聖女の暴走
それから更に数ヶ月の時が流れた。
エスルード伯の領地で生じた戦火は、いよいよ伯爵一人の力ではどうにもならぬ規模にまで拡大し、遂には朝廷軍が動員される事態となった。
世直しを掲げて意気軒高な農民一揆を放置しておいては、その余波はいずれ他家の領地にも飛び火しかねなかったし、下手をすれば国全体を巻き込む革命に発展する恐れもあった。ゆえに朝廷首脳部も、あるいはエスルード伯領近隣に領地を有する貴族達も早期鎮圧に前のめりとなり、エスルード伯が幾ら「自分の力で何とかできる」「余計な事はしないでもらいたい」と言い張っても斟酌せず一方的に討伐軍を送り込んだのだった。
アルミナ王国において貴族は様々な特権を有する。
国王といえども貴族の私領には手も口も出せないというのはその最たるものである。何しろアルミナという国はその成り立ちからして貴族達の連合国家であって、国王というのは王国最大の貴族の事でしかなく、かつ連合を組んだ貴族達の盟主であるに過ぎないのだ。国王が傘下の貴族に対して出来る事は、戦の際に動員をかける事と、動員に応じた貴族達を指揮する事ぐらいであった。
だがそれは裏を返せば、貴族達の私領内で何が起きても自己責任で処理しなければならないという事でもある。万が一、自分の手に負えない問題が生じ、朝廷軍(国王軍)が乗り出す事態になれば、その貴族は当然に責任を問われる。この時ばかりは国王の裁定を甘んじて受け入れねばならないのだ。
そしてエスルード伯は、己の領内の問題に朝廷軍の介入を許してしまった。
幾ら自分で求めたわけではないと言い張ったところで意味はない。
一揆が鎮圧され、首謀者達がまとめて首斬られた後、シェリル・エスルード伯爵は王都に召喚されて星室庁に出廷して裁定を待つ身となった。星室庁は大貴族にとって有利な判決が出る事が多い、と言っても今回のような事態となると話は別。大貴族達は自分達すら巻き込みかねない騒動を起こしたエスルード伯に対して反感を強めていたし、前々から何かと羽振りがよかったエスルード伯を快く思っていなかった事もあって、見せしめとして厳罰に処すべきという意見が大勢を占めていたからである。
裁判は数日に渡って続いた。
最終的には国王アベル三世の勅裁により決した。
「エスルード伯爵。エリスの高貴なる神々と偉大なる英雄王の名の下に、余、アルミナ国王アベル三世は判決を言い渡す。己の私欲の為に民を惑わし、民を苦しめ、世を乱した汝の罪は重い。よって余は汝の領地及び私財を没収し、もってこれを罰と成す。慈悲深き神々の恩寵にて爵位は維持する事を許す。今後の贖罪と貢献次第では旧領を回復する道も叶おう。励む事だ。以上」
シェリル・エスルードは従容とそれを聞き、最後は呆気なく受け入れた。この場でああだこうだと反論したり逆らっても無駄である事を知っていたのだ。先祖代々受け継いできた爵位が保たれただけでも御の字と思わねばならなかった。
だが、それでは収まらないのがレイナである。
エスルード伯から領地と私財没収の話を聞かされ、一緒に再出発しようと笑顔で語られた時、
「嫌です。私がどうして貴方の失態に巻き込まれないといけないのです」
いつぞや前の夫に突き付けたものと同じ言葉を今の夫にも突きつけていた。
更にレイナは、聖女としての名声がすっかり失墜してしまったのは貴方のせいだと、エスルード伯を一方的に糾弾し、弾劾した。狂ったように罵詈雑言を浴びせた。豹変した妻の姿にエスルード伯は愕然としたが、さすがに全てがお前のせいだと言われては反論の一つもせずにはいられず、
「大体、お前が散財しなければ私はあそこまで重税を課す必要はなかったのだ。民どもが一揆をおこしたのはお前のせいでもあるのだぞ」
などと言った。
ただこの反論は必ずしも的を射ているとは言い難い。エスルード伯が民に対して重税を課していたのは昔からであり、レイナが散財したからやむなくそうしたわけではないからである。その点においてはエスルード伯自身の失態であって、このような結末に至ってしまったのは全く自業自得でしかなかった。
