ございません、久刻先輩」
「お前がそんなこと気にする柄かよ」
失礼な、と箱崎。唇を尖らせて批難の視線を浴びせてくる。悪態ばっかついてないでそういう顔をしていたらこいつは結構可愛いと思うんだけど。不服を申し立てする視線に苦笑で応えつつ、
「いいよ別に気にしなくて。隠すことじゃないし、悪いことでもないだろ。だからさ、お前にも事情はあるんだろうけどやっぱり旧都には近寄らないでくれ。何にしても危ない場所だから」
「……分かりました。ここは久刻先輩の顔を立てましょう」
渋々ながら納得してくれた。なんだろうこの達成感は。箱崎と心を通わせたのはこれが初めての気がする。嬉しいというよりも驚いた。箱崎外流にも人の話を理解して受け止める能力と理性が備わっていたのか。
「ぶっちゃけ、あんな人気のないところにいては久刻先輩のような獣に襲われかねませんしね。遙風に捧げると決めたこの身を汚されるのはボクも好ましくありません」
いつもの調子に戻って、箱崎の軽口を物理的には数分振りに、感覚的には久方振りに聞いた。
「でもですね。少しだけ、久刻先輩なら構わない気もします……今は」
「箱崎……?」
ぺしり、と顔面に生温かい感触。浮わついた誤解を招きかねないので一切合切の比喩を省いて端的かつ簡潔に事実を描写すると、おしぼりが僕の顔を覆うようにヒットしていた。視界が薄い黄緑色に染められる。
「何しやがる?」
「あっははー。本気にしかけてエロイ顔になってたので、先輩の名誉のためにモザイクを掛けましたー」
いつの間にやら普段の箱崎が回帰していた。訂正。やっぱりこの後輩と分かり合うことはこの先なさそうだ。根本から人間としての何かがずれている。僕らの感性が符合する日は未来永劫訪れないことを知った。悲しくもない。
「約束ですよ、先輩」
「何の約束だよ」
湿った布地を剥がすと、悪戯っぽく笑って小指を立てる箱崎が向かいの席から腰を上げて僕を見下ろしていた。
「先輩がいいと言うまで旧都には近付かないことにします。ですが、いつか、久刻先輩の抱えているそれが解決したら――一緒にボクの家、探してください」
久刻先輩の抱えている……か。それの詳細を追及しないだけこの常識知らずにしては気を使えているだろう。こちらの言い付けを守ると公約しているところが何よりも好評価だ。聞き分けのよさが不気味なくらいである。ならば。
箱崎に倣って小指を立てる。絡ませることはなくても約束を結ぶ意思だけを明確に。それは言葉ではない何かで結んだ、やはり言葉ではない何か。
「約束だ、箱崎」
「はい、久刻先輩」
満面の笑みを咲かせたスプリンターは、その一言で満足し、自慢のスピードを加速させて店を出て行った。一度、出口で振り返ってそれが最後。小さく手を上げた後輩は店外に姿を消して戻ることはない。
承知の上ではあったのだが、やはりこの場は僕の奢りであるらしいと、残された伝票を見て悟った。
……思わぬ失費だ。
*
予想外と言うならば箱崎が図々しくも、あるいは無自覚的に支払いを僕に押し付けて去って行ったことではなくて、その代償とばかりに買わされた会話を傍聴している存在が過疎状態の店内に潜んでいたことだった。僕にそのことを報せたのは、しかし、盗み聞きとかそんなことがどうでもよくなるほど無邪気で無垢な声であり、
「お隣のお兄ちゃんっ! こんにちはです!」
ぴょこりん、とツインテールにされた髪を弾ませる小さな体。ソファに身を沈めている僕を起立しながらも見上げる瞳は純粋を絵に描いたような、それはそれは星雲を詰め込んだ銀河のごとく澄んだ輝きを放つ――と、過剰過ぎる表現は逆に胡散臭いか。一点の曇りも汚れもない無垢で綺麗な水晶体に久刻十字を映して、そこにいたのは未美好ちゃんだった。
なぜこの娘がこんなところにいるのかと思案するが、まずは満開の笑顔に応えて笑みを作り出し、
「こんにちは未美好ちゃん」
小さな頭を撫でてやる。と、累乗した笑顔の輝きに一瞬、僕はこの為に生きているんだな、と生の喜びを実感する。国の宝じゃないかな、この娘の笑顔は。などと至福に浸る僕はすっかり失念していたのだった。未美好ちゃんのあるところには、
