第3話 並ぶ影
完全下校時刻前に全ての栞を作り終えたわたしたちは、先生からこっそりお菓子をもらって教室へ戻った。外はもう真っ暗で、窓ガラスには並んで歩くわたしたちが映っていた。まっすぐ前を向いて歩く立花くんと、猫背気味のわたし。やっぱり、並ぶには不釣り合いだ。彼の少し後ろ、他人の位置がちょうどいい。わたしの目線はいつの間にか、立花くんの靴の踵を追っていた。
教室にはもう誰もいなくて、わたしたちの荷物だけが取り残されていた。コートを着てマフラーを巻き付け、鞄を背負う。立花くんは帰り支度もそこそこにスマホを操作していた。こんな時間になってしまったが、これから友達と合流するのだろうか。
先に帰ろうと思うが、別れの挨拶をしてもいいだろうか。わたしたちの関係性は、どこまでが自然にしても許されるラインなのだろう。時間にして数秒、頭の中でごちゃごちゃ考える。急に仲良くなったつもりで挨拶するなんておこがましい? まぁでも、たかが挨拶だ。さっきまで一緒に作業してたのに無言で帰る方が感じ悪いではないか。
よし、口実はできた。息を吸って、片手を挙げる。
「じゃあね、バイバイ」
ただの挨拶なのに、声が震える。彼に告げる、初めての挨拶だった。立花くんはハッとスマホから顔を上げ「お疲れ。また明日」と言った。
また明日、だって。社交辞令というか、定型文の挨拶だ。それはわかってる。わかってるんだけど、彼が明日会うことを少しでも好意的にとらえてくれているみたいで、勘違いでもちょっとだけ心が弾む。
自分の頬が緩んだのを感じて、立花くんに背を向けて教室の出口に向かった。明日からのわたしたちの関係は、少し変わるだろうか。例えば、今のように二人きりの場面で一言二言挨拶を交わしたり。例えば、メモしそびれた課題の範囲を確認し合ったり。多くは望まない。教室での立場の違いは弁えている。でも、ちょっとくらい期待したっていいよね。ちょっとくらい。傷つくのは自分だけで、誰にも迷惑なんてかけないからさ。
「香住さん、待って!」
教室を一歩出たところで、背後から声がかかる。立花くんはコートとマフラーを抱えて駆け足で追いかけてきた。いつもの余裕のある爽やかな表情ではない。胸がとくんと脈打つ。
彼の口許を見つめる。一度開いた唇は、声を掛けることを躊躇うようにまた閉じた。コクっと喉が鳴り、再びゆっくり唇が持ち上がる。
「香住さん、一緒に帰ろ」
「……うん」
この時のわたしは、客観的に見たら挙動不審だったかもしれない。だって、何を間違えたらクラスの中心的人物の立花くんとモブにすらなりきれない日陰者のわたしが一緒に帰ることになるというのだ。これは何のエラーだ。
さすがにここまでは望んでいない。わたしはただ、ちょっとした挨拶ができるくらいの仲になれたらいいなって思っただけなのに。
「香住さんはこの道まっすぐだよね」
「うん。……立花くんは?」
「俺も途中まで一緒。郵便局のとこで右に曲がる」
「立花くんって第二中出身だっけ?」
「そうだよ。香住さんは第三でしょ?」
今まで意識したことはなかったが、どうやら家の方角は同じらしい。クラスメートの出身中学とか、調べようと思わなくてもどこからともなく情報が入ってくるものではあるけれど、彼がわたしの情報を把握していたことは意外だった。
日は完全に沈み、空は星が瞬いている。暗くてよかった。知り合いに見られても、わたしと立花くんが一緒にいるとはすぐに判別できないだろうから。
放課後職員室に行くまでは、わたしは立花くんの真後ろを歩いていた。栞を作り終わって教室に戻る時は、斜め後ろにいた。だけど、今は隣に立花くんがいる。
分かれ道まで時間にして十分くらいか。早く過ぎてほしいような、でもずっとこのままでいたいような。
「修学旅行、自由行動誰と回るかもう決めた?」
「うん。他のクラスの友達と班組むつもり」
「あぁ、よく一緒にいる友達?」
「……うん」
今のクラスに仲の良い子はいないけど、別に友達が一人もいないわけじゃない。中学時代からの友達や、去年のクラスで仲良くなったような子はいた。ただ、今年のクラスはわたしと“合う”子がいないのだ。正直寂しく感じることもある。だけど教室を出ればわたしに笑顔を向けてくれる子がいるし、クラスに友達がいないことはあまり気にしていない。
「そっか。自由行動はクラス関係ないもんな」
もしかして、立花くんはわたしが班を組めないかもしれないと心配してくれたのだろうか。だとしたら余計なお世話だ。余計なお世話なのだけど、なぜわたしなんかのことを気に掛けてくれるのか。
会話の流れで、立花くんは誰と回るの? と聞いてみようかと思ったが、そんなの聞くまでもないかと思い直し口をつぐむ。でもこのまま会話を続けたくて、話題を模索する。
「立花くんは自由行動、どこ行くの?」
「今候補に上がってるのは、清水寺と金閣寺と、あと映画村」
「映画村……ってどんなとこだっけ?」
「俺もあんまり知らないけど、時代劇の撮影とかしてる場所らしいよ。部活の先輩がそこで新撰組の衣装着たって言ってた」
「へー、楽しそうなとこだね」
「だろ? 女子も着物とか着れるんだって」
「京都って感じだね。わたしもそこ行ってみたいなぁ」
