出会い頭にお湯を注ぐ
リーヒンドの住居を出たダナーは、冬の寒さが肌にしみる中、学校に筆箱を忘れていることに気づいた。辺りはすっかり暗く、校舎は静まり返っている。急いで校舎へ向かうことにした。
教室に戻り、机の上に置かれていた筆箱を見つけたとき、ほっとしたのも束の間だった。カバンにしまい込んで校舎を出るその時、不意に風きり音が耳に入った。強い風が吹き荒れる音だ。運動場の方から聞こえてくる。
すぐに足を運んだが、運動場は案の定、真っ暗だった。風きり音が一層不気味に響き渡り、少し怖くなったダナーは、慌ててコインを入れて運動場に明かりを灯した。
バッ!!!
グラウンドが一瞬にしてライトに照らされ、視界が白くなった。暗闇の中から明るい光へ移行したせいか、目が眩しい。だがその眩しさに目を細めたダナーの前に、予期せぬ光景が現れた。
運動場の中央で、腰まで伸びた綺麗な銀髪を揺らしながら、木刀を振るう少女がいた。その姿は、まるで修行の一環として黙々と鍛えているかのように見える。だが、その光景が妙に心を打つ。
「えっ」
ダナーが呆気に取られていると、少女は木刀を振り終えた瞬間、こちらに振り向いた。紅く輝く瞳と、精悍でありながらも美しい顔立ち。彼女の目はダナーを見つけると、少しばかり怒ったような表情に変わった。
「見てた?」
その声には、明らかに怒気が含まれていた。ダナーは思わず身を引きそうになるが、何かを言わねばならないと思い直して言葉を探した。
「いや、別に…」
「アンタが…素振りしてるところをなんで見ちゃいけねぇんだよ。」
少女は、何かに対して反論でもしたいかのように、少し苛立った様子を見せていた。その態度に、ダナーはやや戸惑いながらも、無意識に答えた。
「えっと…その、俺は別に見てたわけじゃないけど…」
「私の事、もちろん知ってるよね。」
その突然の質問に、ダナーは驚きの表情を浮かべた。確かに、目の前の少女はどこかで見覚えがあった。しばらく考えてから、答える。
「あぁ。去年の大会で1位になった…ツキ、だったっけ。」
彼女の名前が思い出される。そうだ、去年の大会で見かけた、優勝者。自分は30位に入ったものの、ツキは帝国剣術学院で既に訓練を積んでいたと聞いていた。その話を思い出し、ダナーは再度その顔をじっと見た。
「そう、ツキ。覚えてたか。」
ツキは少し胸を張りながら答えた。しかし、その後の言葉は、予想外だった。
「あなた、同級生?」
「うん。」
「お前、学校来てねぇじゃん。」
彼女がちょっと怪訝そうに問いかける。その問いに、ダナーは少し言い訳がましく答えた。
「だってそういう感じのキャラに定着してたからしょうがない。」
ツキは少し考えるように目を細め、そして苦笑いを浮かべた。
「意味がわからん。」
その言葉にダナーは少し困った顔をした。だが、ツキは一呼吸置いてから続けた。
「努力せずにスマートに1位をとっててなんだコイツ、みたいな嫉妬の目で見られるのとはあった。けど。なんかかっこいいじゃんこーいうの。」
その言葉に、ダナーは少し驚いた。ツキもまた、ただの天才ではなく、その名声に対する孤独や苦悩を抱えていたのだ。
「それに、そういう感じで生きてきたから後戻りが出来なくなったのもある。」
その言葉には、ツキの背負ってきた苦しみや諦めが滲んでいた。ダナーは思わず、その言葉に共感してしまう。何も言えなくなった自分に、彼女のその一言が響く。
「めっちゃ可愛そうやんって思った。」
つい口に出して言ってしまったダナーだが、その言葉が妙に心に響いた。
「あなた私が1位を取って嫉妬しなかった?」
「別にな。」
ダナーは、素直に言った。嫉妬はしなかった。ただ、自分がまだ何も成し遂げていないのに、ツキのような存在が目の前に立ち、圧倒的な強さを見せつけられていることに、逆に尊敬の念を抱いていた。
「てかあなたさっきイェレスっていった……?」
突然、ツキが驚いたように言った。その名前を聞いて、ダナーは再び頷く。
「あぁ。イェレスはこの島で1番強かったからな。」
「今島の中で強いのは私なのだけど。」
ツキは、その言葉を自信たっぷりに放った。だが、その後の言葉がダナーにとっての地雷だった。
「イェレスがいねぇからじゃん。」
その一言が、ツキの胸の中で何かを引き起こしたようだった。ダナーは、すぐに「やらかした」と感じた。
2年前――
その頃、ツキはまだ無名だった。10歳という年齢ながらも、剣士としての基礎は持っていたが、特に目立った存在ではなかった。誰も彼女が後に島中の注目を集める存在になるとは思っていなかった。
島で開かれる大会には、当時「島一番の剣士候補」として名を馳せていたイェレスが出場していた。彼の強さは言わずもがな、大人の剣士すらその実力を恐れるほどで、子供たちの大会では圧倒的な勝利を収めるのが当たり前だった。
だが、その大会で起きたことは誰の予想も裏切るものだった。決勝戦――イェレスの相手として名乗りを上げたのは、ノーマークだったツキだった。
会場の空気は明らかに異なっていた。イェレスの圧倒的な優位が誰の目にも見えていたからだ。しかし、ツキは臆することなくイェレスと向き合った。そして、その決闘は島の歴史に残るほどの激戦となった。
