第5話 なり損ないピエロ
「完全に寝てるよな」
「寝てるな」
「おーい、香住さーん?」
「お前起こせよ」
微睡みの中で名前を呼ばれた気がする。うーん、うるさいなぁ。まだ眠いんだよ。もうちょっと、寝かせて……。
「香住さん、起きないとキスしちゃうよ」
耳元で囁かれた声に、鼓膜が震え飛び起きる。首がズキズキと痛んだ。
「あ、起きた」
「やっぱ立花ずるい」
「香住さん、駅着いてるよ」
何事かと周囲を見渡すと、隣の座席に立花くんが座っていた。触れてしまいそうな程近くに彼の作り笑顔があり、思わずのけ反ってしまう。前の座席に男子がもう二人いて、背もたれ越しにこちらを覗き込んでいた。二人とも同じクラスだけど、普段立花くんと一緒にいる印象はあまりない男子だった。たまたま新幹線の席が隣り合わせだっただけだろう。
あぁ、そうか、ここは修学旅行の帰りの新幹線だ。いつの間にか寝てしまっていたらしい。ぞろぞろと他の生徒たちは降車を始めていた。
「はい、落ちてたよ」
立花くんがシャープペンシルを手渡してくれる。久々にわたしに向けられた整った笑顔に、思わず見いってしまう。これは夢の続き……じゃない、よね? ぐっすり寝れたおかげか、頭は冴えていた。
「あり、がとう……」
「眠そうだね。ごめんね、昨日の夜寝かせてあげなかったからだね」
わたしの顔にかかる髪を指先でさらりと払って上目使いに謝る立花くんに、カーっと頬が熱くなるのがわかった。前の座席から腕を伸ばした男子が、「おい立花、まさかお前……」と立花くんの肩を揺さぶる。立花くんはその手をペシンと叩き落とし「昨日同じ部屋で俺も寝てただろ」と冷静に突っ込んでいた。
昨日眠れなかったのは、まさに彼が元凶ではあるんだけど。
膝の上に開きっぱなしの栞とペンを急いで鞄にしまう。立花くんが立ち上がるのと入れ換えに、隣の座席にわたしのボストンバッグが下ろされた。
「立花が言うと冗談に聞こえないんだよな」
「わかる。立花ならマジでやってそう」
「お前らうるさいよ。……香住さん、降りれる?」
「うん、大丈夫、ありがとう」
わたしが立ち上がったのを確認して、立花くんたちは先に出口へ歩きだした。わたしも荷物を背負って後を追う。
熱を持った頬に手を当てる。何、照れてるんだろう。あんなの、いつものよくわからないからかいじゃないか。なのに熱が冷めない。だって、やっと立花くんがわたしを見てくれたんだ。彼の視界に入れてもらえたんだ。ただそれだけのことが嬉しかったんだ。
暖房で乾燥したバスから降りると、冬の夜の冷たい空気が鼻腔を刺激した。出かかったくしゃみを堪え、マフラーを巻き付ける。
駅から高校までのバスでの移動の間に、半数以上の生徒は途中下車して帰宅した。高校の駐車場には迎えに来た保護者の車が何台も停まっている。そうだ、あらかじめ親に迎えの連絡をしておくのをすっかり忘れていた。一旦生徒の輪から外れて自宅に電話をかけると、母親が出て「おかえり。お父さんに行ってもらうから待っててね」と電話は切れた。
「かすみ、迎えまだ? 送っていくよ?」
「大丈夫、これから来るから」
「そう? じゃあまた月曜日」
「うん。バイバイ」
仲の良い友達は既に迎えが来ていて、早々に車で帰って行った。家がすぐ近くの人は徒歩で、遠くの人たちも乗り合わせたりして続々と捌けていく。
昇降口の外の三段程度の階段に腰かけ、迎えを待つ。校門から車が入ってくる度にお父さんかなと思うが、全て他の生徒の親で、どんどん人数は減っていった。さっきまで生徒と談笑していた引率の先生も、いつの間にか校内へ消えていた。
「あ、俺んち来たわ」
「おー、じゃあな」
「立花んち遅くね? そんなに家遠くないよな?」
「あー、まぁ、うちの親マイペースだからなぁ。もうすぐ来るでしょ」
また一人迎えが来て、辺りは途端に静まり返る。お祭りの後帰宅して一人になった時によく似た虚無感に襲われる。
オリオン座の昇る夜空に白い息を吐き出し、少し離れたところに立つ彼をちらりと見やる。生徒玄関前には、わたしと立花くんの二人しか残っていなかった。
「立花くんも迎え待ち?」
何気なく声を掛けてみると、立花くんはハッとしたようにこちらに顔を向けて「あぁ、うん、そう」とぎこちく頷いた。それ以降会話は続かない。