「先輩が定番スポットって言ってたから絶対はずれないよ。香住さんたちは、他に行くとこ決めてるの?」
「えっと……わたしの友達、アニメとか好きな子が多くて、その聖地巡礼がしたいって言ってるんだよね。どこか忘れちゃったけど、観光名所も含まれてるんだって。……あと清水寺はわたしたちも行くよ」
「なるほど、そういう楽しみ方もあるのか。香住さんもアニメ見てるの?」
「ううん、あんまり。だから予習しといてって言われて、わたしも今アニメ見させられてるんだよね。……まぁ、見始めたら面白くてハマりつつあるんだけど」
「へぇ、今度面白かった作品教えてよ」
「うん、わかった」
正直、ぎこちない会話だ。探り探り、表面をゆっくり撫でて確かめるような。でも、ぎこちないなりにちゃんと会話は成り立っている。
なんだ、話せるじゃん。わたしたち、普通に会話してるじゃん。
そして沈黙が訪れる。わたしは沈黙でも気まずさなど感じなかったけど、立花くんはソワソワと手袋を引っ張ったり首の後ろを掻いたりしだした。気を遣わせてしまっている。何か話題を、と考えたところで、立花くんが「あの、」と少し裏返った声を出した。
「もし清水寺とか映画村で香住さんたちのグループと会えたらさ、みんなで一緒に写真撮ろうよ」
「えっ? あ、うん!」
思いがけない提案に、声が上ずる。立花くんは不安気に眉尻を落とした。
「……立花くんたちを見かけたら、声掛けてもいいの?」
「もちろん! 俺も香住さん見つけたら声かけるよ!」
立花くんはパッと笑顔を見せた。いつもの貼り付けたような綺麗な笑みではない。安堵のため息の混じる、年相応の少年の笑顔だった。
立花くんの言葉、本気にしていいの? わたしはあんまり空気読めるタイプじゃないし、社交辞令とか、本音と建前とか、そういうのわからないよ?
今が夜でよかった。熱を持った頬に気づかれずに済む。
分かれ道が近づいてきた。無意識に足が遅くなる。立花くんも歩くペースを緩めた。
欲が湧く。これからも、立花くんと普通の会話をしたい。対等な立場でいたい。わたしたちは今、同じ土台に立っている。教室に戻ったって同じところにいたいんだ。そのためにはどうしたらいい? どうしたら、彼にわたしを見てもらえる? 純粋に笑い合うことができる?
関係を変えたい。今ならきっと、大丈夫。さっきの立花くんの笑顔が背中を押す。
「あのさ、立花くん、話変わるんだけど……」
「うん、何?」
「教室でわたしに下ネタとかで絡むの、やめてほしい……」
隣の空気が固まった。
「ごめん、嫌だったよな」
急にこんなことを言ったら、緊張感を生むだろう。別に怒ってこんな話をしているわけじゃないんだ。それは伝わってほしい。ただ、関係を変えたいだけなんだって。
歩道に煙草の吸殻が落ちている。それを踏まないように避けて歩く。郵便局前の交差点に着いてしまった。お互い足が止まる。
「嫌っていうか……、周りの友達もどんな反応していいか困ってるじゃん」
教室で彼に絡まれる時、わたしたちは必ず違うところに立っていた。二人きりなら対等でいられたかもしれない。けれど教室では、わたしは笑いのネタにされ、見下された立場にいた。正直苦痛だった。
それさえなければ、わたしたちはきっと普通に話せるようになると思うんだ。
「うん……、ごめんな」
「…………」
「嫌な思いさせて本当にごめん。セクハラと変わらないこともたくさん言っちゃったし。香住さんのこと笑い者にして、酷いことしてるって自覚はあったのに」
顔を上げる。立花くんとは、目は合わなかった。項垂れた彼の目線は、足元に落ちていた。遠くで車のクラクションが鳴る。
あれ、なんか、これは違うかもしれない。思ったのと違う雲行きの流れに、不安が高まる。わたしが望んだものは、本当にこれで手に入るのか?
「立花、くん……」
「今日も、なんかすげぇキモいことしちゃってごめん。香住さんが嫌がってるのわかってたのに、調子乗った」
待って。立花くん、一人で話を進めないで。
嫌だったけど、やめてほしいけど、ちょっと待って。なんだか、わたしたち向いている方向がずれていないか。わたしが本当に嫌だったことは、あなたの言動自体ではなくて……。
正直、こんなにも本気で謝罪されるとは予想していなかった。彼に悪いことをしているという自覚なんてないと思っていた。軽く「ごめんごめん」と形だけの反省をして終わりになるはずだった。
「もう、絶対、二度としない」
じゃあ、暗いし気を付けて帰ってね。
立花くんは力なく笑って、背を向けた。待って、と叫びたい。わたしが伝えたいことはまだ何一つ伝わっていない。待って。違うんだよ。そうじゃなくて……。乾いた口で、舌はへばりついて動かない。
教室でも普通に話したいなんて、立花くんは望まないかもしれない。わたしの独りよがりかもしれない。そしたら、わたしの気持ちを伝えたって彼を困らせるだけだ。だって、彼には友達がたくさんいる。いつだって楽しそうに笑ってる。彼にとってわたしの存在はとてもちっぽけなものだ。そんなことわかってるんだよ。少し話せて気分良くなって、思い上がってしまったんだ。だったらわたしはもう、黙って引き下がるしかないのかもしれない。
わたしは彼に何も声を掛けられず、夜の闇に溶けていくその背中を見送ることしかできなかった。