「やあ、久刻くん。奇遇だね奇遇。いやあ、しかし、なんと偶然立ち寄った喫茶店でばったりだなんてこれは運命を感じるじゃないか」
枯さんも、当然いるのだ。
「カラス兄さま、ウソつきはいけないです。兄さま、お隣のお兄ちゃんを見掛けたからこのお店に入ったです」
未美好ちゃんは正直な子供だった。この兄あって、何故この妹があるのか甚だしく疑問である。性格が正反対過ぎやしないかこの二人。
「ははは、まあそうなるんだけどね。ならここであったのは偶然ではなくて必然か」
言いつつ、枯さんはそれまで箱崎の座っていた位置に腰を下ろす。さらには遠慮も躊躇いも微塵にも見せずに箱崎の残していったエスプレッソを啜っている始末。何この人。こんな大人にはなりたくない。
「……相変わらずですね」
もう思ったことがそのまま口に出るほど呆れ返る僕。見ろ、未美好ちゃんは律儀にもまだ着席せずに向かい合う男二人を交互に眺めているではないか。不憫で仕方ない。
「未美好ちゃんも座りなよ」
「いいんですか?」
「構わないよ」
久刻十字的優しさの全てを注ぎ込んだ微笑みでそれを許して上げる。するとほら、期待を裏切らず未美好ちゃんは人類の至宝と言って過言ではない笑顔を一層輝かせてくれるのだ。これに勝る喜びが他にあるだろうか。
ぴょん、と跳ねる体。ツインテールが揺れる。体重を感じさせない小さな体が、僕の膝の上に乗った。
「……未美好ちゃん?」
「えへへ、いいですか、お隣のお兄ちゃん?」
いいも何も、こっちがそれを言いたいくらいである。神様ありがとう。この幸せを僕は忘れない。
「はは、これじゃあ久刻くんと未美好が兄妹みたいだな」
と、枯さん。ああ、そういえばいたな、この人。
ていうか知らない間に僕のカップにまで手を伸ばしている。
「だってさ、未美好ちゃん。もう僕ら兄妹でいいんじゃないかな?」
「ダメです。ミミズクの兄さまはカラス兄さまだけです」
「……そっか」
しょーく。がーんと音が聞こえた気がしたくらいである。可愛い顔して殺人的な一言をお見舞いしてくれる、膝の上の小学生女子。
「でさ、何か話があるんじゃないのかい? 未美好にまで座れって言ったのはそういうことだろ」
人のカップを優雅に傾ける姿がルックスの効果もあって非常に様になっている。騙されるな。あれは僕の注文した品を無断で拝借した男であり、僕から最愛の妹を奪った存在だ。……いや、実際に未美好ちゃんの兄は枯さんな訳だけど。
気を持ち直して枯さんに顔を向ける。確かに話があるのは事実だ。箱崎の話を聞いて少しばかり気になる点があったので尋ねておきたい。不安を残すのはやはり健全な精神に害を及ぼすことだろうから、疑問は払拭するに越したことはない。
「今の奴、箱崎って言うんですけど。……なんていうのか、ちょっと事情があって名前が変わったんですよ。で、その名前が元々は『夜杜』って名前だったらしいんです。それで、その名前の時は旧都に住んでたそうなんです。これってつまり――」
カップを口から離す黒い男。――夜杜枯に、僕は訊いた。
「――枯さんも、あっちに住んでたんですか?」
旧都。今は面影のない、瓦礫の街。七年前に瓦解した、この街の半分。
枯さんがカップを置く。小気味よい音をコースターが立てる。余韻の消えない内に、顔を上げた枯さんは顔色を一切変化させることなく、
「そうだよ。俺も未美好も旧都の人間さ。久刻くん、君と同じあの震災の生き残りって訳だよ。納得出来るだろ? 君と同じさ。君と、標月さんとね」
もっとも、俺と未美好は血の繋がった正真正銘の兄妹だけどね、黒い男が付け加える。言われてみれば、彼の言葉は正しい。枯さんと未美好ちゃんが兄妹二人で暮らしているのにも、その理由ならば頷くことが出来た。
「でも箱崎か……。俺は知らないな。下の名前は何て言うんだい? ……パズル? どんな字を書くのか、それは、あ、いやいいよ。字を聞いても多分知らないや」
言って、枯さんは硝子の向こう側に視線を投じる。箱崎が消えて行った彼方を眺めて何かを考えているようだがやはり、箱崎外流……夜杜外流なる人物に覚えはないらしく、無害を極めた苦笑でこちらを振り向いた。
「悪いね、力になれそうにないよ。久刻くん」
「あ、いえ別にそんなことは」