あぁ、そうか。違うんだ。新幹線で彼に声を掛けられて気が緩んでしまっていたけれど、あれは周りに人がいたもんな。彼はクラスメートの前で“立花くん”として振る舞っただけで、別に好き好んでわたしに話しかけたわけじゃないんだ。ちょっと、自惚れてしまっていた。あーあ、恥ずかしい奴じゃん。教室で彼に下ネタの話題を振られた時なんかより、ずっと恥ずかしいや。勘違いしてごめんね。
でも、内心は案外穏やかだった。
無言のまま時間が過ぎた。雲に隠れていた月が姿を見せる。二人きりになってから、どれくらい経っただろう。
さすがに迎えが遅すぎやしないか、とスマホを取り出してみる。そこには母親からの数件の不在着信とメッセージの通知が来ていた。マナーモードでバイブレーションも切っていたから、気づけなかった。
メッセージには、車のバッテリーが上がって迎えに行けなくなったから歩いて帰ってきて、の旨。思わずため息が漏れる。もっと早くスマホを確認しておけばよかった。母親に今から帰ると一言返信し、重たいバッグを肩に掛けて校門へ向かう。
「えっ、香住さん?」
背後を振り返ると、立花くんは自分が声をかけてしまったことを焦るかのように、口元を手で押さえ狼狽えていた。
「あー、なんかうちの親来れなくなったみたいだから、歩いて帰るね」
「そう……」
別れの挨拶はしなかった。わたしたちはきっと、“そういう仲”じゃないから。今の会話は、何かのエラーみたいなものだ。さっきわたしが“間違えて”声を掛けてしまったように。
校門を出て少し歩いたところで、背後から駆けてくる足音が近づいてきた。
「香住さん!」
そして急いた声で名前を呼ばれる。なんだか、デジャブだ。足を止めて、振り返る。大した距離を走ったわけでもないだろうに、呼吸を乱した立花くんが立っていた。
「一緒に、帰ってもいいかな」
「……なんで?」
彼の思いがけない言動に、驚きよりもまず疑問が浮かぶ。いや、そこは彼の迎えが来たら一緒に送ってあげる、とかではなくて? だとしたら絶対断るけど。
「立花くん、お迎えは?」
「呼んでない」
「…………」
「あ、その、元々歩いて帰るつもりだったから」
「…………」
じゃあいったい今まで学校で誰を待っていたのさ。浮かんだ疑問を飲み込む。
わたしが一人だけ残ってるのを心配して一緒に待ってくれただけだったりして。それしか、予測がつかない。もしそれが自惚れじゃなく正解だとしたら、わたしはどんな態度をとればいいのだろう。だから、これ以上彼に質問してはいけない。
途中までは同じ方向の彼に対して、わたしが取る選択は一つ。
「帰ろっか」
「あぁ」
並んで歩き出す。一週間前と同じ状況だ。でも、あの時ほどは緊張していない。
沈黙でもいいや、とわたしは思っていた。ただ隣にいるだけ、それでもいいや、と。
しかし立花くんは口を開いた。
「今日、新幹線でまたからかうようなことしちゃってごめん」
前を見ながら歩いているから、彼がどんな表情をしているかわからない。ただ、彼が本気で謝罪していることは、わずかな声の震えから伝わった。
「いいよ。それより起こしてくれてありがとう」
「でも、普通に起こすだけで良かったのに、俺また調子に乗って……」
立花くんの言葉を遮るつもりで頭を振る。不思議と今日は、彼の言動に対して嫌悪感はなかったのだ。なぜだろうと少し考えて、答えはすぐにわかった。周りの人の反応の違いだ。いつものような、わたしを見下していることがはっきりわかるような嫌な笑いが彼の背後になかった。
「いいって。わたし、別に怒ってないよ。嫌な思いもしてない。……まぁちょっと、恥ずかしかったけど」
立花くんに謝られても、こっちの調子が狂う。彼はどこか腑に落ちてなさそうだ。
「香住さんは、俺のこと嫌いだよね?」
ハッと立花くんを見上げる。彼はマフラーに口元を埋め、足元を見て歩いていた。目は合わない。
「……嫌いじゃない」
「ははっ、こんなこと聞かれても、香住さんならそう言うよね。ごめんね」
立花くんは俯いたまま、自嘲的に笑った。そんな彼に、ムッとする。香住さんならって、わたしの何をわかっているというの。現に絶賛勘違いしているじゃない。
「……嫌いじゃないよ」