とはいえ、やむにやまれず蜂起した一揆軍の減税要求に対して、「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」と言い放った彼女の厚顔さや思慮の浅さが事態を悪化させた面がある事は否定しようのない事実で、その点からは「お前のせいでもあるのだ」というエスルード伯の言い分は尤もであるのだった。
しかしレイナはエスルード伯の言い分など全く意に介さず、
「私は関係ないわ。全てあなたのせいよ。人のせいにしないで」
「そんな甲斐性なしだなんて思わなかったわ!」
「もう離婚よ!」
と一方的に喚き倒し、エスルード伯も売られた喧嘩は買うとばかりに「離婚だ!」と応じたので、なし崩し的に離婚が成立する事になった。
当然離婚した以上、エスルード伯の屋敷の中にレイナの居場所はない。
着の身着のままで屋敷を追い出された彼女はその足で実家を目指したが、実家のレントール家は今や稀代の悪女として知られる存在になったレイナを快く受け入れたりはしなかった。そもそもレントール家の当主の座は父親の隠居に伴って異母弟のシャルルが継承していたが、彼とレイナは昔から仲が悪かったという事もある。
無論、腹違いとはいえ確かに姉である以上、シャルルはレイナを受け入れた。だが、自身の姉として遇したのは最初の一週間だけで、それ以降は使用人と同様に扱うようになった。
「御存じの通り、我が家も経済的に余裕があるわけではないのです。何もせぬただ飯喰らいを置いておく事はできませぬ。ここにいたければ姉上も働く事です。私も我が妻さえ働いているのです。かつて聖女と呼ばれた女ならばその程度の事は造作もないでしょう」
シャルルの言い分は尤もで、レイナも受け入れざるを得なかったが、生まれてこの方労働とは無縁の人生を歩んできた女が今更下働きなどできるはずもない。何もできないし、何かと言い訳をつけて何もやろうとしないレイナに対して、シャルルやその家族は容赦なく冷たい視線を向けた。一緒に働く召使達すら、何をやらせても使い物にならないうえに、
「私はこの家の姫よ」
「シャルルを呼びなさい。当主の姉である私にこんな事を言ってタダで済むと思っているの」
口を開けばそんな事ばかり言っているレイナを邪険に扱うようになったのだ。
こうして実家は彼女にとって針の筵となった。隠居している父は、彼女を不憫に思ったが、今や当主となっている息子の立場を思えば、軽はずみな事はできない。せめて彼女の母が健在であればフォローに回ってくれたであろうが、実母はとうの昔にこの世に亡く、継母は実の娘でもないレイナを気にかけてくれるはずもなく、むしろ実の息子であるシャルルの為に、レイナを邪険にする側に回っていた。
それでもしばらくは耐えていたレイナであったが、ふと思い出したのである。
自分には別に行き場があるではないかと。
図々しい事この上ないと、さすがの彼女でもわかってはいるが、それでもこんな実家にいるぐらいならあちらに行った方がマシである。即ちかつての夫、ライア・エードを頼るのだ。彼に復縁を迫り、その妻の座に返り咲く。さすればこんな惨めな生活とはオサラバだ。今も彼は新進気鋭の経済人として隆盛を誇っているし、何より未だに独身でもある。
それにあの男には言いたい事もある。
破産すると、あの時彼は確かに言った。だから自分は焦って離婚を突きつけたのだ。だがいざ離婚してみると、ライアは破産するどころか、悪友のレオンと組んで益々大々的に商売を展開し、莫大な富を構築するに至った。エスルード伯領の一揆討伐戦に必要な軍資金を朝廷の為に用立てたのも彼だという噂がある。実際には融資団の一員であって彼だけが資金を融通したわけではないが、朝廷は今後数年は彼らに高利の金利付きで返済を続けていかねばならないだろう。
即ちあの男は嘘をついていたのだ。
許し難い嘘だ。
それさえなければ、自分はこんな惨めな経験をせずに済んだのに。
嘘に惑わされて離婚を突きつけてしまったのだから、離婚自体が無効だ。仮に無効に出来なくても、せめて妻の権利として財産分与を求める資格ぐらいはあるはずだ。
――などと考えた末に、実家を出奔したレイナはエード家の屋敷に足を運んだのである。