元より何かを求めていたわけではなかった。少しだけ気になったのだ。自分の後輩が隣人と同じ名字を持っていてしかも旧都の出身だということが。少し過敏な反応かもしれないがそれでもやはり、遙風に聞かされた話があるせいで無視出来ない。本来ならば意識する必要もないのだろうけど。……面倒だ。
「そうだ。俺も久刻くんに頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「何ですか? 一般常識の範囲内なら聞くことも可能ですよ」
「なら大丈夫だ。ちょっと、俺はこの後用事があるから、先に未美好を家に連れて帰って欲しいんだよ」
未美好ちゃんを見る。薄桃色のほんのり滲む白色の服装を基調として、本日も兄と対をなす少女。アクセントとばかりに補色を用いた黒のオーバーニーのソックスと黒のスカート。空になったカップを興味有り気に見詰めている横顔を二秒未満観察して答える。
「それなら構いませんよ」
本当は旧都に行く予定があったのだが、天門坂とは待ち合わせをしているわけではない。僕がいなくともあいつは一人で勝手に色々と調べているだろうさ。どちらかといえば僕はいない方がいいくらいかもしれない訳だし。
「助かるよ。お礼って訳じゃないけど、ここの支払いは俺がしておくよ。それじゃあ久刻くん、妹をよろしく頼むよ」
「任されましょう」
未美好ちゃんに促して席を立つ。話は聞いていたから分かっているだろう。案の定、膝の上をちょこんと占領したツインテールの肩を叩いてやると「はーい」と弾む勢いの返事。未美好ちゃんはぱたぱたと髪を揺らして出口へと駆けていく。無邪気な姿に頬が緩むのを抑えられないのは人として抗えなくて当然だと思う。
手を振って待つ未美好ちゃんに追い付こうと立ち上がった僕に最後、中身のないカップをスプーンで掻き混ぜる動作をする枯さんが呟くように言った。
「これは兄としての注意なんだけどね、久刻くん。未美好を決して人気のないところ、特に囲われた狭い場所には連れ込んじゃ駄目だぜ」
兄として、の辺りにアクセントを置いていたが、そのような疑いを掛けるなら僕に任せなければいいのに。……言われなくてもしないけどさ、そんなこと。
*
以下、余談というか幸せのお裾分け。未美好ちゃんとの楽しい帰宅イベントの佳境について少しだけ語ろうと思う。この間に起きたことは、どうも空腹だったらしい未美好ちゃんに鯛焼きを買って上げたことくらいで特筆するほどのことはない。誓って間違いは起きていないので注意とご理解を頂きたい。
「未美好ちゃん、甘い物好きなの?」
この世の幸福を噛み締めるように鯛焼きを頬張る小さな姿があまりにも微笑ましいので、咄嗟に訊いてしまう。口元に餡を付けた子供らしい未美好ちゃんがこちらを見上げる。
「はいっ。ミミズクは食べ物なら何でも好きです。何でも食べられることが自慢ですっ」
「そりゃあ偉いな、好き嫌いがないのはいいことだよ未美好ちゃん」
えっへん、とまだ未発育の胸を張る未美好ちゃん。これがいずれ成長したら、などと無粋なことは想像しない。そこにある少女を愛でることが大切なのだ。童女は決して発展途上などではない――未発育の完成形、それこそが齢十二の女の子である。
……あれ。何か親戚のおじさんみたいなこと言いながらさらりとアブナイことを語ってやしないかな、僕。
まあいいか。
「お隣のお兄ちゃん」
「ん、なに?」
「手、つないでもいいですかっ?」
無論。大歓迎。
「お手を拝借します、レディ」
未美好ちゃんの小さな手を握る。温もりと柔らかさに精神が異界に飛び去ってしまいかねない勢いだ。流石に言い過ぎなのだが。夜杜未美好の手は見た目に違わず小さく、力を少し入れれば壊れてしまいそうなくらい脆くて柔らかだった。
「えへへ。お隣のお兄ちゃんの手、カラス兄さまと違って暖かいです」
枯さんの手は冷たいらしかった。
「未美好ちゃんも大変だよね。枯さんみたいなお兄さんがいるとさ」
「いえ、カラス兄さまはとても、可哀想な人ですから」
未美好ちゃん。その『可哀想』というのは社会的な意味で寸分の狂いもなく正しいので出来れば分かっていても妹の君には口にして欲しくない。ていうか枯さん、いい妹を持ち過ぎだ。僕も未美好ちゃんの兄になりたい。