剣が交わるたびに火花が散り、観客たちは次第に驚きと興奮を抑えきれなくなった。ツキはイェレスの鋭い剣撃をかわし、的確な反撃を繰り出していく。その様子を、会場の端で見守っていたのがリーヒンドだった。
「……あの子、ただ者じゃないな。」
リーヒンドは小声でそう呟いた。
アリステリアは電話越しでその言葉に軽く頷きながら、じっと画面越しでツキを見つめた。
「これ程有望な剣士をここまで追い詰める者がいるとはね。これは面白い。」
試合は最後の一瞬まで互角だった。だが、イェレスの経験と技術が僅かに勝り、ツキは敗北した。それでも、誰もが感じていた――もしもう一度戦えば、結果は分からない、と。
ツキは、その試合でイェレスを敗北寸前にまで追い込んだ唯一の存在だったのだ。
回想終了――現在
ダナーの吐き捨てた言葉が運動場に響いた。
「イェレスがいねぇからじゃん。」
その瞬間、ツキの表情が一変した。さっきまで感情を露わにしていた彼女だったが、急に冷静さを取り戻したように見えた。
「……それじゃ…試してみる?」
静かにそう言うと、ツキは細長い木刀を手に取り、軽々と構えた。その姿にダナーは思わず息を呑む。彼女の立ち姿、集中した気迫、全てが只者ではないことを物語っていた。
ダナーの胸に、一瞬で直感が走る。――やばい。
だが、木刀を振るう前に教師の声が響き渡った。
「そこまで!お前たち、何をやっているんだ!」
教師に見つかり、結局その場での決着はつかなかった。ツキは構えを解き、軽く肩をすくめてダナーを一瞥した。
「……まぁ、仕方ないか。」
彼女はその場を離れようとしながら、ふと振り返り、意味深な言葉を残す。
「ダナー……だっけ?さっきのセリフ、覚えときなよ。」
その瞳には冷たいようで、どこか燃えるような光が宿っていた。その瞬間、ダナーは心のどこかで確信した。
――この子と戦うことになる、と。
次に決着をつけるのは、おそらく最後の大会だろう。胸に渦巻く緊張と不安、そして少しの期待を抱え、ダナーは静かにツキを見送った。
大会当日――
大会の朝、ダナーは目を覚ました瞬間から心臓が高鳴るのを感じた。今日は、これまでの集大成であり、そして自分の未来を決める重要な一戦が待っていることを理解していた。帝国剣術学院への道を開くためには、今日の試合に勝たなければならない。そして、その相手がツキであることも分かっていた。
ツキは今までの試合で圧倒的な実力を見せつけ、順調に勝ち上がってきた。彼女の戦いぶりはまさに別次元で、観客たちもその迫力に息を呑んでいた。しかし、ダナーは彼女と戦うことを決して恐れてはいなかった。それは彼が目指すものが、ただの勝利ではなくイェレスとの約束だからだ。
この大会の結果は、後々に開かれる帝国剣術学院の選抜試験に直接影響を与える。もし優勝すれば、学院に一発で入学できる可能性が高くなるのだ。そのため、ダナーとツキにとって、この試合はただの大会の一戦ではなく、未来を掴むための戦いであった。
大会はすでに2日間を経て、ついに最終日に突入していた。ツキはその実力で順調に勝ち上がり、ダナーもまた、去年の30位を超える成績を収めながら、着実にベスト16にまで登り詰めていた。だが、その道のりは決して平坦ではなかった。どの試合も接戦で、心身ともに疲弊していたダナーは、今、最大の試練を迎えようとしていた。
そして、ついにその時が来た。
ダナー VS ツキ
観客席の空気が一瞬で張り詰め、場内のざわめきが止まる。二人がリングに立つと、その視線が交錯する瞬間、何かが爆発するかのような緊張感が走った。
ツキは圧倒的な実力を誇り、すでに試合を重ねるごとにその疲労の色は一切見せていなかった。まるで何事もなかったかのように、落ち着いた表情で木刀を構えている。その一方で、ダナーは一戦一戦を必死に戦い抜き、肉体的には限界に近づいていた。先程のベスト30を決める戦いでは、まさに一歩手前で敗北しそうになった。あの試合での疲労感は、今もなお身体に重くのしかかっている。
それでも、彼は負けない。
「正直、ツキには勝てない」――その思いが頭をよぎるが、同時に強く誓ったことがある。彼はただ勝利を目指しているのではない。イェレスを超えて、真の剣王となるために戦っているのだ。
差があるのは分かっている。圧倒的に実力の差があるのは間違いない。しかし、それでも戦わなければならないのだ。
「戦わない理由にはならねぇだろ!!!」
ダナーは決意を胸に、ツキを見つめ返した。
ツキの瞳に一瞬の迷いも感じられたが、その後すぐに冷静な微笑みを浮かべ、木刀を構え直した。
「……そんな状態でも戦う気なの?」
その問いに、ダナーは強く頷くと、心の中で決して後退しないと誓った。
そして、試合の合図が響き渡る。
「――開始!」
合図と同時に、ツキは一気に前に踏み出し、鋭い切っ先をダナーに向けて振り下ろした。
その速度、そして威力――ダナーはその一撃が持つ圧倒的な力をすぐに感じ取った。だが、今のダナーには逃げる選択肢はない。彼はツキの攻撃をギリギリでかわしながら、反撃のチャンスをうかがった。
身体は重い。腕も鉛のように感じる。それでも、ダナーはそれを振り払い、心の中で強く言い聞かせる。
「イェレスを超えて、剣王になる。」
その言葉だけが、彼を支えていた。