独身貴族
ライアとレイナは別れた。
国一番のおしどり夫婦、理想のカップルと讃えられたつがいの破局は、当然に王国社会に衝撃をもたらしたが、困惑が収まってみると、人々は現実を思い出して納得へと流れる事になった。そもそも騎士と伯爵令嬢という決定的に身分が異なる者同士の格差婚が成立していた事自体がおかしいのだ。確かにライアは金持ちの資産家だが、所詮は下級貴族の騎士に過ぎない。対するレントール伯爵家は王家に端を発する名門貴族。いかに金に困っていたとはいえ、現実を無視した不釣り合いで歪な結婚には違いなかった。
だからこそレイナがエスルード伯と再婚した事が知れ渡ると、人々は驚くと共に納得も覚えたのである。エスルード伯は社交界の人気者で、その彼がまさかバツイチのレイナと結ばれるというのは意外であったが、レントール家とエスルード家であれば家格的につり合いもとれており、そうおかしい縁談でもなかったからだ。
しかし、
「あのエスルード伯とねぇ」
陰で囁く声は後を絶たない。
「まあ、聖女様と結婚する事で伯が少しでもまともになればいいんだが」
「ああ、随分とあくどく稼いでるみたいだからなァ」
エスルード伯は金回りが良い。誰もが驚くほどに。
確かに彼らが治める領地は大きく、大きい分だけ税収も多いが、逆に大きいだけに歳出も多い。これといった特産品があるわけでもなく、交通の要衝といった利権を有しているわけでもないエスルード家が他家に比して圧倒的経済力を誇っているのは、領民から効率よく搾り取っているからであるというのは公然の秘密である。”八公二民”と評されるほどの重税の他、領内各所に関所を設けて交通税を徴収し、その他様々な税金を設け、払えぬ者には強制労働を課して死ぬまで働かせるという具合……。また弱小商人から借金し、それを平然と踏み倒したり、犯罪組織に加担してその上前を撥ねているという噂もあった。
だから聖女と名高きレイナが悪名高きエスルード伯と再婚した事に懸念を覚える者は多かったのだ。
まあ、外面の良い者同士の、似合いの結婚だと揶揄する者も少なくはなかったが……。
◆◇◆◇
レイナと別れた後、ライア・エードはまるで憑き物がとれたように順調な日々を過ごしている。
レイナと結婚していた頃も特に苦しい状況にあったわけではない。しかし金遣いの荒い聖女様を支える為に金策に勤しむ毎日で、物理的にも精神的にも日々の生活を楽しめるような余裕はほとんどなかった。貧乏神と別れ、金策に勤しむ必要がなくなった事で、生じた時間を休息や趣味に回す事が出来るようになったのだ。
そして離婚成立から半年ほどが過ぎた頃の事。
王都アルナの繁華街の一角に位置する古びた喫茶店の中にライア・エードの姿があった。ガラス張りの壁側に並んでいる卓の一つに腰を据え、本を片手に珈琲を啜っている。そんな彼の下に歩み寄る影が一つ。
「久しぶりだな」
そう言いながら、レオンは彼の前に腰を落ち着けた。
「ああ、三日ぶりだな」
ライアは苦笑を向ける。
「見違えたな。随分と顔色もよさそうだ」
レオンは構わず続けた。
「三日じゃそうそう変わらんと思うが」
「いやいや、随分と違う。昔は死んだ魚みたいな目をしていたが、今は生き生きとしているところを見ると、よほどあの結婚生活には無理があったんだな」
「……かもな」
苦笑しながら、芳醇な香りを漂わせる珈琲を口の中に流し込む。
考えてみると、昔は珈琲の香りや味すら楽しむ余裕はなかった気がする。今は違うところを見ると、確かに自分は変わったのだ。
「ところで結婚生活といえば、例のいけ好かん……コホン、あの大貴族様と再婚なさったレイナ嬢の方はなかなか愉快な事になっているそうだな」
「……興味ないね」
取り付く島もないライアであったが、レオンは構わず続けた。
「エスルード伯のところで農民一揆が起こったって話だ。伯は討伐に四苦八苦らしいぜ」
「……」
「伯が農民や貧民を弾圧している傍らで、奥さんは相変わらず貧民救済に熱を上げているようだが、さすがに世間も呆れているみたいで、貧民を助ける前に夫を何とかしろって突込みが絶えないそうだ。そりゃそうだ。己の手で貧民を作り出しておいて、彼らを苦しめておいて、もう一方の手でその貧民達を助けるって、マッチポンプもいいところだからな」
あり得る話だなと、ライアは思った。レイナは短絡的な女だ。民衆にカネをばら撒き、貧民に寄り添う姿を見せれば、それだけで聖女だ天使だと讃えられると思っている。夫が何をしているかなんて事には全く興味を示さないのだ。
この調子ならば聖女の仮面が完全に剥げ落ちるのも時間の問題だろう。
だが、今更どうでもいい話だとも思う。
どうせ赤の他人の話なのだから。
「ところでライアよ」
話題を転じるように一息挟みながらレオンは言った。
「お前はもう結婚をする気はないのか?」
「ないね」
間髪入れずにライアは答えた。
「いや、お前はまだ二十四だろう。一度の失敗ぐらいで達観するのは早すぎると思うが。それにエード家はどうするんだ。とるにたりない下級騎士って言っても昔から騎士の爵位を受け継いできた由緒ある家なんだろう。お前の代で断絶させてしまっては御先祖様に申し訳が立たないんじゃないか?」
「別にエード家が断絶したって、世人は誰も悲しまんよ」
「かもな。だが、お前に仕えている家人達はどうだ。主家が断絶すれば彼らは路頭に迷うんだぞ。俺にとっても取引先が潰れるのは困る」
レオンは溜息交じりにぼやくと、さすがのライアもばつが悪そうな顔をした。
「まあ、そう言われるとそうなんだが、こればっかりは俺の一存だけでどうにかなるもんでもあるまい。出会いとか、いろいろあるわけだし。また変な女に引っかかっても困る。もうこんな目には遭いたくないぞ」
「そりゃそうだな。だが、逆に言えばお前に相応しい女がいれば結婚する気はあるって事だな」
「……否定はせん」
結婚――。
そんなに良いものなのだろうか。
確かに世継ぎは残さないといけないし、世継ぎを残す為には結婚をしなければいけないのだろうが、そんな義務感に急き立てられて行う結婚など決して良いものにはならないだろう。
自分と気があって、見た目も十分で、……即ち自分に相応しい女がいれば、迷う事はない。一も二もなく結婚に応じるだろう。だがそんな都合のいい女がいるものか。いたとして、そんな簡単に見つかるものだろうか。
「よし。ならば俺が用立ててやるよ。俺は商人だからな」
「そりゃどうも。良い人がいたらぜひ紹介してくれ」
その声にはこの場さえやり過ごせればそれでよいという投げやり感が露骨だった。
要するに真剣みが欠けている。
「ああ、まずは俺の妹なんかどうか? 年の頃は十八で、兄の立場で言うのもなんだが、結構な美人だぜ。紹介料もタダにしといてやる」
「……」
「冗談さ」
本気とも冗談ともつかない顔と声でレオンは言う。
ライアは笑いもしない。心ここにあらずという感じで明後日の方向に視線を向けている。