自分の口調が強くなるのを感じた。歩みを止め、彼に向き合う。立花くんも立ち止まり、少し驚いた表情を見せた。やっと目が合った。
「わたしは別に、立花くんのこと嫌ってなんかいない」
彼のことが嫌いなら、この一週間は話しかけられなくて清々していただろう。そしたら、わたしの心はこんなにいろんな感情で溢れて疲れたりしない。
「でも、俺に話しかけられるのは嫌なんでしょ? 前にそう言ったよね」
「それは……。わたしは面白いこと言えないし、立花くんたちみたいなノリについていけないから、教室で急に絡まれても困るの」
「うん、困らせてごめん」
「それと、立花くんのことは嫌いじゃないけど、立花くんの友達の言動は嫌い。バカにされてるって感じる。見下されてる気分になる」
「そっか……、うん……」
「でも、それだけだから。立花くんが嫌いっていうのは、本当に違うから」
「…………」
最後はなんだか恥ずかしくなって目を反らしてしまった。
黒い毛糸の手袋をした立花くんの手は、落ち着きなく握ったり開いたりを繰り返していた。そしてぎゅっと握り込まれ、息を吸い込む気配を感じる。
「嫌いじゃないならさ、俺たち、普通に仲良くできないかな」
何を言われたのか、最初はよくわからなかった。頭の中で、何度か言葉の意味を確かめる。お友だちになりましょう、と。つまり彼はわたしにそう申し込んでいるのか。客観的に見たらとても滑稽だろう。クラスの人気者が、カースト下位層の女子に向かってこんなこと言うなんて。なんの悪ふざけ? バカにしてるよね? 自分に魅力があることを自覚して、相手の自己肯定感の低さにつけこむような真似をして。
だけど今のわたしにはそんな反感が生まれない。彼の目を見てしまったから。彼の言葉を素直に信用しているわけではないが、もし今日の彼の態度が全て演技なら、わたしは本気で人間不信になるだろう。
だとしても、なぜ彼がそんなことを望むのか理解に苦しむ。
「……立花くん、友達いっぱいいるでしょ。気の合う人とだけ、仲良くしてればいいじゃない。絶対にその方が楽しいよ」
「……香住、さんと……」
彼の声は、掠れてうまく聞き取れない。「え?」と聞き返すと、立花くんはキッと睨み付けるようにわたしを見据えた。その眼光に射竦められる。
「俺は香住さんと、もっと話したい」
今度ははっきりと聞き取れた。わたしの「なんで?」の疑問は一切解決しない、けれども彼が冗談や気まぐれで喋っていることは否定してくれる言葉。
「今まで、嫌な思いをさせてしまったのは本当にごめん。俺、友達の作り方とか、わからないんだ。昔から大きな声でふざけたこと言ってればみんな笑ってくれて、自然に周りに人が集まってきた。人と仲良くなる方法って、それしか知らなかったんだ。……でも、俺がいくら冗談言ってみんなを笑わせても、香住さんは絶対に笑ってはくれなかったよね。俺、香住さんを笑わせたかったんだよ。ただ笑ってほしいだけなのにどんどん空回りしちゃって……、香住さんのこと傷つけてた」
幼い男の子が好きな子の気を引きたくていじめてしまうエピソードが想起される。高校生の彼の言動は、それに通ずるものだった。
「わたし、は……」
だけど、わたしだって彼のことをバカにはできない。同じくらいに、思いを素直に表現することなんてできなかった。
「わたしは、笑っちゃいけないと思ってた」
寒いし、荷物は重い。早く帰らないと親も心配する。
だけど今は、余計なことを考えずにしっかりと目の前の彼に向き合いたい。気持ちを伝えることは苦手だ。でも今は、苦手だからって避けていい場面ではない。
「立花くんがわたしに絡んでくるときも、休み時間や授業中にに面白いこと言ってみんなを笑わせているときも、立花くんが笑わせたい対象にわたしは入っていないと思ってたから。立花くんたちとわたしとでは教室での立ち位置が全然違っていて、笑うことすらおこがましいって感じることなの。だから、立花くんが面白いこと言ってても、意識的に笑わないようにしてた」
「……その笑っちゃいけないって感覚、俺にはよくわからないんだけど……。俺のこと、面白いって思うことはあったの?」
「わたしからしたら、立花くんはクラスの中心の面白い男の子だよ」
「……本当に面白いやつは、女子にダル絡みして困らせたりしないけどな」