手を引く力が強くなった気がした。見れば、未美好ちゃんは強く明るく笑顔を一面に輝かせ、
「だから、ミミズクが傍にいるです。カラス兄さまの傍には、ミミズクがいないといけないんです」
小さな誇りを得意満面に、そして喜色満面に高らかと誓いのように口にしたのだった。
*
余談、として付け加えるにはその後の話は少し深刻かもしれない。
部屋の前まで未美好ちゃんを送っていた後、特に理由もなく自室の天井を眺めて惰眠になりきらない時間を過ごした頃には既に、外は茜色を引き下げて夜に染まり始めていた。カーテンの隙間から入り込む夜を告げる薄暗い、影に似た光でそのことを知る。
あれからどれくらいの時間が経過したかを考えるより先に部屋を出、僕はようやく旧都に脚を向わせた。
不気味な月の座する夜空。
不吉に薄明るい彼方の空。
旧都に至る頃には月明かりの頼りを必要とするまでに暗く、世界は落ちていた。
天門坂を捜して、廃墟と瓦礫の合間を歩く。その姿は多分、当てもなく彷徨っているだけの、言い得て先日の僕と同じような、目的を見失って迷走する足取りをしていただろう。予感があった。曖昧模糊で掴み所はなかったが、瓦礫の形成する迷路を深く進めば進むだけ、強く高鳴る鼓動が確かに告げる。
やがて。
異臭に嗅覚が追いつく頃に僕はそこに辿り着いた。
そう。まさに再現。そこはぽかりと、周囲から断絶された空間になっていて、誰かに決められたみたいに壁をその色に染めて、誰かの訪問を待っていたように月明かりを差し込ませ――。悪戯に作り上げられた趣味の悪い箱庭みたいだ。
「…………天門坂?」
幽鬼のごとく影染みた姿が微動だにせずそれを見下ろしている。赤い囲いの中にいて、他に染まらぬその少女が直視する。何を? 彼女は何を見ている? いいや、天門坂じゃない。僕だ。久刻十字は今何を見ているのか。夢か、現か。
紛れもなく後者。
この感触を間違えるはずがない。偽物の幻想であるはずがなかった。
圧倒的な死の気配を充満させて――昨日と同じく、四角い囲いの中に横たわる一つのオブジェ。
それは、僕のよく知っている少女の姿をしていた。
四肢の急所を正確に射抜かれ、おそらくは即死だったのだろう幸いにも表情は苦悶ではなく驚愕に染まっている。綺麗な致命傷が四点。一目で分かる。血化粧を整った顔に施し、腕と脚を自らの血液で湿らせる真紅の少女。
陸上部のエースランナー。
「……ああ、遅かったね久刻くん」
振り返る天門坂。その目が何を語っているのか。
白い無表情は蒼く灯る瞳で僕と、その周囲の空間を見据えている。
視線が交差したのは一瞬の間。
刹那の間を置いて、その後僕の視線を釘付けにしたのは変わり果てた箱崎外流の姿だった。
絶望に言葉を飲み込み、呼吸をすることさえ忘れる。天門坂が淡々と、
「ねえ、分かってると思うけどその娘」
無慈悲に、いつかこの旧都を統べていた金色のように、
「もう、死んでるわよ?」
どうしてそんなことを言っているのか。表情を見れば分かったかもしれない。……あれ? なんで僕には天門坂の顔が見えていないのだろう。可笑しい。なら僕は何を見ているんだ。何を、しているんだ。
答えは簡単。
客観的に久刻十字を観察して理解に及ぶ。
僕は、赤く濡れた少女の体を抱いて、その冷え切った感触を確かめていた。
「……箱、崎?」
絶望の淵から沸き上がる声。
――なんですか先輩?
そんな声が聞こえた気がした。幻聴だ。箱崎は顔色を変えず、目を開いたまま眠っている。
「この、馬鹿……危ないから近づくなって、言っただろ」
永く忘れていた感情があった。
この、体の芯が熱を帯びて行き、全身が戦慄く感覚。
思い出した――これが哀しいって感情だ。
「なんで……約束だって、言ったのに」
声は泣いているように濡れていて、呟いたそれは月には届かない。
――約束ですよ先輩。
その顔を思い出せない。
――一緒にボクの家、探してください。
そう言った箱崎を思い出すと、本当に泣いてしまいそうだったから。
ごめん、なんて謝る必要はない。約束を破ったのはお前だから。だけど、それでも。
「ごめんな箱崎……」
誰に許して欲しかったのか、そう言って強く箱崎の肩を抱くことしか今は出来そうになかった。




