さよならは言わないで
―あぁ!どうして恋してしまったんだろう。
貴女が女性を好きにならないことは知っているのに。……
***
冬。北海道の冬は長い。爽やかな夏があっという間に終わって、雪が降る。秋は冬の前段階といった風情で、紅葉が咲いていても、寒いことに変わりはない。
住んでいる場所・環境が人格形成に影響を与えるというのは本当だ。こんなに過酷な環境で暮らしていくのは難しい。しかし、神経質になるか、辛抱強くなるか。どんな人間になるのかどうか、それは自分次第だった。
私はH大学に通う3年生だ。専攻科目は文学。なぜ、H大学に?と聞かれるが、学力的に目指せる範囲がH大学であったことと、北海道が好きだから住んでみたかった。それが理由だ。
ただ1度の出会いが、運命を変えてしまう。思春期の頃、そういったラジカルな存在を追い求めていた私は、あっという間に年を取り、大学生になった。高校生の頃、大学生はかなり大人に見えた!きっと、哲学書を読み、友達とカフェに行き、アートの話をするのだろう。ときどき、哲学の話をしながら。
「こらぁ~。マツコー?二重あごになってるぞ~。本当にマツコそっくりなんだからぁ。」
マツコとはマツコデラックスのことで、今回のマツコはあだ名だ。
残忍なギャグセンスが、うら若く見えるのは何故だろうか。
Kちゃんの笑い声が、大講堂の後ろの方からする。いつもの光景だ。
(いいなぁ…Kちゃんと話したいな)
Kちゃんは、お洒落でいつもチャムスとかラルフローレンを着ていて、日本人離れした綺麗な一重瞼で、前髪パッツンのロングヘアで、声がアニメ声で、実はとても情に厚くて、きっとアートに詳しいんだろうなとうかがわせる美的センスを持っていた。
(やめときな。同性愛者の私が話しかけても、鋭い子はカマっぽい子だな、と見抜くよ。ほどほどに距離を置きながら、絡むのが一番だって)
心の中の自分がそういった。
(そうだよね、遠目で見ているだけにしよう)
私は、好きな子と話せないタイプだった。
いや、理由があった。それは、中学校の頃、タイプの女の子に過剰なフレンドリーさで話しかけてしまって、陰で「あの子うざいよね」と悪口を言われたことがトラウマになってしまったのだ。ボーイッシュな子だったので遠慮がなかった。自意識が芽生えた頃の心に、それは痛く刺さった。
同性愛者の現実は厳しい。
(…神さま!一度でいいからKちゃんと両想いにしてください)
―札幌の空に向かってそう心の中でつぶやいた。趣味で勉強している中国語よりも、第二外国語のフランス語よりも、愛の言葉が難しいことを知った。
***
夕方、陽が沈むころ、図書館で自習していると、珍しくKちゃんがいた。
(あ…!いや、え…?Kちゃんが珍しく図書館にいるぞ)
パソコンを前にして、うーん…と言わんばかりの表情で画面を見ている。
(あぁ!ゼミの資料でも作ってるんだな)
そう思ってスルーしようとしたら、Kちゃんの鋭い猫目がすぐさま私の視線を追ってきて、話しかけてきた。
「ねぇ!今日はゼミじゃないの?」
「ううん、ゼミ休みなの。教授が出張だから」
「あのさ!私作った資料、見てくれない」
あぁ、Kちゃんは話を振ってくれているんだな。忙しいのに。
当たり前だ。毎日毎日、図書館に自習に来ていて、寮で友達とご飯を食べるまで、ずーっと独りで勉強しているんだから。私は勉強が趣味だからつらくないけど、周囲からみたら心配になるだろう。
Kちゃんは、皮肉やディスコミュニケーションを結構するくせに、周囲への気遣いが社会人並みの時があった。マツコちゃんは言った「こいつ、滅茶苦茶頭がいいです」と!そのことは事実だった。
「どれどれ…」
うわっ!デザイナーみたいな資料。私と同じパワーポイントで作ったとは思えないぐらい美しく整っている。
「教授にダメだしされたんだよね。どこがおかしいか分かる?」
教授というのはI教授だ。
「やっぱり、文学史の記述が甘いんじゃないかな?ほら、ここ」
「あぁそこねー。実は、昨日全然寝てなくて書けてないの。もっと調査して書いてみるね」
アリガト。
そのとき、Kちゃんの顔が間近まで迫ってきた。レジュメの不備部分に顔を寄せて、ここね、と指で指示したとき、私の心臓は跳ね上がった。
(私がこんな想いをしているなんて知らないよね…?)
よかった、気づかれていない。ゲイっぽいとか、思われてなさそう、いや、気づいていたとしても、Kちゃんは反応しないよ。
(悲しい)
Kちゃんに想いを伝えて、両想いになることは難しい。
なぜって、彼女は異性愛者だからだ。違う学科に彼氏(不良っぽい)がいるらしい。
これから先、どんどん年を取って行って、私だけ独身で、Kちゃんが彼氏と結婚して子供ができたら、どうなっちゃうんだろう?
「みづきちゃん!ちょっと疲れてる?顔が青いよ」
「あッごめん!私もあんまり寝てないの」
「ふーん?無理しないでね」
会話はそこで終わった。
***
夕方、図書館の入り口で別れるとき、私はこの世のものとは思えぬ、美しい光景を見た。
Kちゃんの愛車の、日産のキューブが走ってきて、図書館の入り口で止まると、男が出てきたのだ。
「石に泳ぐ魚事件?柳美里の文学作品?いやぁな話だったネ。俺もいつのまにか、小説のモデルになってるのかしら」
「法学部の高梨!結局、出席は取れたのかっ」
Kちゃんがアニメ声で叫ぶ。
ほぼ大学に来てないの、教授にバレてるぞ!ばかたれがぁ~!
夕方、夕日が札幌の大通りに沈む。
札幌に沢山ある山脈に沈む太陽は、美しいKちゃんをバックにして、荘厳に沈んでゆく。
あの、クールなKちゃんが、彼氏と下校をする。あぁ、Kちゃん!貴女は少女の頃、どんなに美しかっただろう。
私は見たことがなかった。こんなに美しい夕日を。高校時代、私は絶望していて、6月に咲く紫陽花を見た時でさえ死の予感があったのに、この世にこんなに美しい女性が生きていて、私と同い年だなんて思うことはなかった。
生きていこう。同じ時空にこんな女性が生きている。卒業してもときどき会いたいと思う女性がいる。
「Kちゃん………」
日産のキューブは足早の札幌の街並みに消えていった。車の中は、Kちゃんらしくないブルーノ・マーズの曲でいっぱいだろう。
私は車が完全に消えるまで待って、夕日が沈むころに学校を出た、
Kちゃんは高梨のものになるであろう。ニヒルに笑うと、私も札幌の夜の街に消えていった。