「急に卑屈になるね」
「香住さんに言われたくない」
立花くんと目を見合わせる。彼は小さく笑った。
「立花くん、わたしと二人のときは今まで声かけてくれなかったよね。あれは、どうして?」
「それは……、香住さんと二人きりになると、急に教室での自分のキャラを見失っちゃうんだよ。どんなテンションで話しかけていいのかわからなる。……ただ、緊張してただけ、なんだけどさ」
「そう、だったんだ。わたしはだから、立花くんはわたし自身には興味ないんだと思ってた。教室でわたしに絡むのは、わたしじゃなくて周りの友達を笑わせたいだけなんだって思ってたよ」
なんだかさっきよりも、吐く息の白さが増したような気がする。マフラーに顎を埋め、彼に伝えたい言葉を一つひとつ抽出する。
自分の気持ちを伝えることは苦手だ。相手にちゃんと伝わるように言葉を選んで、満遍なく自分の思いを拾って晒すことはとても面倒だし、難しい。結局うまく伝わらなければ、精神的労力を使った上時間の無駄になる。今この時間も、無駄なことだったと後悔するかもしれない。でも、それでも伝えたい。伝えなかったら、関係を変える努力をしなかったら、その時はきっともっと後悔するだろう。
「わたしは、立花くんと普通に話せる関係になりたかったよ」
「……普通」
「楽しく笑い合ったりしなくてもいいから、おはようって挨拶できるような関係でいたかった」
「……香住さん、もう気を遣わなくていいよ」
立花くんはゆるく頭を降った。
「え?」
「香住さんが俺のこと嫌いじゃないって言ってくれたことは勝手に信じるよ。ありがとう。……でも、俺の言動を迷惑に思っていたのは事実でしょ。わかってるから。気を遣われると、逆につらくなる」
「違う……。わたしは……、」
言葉に詰まり、唇を噛む。気持ちはうまく伝わらない。もどかしい。だから話し合いなんて嫌いなんだ。わたしたちは理解し合えないね、さようならと潔く切ってしまいたい衝動に駆られる。
「わたしだって、立花くんと仲良くなりたかったよ!」
なんだかもう、いろいろがどうでもよくなってくる。どうせ、わたしの気持ちなんて伝わらないよ。わかりあえないよ。だったらもう、伝わらなくてもいいから吐き出してしまえ。
「でも、まともに相手になんてしてくれないじゃない! わたしはクラスに友達もいない暗い女で、立花くんはいつだって友達に囲まれてて華やかで。立花くんには、わたしと会話するメリットなんてないもんね。そんなのよーくわかってるよ。楽しくないし、何も得るものもない。それでもセクハラ言ったりして絡んでおけば友達は笑ってくれたから、そうやってわたしの存在を消費してたんでしょ?」
「か、香住さん、ちょっと待ってよ」
立花くんが慌てたようにわたしを遮る。
「さっきも言ったけど、俺はただ香住さん自身に笑ってもらいたかったんだよ。周りの笑いのために利用してたとか、そんなつもり一ミリもない。結果的に俺が笑わせてたのは自分の友達だけで、香住さんには嫌な思いさせてしまったわけだけど、本当にそんなつもりじゃなかったんだ」
立花くんの声が震える。彼は両手で顔を覆った。
「本人に対してこんなこと言いたくないけどさぁ、本当にただどう接したらいいかわからなかっただけなんだよ。普通に話しかけて周りにからかわれるくらいなら、最初からふざけて接した方がいいかなって。俺のキャラなら下ネタで絡んでも許されるかなって考えてたよ。香住さんの気を引くために、教室での俺のキャラを最大限活用したつもりでいたんだ。全部間違えてたって、今やっと気づけたけどね」
手袋をはめた指の間から漏れるのは、後悔の嘆き。それをわたしはどう受け止めたらいいのかわからなかった。
でもわたしだって、後悔ならこの一週間で痛いほど抱いてきたではないか。
「さっきの話の続き……」
そっと、立花くんが両手を下ろす。泣いてこそいないが、彼の表情は心の苦痛に歪められていた。
「普通の関係でいたいってやつ。あれ、ちょっと違う。本当はもっと欲がある」
一度大きく息を吸う。冷たい空気が頭の中まで冷やしてくれるようだ。
「まず、さっきも言ったように軽い挨拶できるような仲でありたい。二人きりの時でも軽く言葉を交わせるくらいになりたい。さっきは笑い合ったりしなくていいって言ったけど、あれは嘘。本当は雑談して、冗談も言ったりして、楽しく会話したい。わたしといると楽しいって思ってもらいたい」
