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「例えば生まれてから一度も不幸を体験したことのない人間がいたとして、その誰かの人生は幸せだったと言えるのかな?」

 それは僕を指していっているようにも、あるいは天門坂(てんもんざか)自身を指して言っているようにも聞こえる質問だった。

 絶望のない人生。

 ただの一度の挫折も悲嘆もない人生。

 生涯が幸福だったかどうかを判断するのは他人ではなく、やはり当事者であると思う。その誰かが己の一生を幸せだと思うのなら、それはそうなのだろう。主観的にその彼、あるいは彼女が幸せだったのならばそれで人生は幸福。他人は口を出す権利なんて持っていない。

 存在の価値を定めるのは他人でも、存在の意味を決めるのは自分なのだから。

「違うよ。その誰かは、自分で自分の意味を定めることなんて出来ない。だって絶望を知らないということは、つまり希望も知らないということだから。人間は比べることでしか価値を見出せない生き物なの。悲しみを知っているから、喜びを知っている。痛みを知っているから、憐れみを知っている。生を知っているから、死を恐れる。だとしたら、一生の全てがどちらかに偏ってしまった人間は、善悪の判断も、喜びと悲しみの分別だって出来ない。そうでしょう?」

 天門坂は言った。遠くの星に僅かな憂いの表情を垣間見せるようにして。

 人の世界は全てが比較。

 どれだけ優れた存在があったとしても、それを比較する対象がなければ価値をはかることなんて出来ない。もしも今天才と呼ばれている誰かの頭脳を世界中の全人類が持ったとしたら、天才なんて概念はそもそも存在しなくなる。

 生まれてから一度も不幸のなかった人間は、最後まで自らが体験してきた幸福の価値を見出せない。

 果たしてそんな人生は、幸福と言えるのだろうか。天門坂の質問は、どうやらそういう意味だったらしい。

 人生に意味を求めるのは不毛だ。僕らは生まれた瞬間から生きることを義務付けられてる。だけどそれでも、最後には意味を定めなければならない。つまるところ僕らの一生は、死の瞬間に価値を与えるための考察期間でしかないのだ。

 ならば考察期間の間に何の情報も得ることの出来なかった人間は、人生に意味を与えられないということになる。その人物が生きてきた時間は全て無意味に葬られる。後は、残った他人が勝手な価値を押し付けるだけ。

 だったらそれは。

 幸福ではなく、不幸なのではないだろうか。

「だからね、不幸を知ってることは実は幸せなことなのよ。……というよりも、幸せになる為の条件が不幸を知っていることなのかな。なんにしろ、感情なんて反面だけでは意味を持たない。在って無いような概念だってこと」

 星に訴えるような呟き。押し殺した無感情。

 天蓋に見える星の数が急激に増加し、闇は、世界を満たした。

「でもね、不幸を知っているからって必ずしも幸せになれるわけじゃない」

 天門坂が目を閉じた。

「深すぎる絶望を知って、大きすぎる不幸を背負った人間は、自分が体験する幸福を全て飲み込まれてしまう。比較対象が大きすぎるから、自分の幸せがちっぽけなものだって分かってしまう。そうなったら、人間はどうなると思う?」

 僕は答えない。答えられない。

「そうなったら、人間は幸せを幸せとして享受できなくなる。折角手にした幸せも、その小ささが不幸に思えてしまって――そんな、循環。永遠に不幸が募り続ける負の連鎖」

 自分はこれだけの不幸を体験しました。

 だからこんなちっぽけな幸福ではなく、もっと大きな幸福をください。

 無い物強請りに拍車が掛かり、その人物にとって幸せを与えられることは不幸へと成り下がる。だけど、そんなのはただの我侭だ。当人がどう感じようとも、明らかにそれは幸福を与えられているのだから。

「この世界は――貴方にとって幸せ?」

 そんなことを訊いてくる。

 僕は、他ならぬ僕という個人はどうなのかと。

 さてどうだろうと思案する。

 不幸なら知っている。

 例えば――真っ赤に燃え上がる世界。黒煙が雲となり世界を覆う夜。耳を塞いでも聞こえてくる誰かの嘆き。断末魔の悲鳴。炎上する家屋と瓦礫に埋もれた街。どこまでいっても出口のない、絶望のトンネル。終わりの無い、孤独。

 僕は思い出す。

 炎の中から伸びる誰かの手。

 煙の中から聞こえる誰かの声。

 死に損なって迷走する一人の少年。

 そして。

 少年に差し伸べられた手。温もりをくれた微笑み。

 果ての無い絶望の中にあって、確かに僕はあの瞬間、同時に幸福を知った。

 なら。僕は肯定を答えとして提出した。

「そっか。貴方の世界は幸福なのね」

 一瞬だけ憂いの色を交えた瞳が小さく呟く。

「貴方にとっての世界は幸福。うん。そうだね。確かに貴方は恵まれている。誰もが生き延びることを諦めた地獄の中で、多くの犠牲を出してまで生き残った貴方が幸福でなければ嘘だもんね」

 天門坂の言葉が止まる。

 そしてほんの僅かな間を置いてから、天文坂は言った。

「はっきり言うとね――わたしは貴方のことが嫌い。嫌いだし、憎い。本当に、心の底から」

 胡乱だった目付きが刃物の鋭さを以って僕を見据える。

 僕はただ、そんな天門坂の視線を黙って受け止めることしか出来ない。

 引き裂かれることを待つように。切り裂かれることを待つように。そうして天門坂が決定的な一言を告げる一瞬を、断頭台に立たされた囚人に似た心境で待つことしか僕には出来ない。あるいは、その義務が僕にはある。


「わたしはアンタを殺したい。殺したいほど、恨んでる」


 決定的な一言が全ての終わりを告げるように。

 幕を引く言葉は終焉から新たな邂逅を生んだ。

 貴方を殺したい。

 僕を、殺したい。

 天門坂は僕を殺したい。

 恨みから。憎しみから。憎悪や怨嗟の全てから。

 僕は。

 僕は、何も言えない。

 僕を殺したいと告げた天門坂に返す言葉がない。

 それでも言わなければならなかった。その義務が僕にはあるのだから。

 喉の奥が乾いて上手く声が出せない。掠れる声が紡いだ一言は決定的に全ての幕を引く、終焉の言葉だった。


「――構わないよ」


 君にはその権利がある。そして僕にはそうされる責任がある。

 天門坂のこれまでを奪ってきた、その贖罪の責務が、僕にはある。

 ファンタジーといいつつも本作は伝奇を軸にした猟奇小説です。

 剣と魔法の異世界物語を想像された方には申し訳ございません。

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