そう、欲深いんだよ、わたしは。
「これはさっき立花くんがいろいろ話してくれたからわたしも正直に話すけど……。先週わたしが教室で話しかけないでって言ったのは、立花くんと対等な立場に立ちたかったからなんだよ。立花くんにあぁいう絡み方されてる限り、わたしたちはからかう側とからかわれる側で、笑う側と笑われる側なの。その立場の隔たりがなくなれば、わたしも立花くんと対等に喋れるようになれる気がしたの。……この前一緒に帰って、話して、もっと話したいって思っちゃったんだよ。だから、言葉足らずで勘違いさせたことは、ごめんね」
だんだん声は小さくなり、視線も落ちる。目の前の立花くんの爪先は真っ直ぐこちらを向いていた。
動悸で胸が苦しい。今まで、こんなに喋ったことがあっただろうか。友達とくだらない会話をしている時とは違う。自分をわかってもらいたくて、必死に言葉を紡ぐことなんて初めてじゃないか。
彼の右足の爪先が、数センチだけこちらに近づく。もう一度、顔を上げる。
「香住さんは、俺が嫌いじゃないんだね?」
「嫌いじゃない」
「俺と、仲良くしてもいいって思ってくれてるんだよね?」
「仲良くなりたい」
「もっと、話してもいいの?」
「話したい。もっと、知りたい」
「うん……」
立花くんは、手袋をはめた右手で目元をぐいっと擦った。
わたしたちの関係は、変われるのか。教室で二人で会話している場面は、正直想像できない。だって、教室でのわたしたちはあまりにも不釣り合いだ。
また、心にモヤがかかる。きっとこれは、何度払拭したってまた繰り返す。その度に振り払っていくしかないんだ。
「あの、だけどね、わたしにもキャラ作りみたいなのがあって……。教室じゃ孤立してるけど、他のクラスには友達いるし、部活だってそこそこ頑張ってるし……。だから、立花くんにはそっちのわたしを見て欲しい」
くだらない見栄と思われるかもしれない。でもわたしは、少しでも彼と対等な位置に立つために必死だった。
「俺も、香住さんには今の俺を見て欲しい。……だからさ、もっとたくさん話そう? お互い周りを気にしなくていいように、教室の外で、二人で」
わたしは、立花くんを知らない。わたしが今まで見てきた彼はいつも笑顔を貼り付けておどけている道化師のような人だった。あなたの笑顔の仮面の内側をもっと知りたい。他の表情を見せてよ。本当の笑顔を教えて。今日話しただけでは全然足りないんだ。だからもっと、もっと。じゃなきゃ、わたしのこの欲は満たされない。
たぶん、教室での彼はこれからもさほど変わらない。きっと立花くんは、そんなに器用で柔軟な人ではない。宛がわれた自分のキャラクターに固執して、大事なものを取り零してしまうような男の子なんだ。そしてわたしもまた、彼の表面上しか見ていなかった。だからわたしたちは、こんな簡単な結論を出すために遠回りしてしまった。
「そろそろ帰らなきゃな」
軽く夜空を見上げてそう呟いた彼は、なかなか歩き出そうとしなかった。何度か帰ろうかと言い合って、やっと並んで歩き出す。分かれ道までの短い距離を、わたしたちは名残惜しむようにゆっくり歩いた。
翌週の月曜日。委員会の当番があったわたしは、いつもより少し早めに登校した。生徒玄関はまだ人がまばらだ。
冬の青空は寒々しい。放射冷却で一段と冷えた朝だった。
二年生の下駄箱には、一人靴を履き替えている者がいた。一瞬目が合い、今までの癖でお互いになんとなく目を反らしてしまう。
おはよう。今日は寒いね。
こんなに早く来て、何か用事でもあるの?
頭の中にはそんな軽い会話の言葉が渦巻く。
わたしが声をかけたら、彼はどう思うだろう。一度目をそらしてしまって、今さら声をかけるのは不自然過ぎやしないか。
でも、まぁ、いいか。わたしたちはきっと“そういう仲”でもない。
「おはよう」
下駄箱から手を離し、彼に言葉を投げる。立花くんは、ゆっくり顔を上げ、はにかんだ。
「おはよ、香住さん」
人と人の関係は、日々変化する。流れに身を任せるんじゃない。自分で変えていく。わたしたちにはそれができる。
通学で冷えた頬は、校内の暖房で赤くほてり始めた。