夏の端より真ん中で
その日は、今年最大の猛暑だとかなんとかで、じっとしていても汗が出るほどに暑かった。制服のワイシャツがしっとりと背中に張りつく。夏休みの前日、学校が午前中で終わったその日モモは早々と帰り道を歩いていた。上を向いても下を向いても、水あめのようなねっとりとした暑さが襲う。
遠くの景色がゆらゆらするのを眺めながら歩いていると、ふと知った顔を見つけた。ベンチが数個と錆ですっかり汚れたすべり台しかない、ろくでもない公園にそいつはいた。同級生のクマだった。奴は公園に一本だけ植わっている大木の下に、しゃがんでなにやらごそごそやっていた。
「クマ? 何してんのお前」
近づいてみると、クマの荷物がそばに散乱していた。大して荷物の入っていないぺちゃんこの学生かばん、袋にも何も入っていないむき出しの汚い上履き、制服のネクタイ、それらが気持ちよさそうに木陰で涼んでいる。
「なんだモモかー。今帰り?」
「うん、そうだけど、だからさ、何してんのって」
モモを見上げたクマは、額や首に大粒の汗をかいていた。そういえば背中も、モモよりずっとワイシャツが張りついている。背中の肌色もごつごつした背骨も丸見えだ。
「いやね、鳥がさ、鳥のヒナがさ、死んでたんだよ。だから埋めてやろうと思って。穴掘ってた」
クマの足下を見ると、なるほど確かに、お茶碗くらいの大きさに土がえぐれていた。そしてそのすぐ近くに、小さい変な物体も転がっている。まさに物体、物だ。それが命の宿った鳥という生き物だったなんてとても思えない。ぱっと見じゃどこが頭で、体でシッポなのか分からない。そのくせ羽が生えそろっていないらしいから、赤みがかかった肌色をしていて妙に生々しい。五センチくらいのその物体は、少しひからびていた。それを見た瞬間、なんだか風がむっとするような変な匂いになった気がした。
「すぐそこで死んでたんだ。日なたにさ。暑かっただろうなー」
ああ、だからひからびたんだろうな。穴掘りを再開するクマの横で、モモはじっくりとそれを観察していた。
「なんで死んだんだろ」
「たぶんあそこから落ちたんだ。ほら、この木の上にあるんだよ、巣が。こんな小さいから、飛べないし餌もとれないから、弱っていって死んじゃったんだろうな。一番かわいそうな死に方だよ。飢えと孤独」
クマは、眉をひそめながら言った。なんだか吐き気がするとモモは思った。
こうしている間にも、夏は二人を苦しめる。いくら木陰にいるといったって、少しばかり日なたよりマシなだけだ。すべり台の錆が、暑苦しい色に照っている。
「モモも掘るか? 穴」
「俺はいいよ。暑いもん」
かばんに入っていた教科書でうちわの代用をする。穴はだんだん大きくなって、丼くらいの幅になっていた。クマの爪には、土がびっしり入っている。
「もういいんじゃねーの? それくらいで。十分埋まるだろ」
「うん、そうだけど、ほら、猫とかにさ、掘り返されたら、嫌じゃん。だからもうちょっと、深くしとく」
「ふーん」
穴の中に、クマの汗がぽたりと垂れた。その瞬間この暑さのなか、なんだか分からない物体のために必死に穴を掘るクマに、モモはだんだんイラつきを覚えてきた。イラつく? なんだか違う。しっくりこない。もっと攻撃的、とげとげしている。憤り? それも違う。真夏の昼間の、あの近くて大きい太陽に似ている、気がしないでもない。
「あのさ、クマ。そういうの、なんて言うか知ってるか」
「なに?」
モモは、自分を見たクマの目を見ていった。
「エゴだよ、エゴイスト。その死骸見つけて、あぁ見つけちゃったこんな小さいのにかわいそうに埋めてあげよう僕がやらなきゃ誰がやるんだ、って。だからお前はいまそうやって穴を掘ってるんだろ? 誰かが頼んだわけでもないのに、人間だけだよ、そういう変な使命感を勝手に持ってる生き物って。それでもっていいことしたなぁって優越感に浸るんだ」
吐き捨てるようにまくしたてたモモに、クマは少しだけムっとした。この狭い木陰の空間が、目まいのようにぐねりと歪んだ気がした。
「そんなに酷く言わなくたっていいだろ。俺はただ単に、むき出しのまま死ぬのはかわいそうだから埋めよって思っただけだ。そんならモモは、小さいヒナが死んでるの見たらどうするのさ」
「あぁ死んでるなって、思って帰る。それが自然だ」
「最低」
「お前が最低」
クマの目の中にいる、さかさまになった自分と目があった。
モモの目の中にいる自分が言っていた。最低。
「モモってさ、そういうとこあるよね。クールぶってさ、かっこいいと思ってんだろ。ダサいよ」
「クマだってそうだろ。これ見よがしにいい人アピールして、人情溢れてますって顔してる。ダサい」
「絶対俺のが正しいよ。モモは鬼だ、悪魔だ」
「俺からすればお前のほうが悪魔だよ。その優越感を向けられた死骸はかわいそうだな。ゆっくり死ねもしないんだ」
「その死骸って言い方やめろよなー」
数秒間、じっと目を合わせた二人だったが、すぐにまたクマは穴掘りを再開した。日が、だんだんと傾いてきている。腹も減ったし、喉も乾いた。今の流れで、すぐに別の話題を持ち出すわけにもいかず、気まずい沈黙がだらだらと大木の下に流れた。木に腰かけたモモは、横目でクマを見やる。真剣な顔、でもどこか少しイラついた顔で、じっと穴を掘っていた。深さはもうすぐでひじの辺りになる。
「ふぅ、こんくらいでいいかなー」
クマはワイシャツの袖で汗を拭きながら、あちーとか腹減ったーとか、一人でぶつぶつ言っていた。その一言ひとことに少しだけ間が空いているのは、モモの反応を待っているからだ。けれどモモは、相変わらず木にもたれたまま暑さにじっと耐えていた。
早く埋めてやって帰ろう。クマはため息を吐きながら木陰に置いておいたヒナの死骸をそっと持って、穴の中へ寝かせるように置いた。土はひんやりと冷たくて、なんだか心細かった。
少しずつ、ゆっくりと土を上からかけていく。あんまり押しつけるのはかわいそうだったから、土をかけただけで終わりにした。作業を終えて立ち上がると、暑さが急激に襲いかかってきて、一瞬立ちくらみがした。
「モモ、帰ろう。もう終わったから」
座っているモモに手を差し出すと、その手が土でひどく汚れていることに気がついた。慌てて引っ込めようとしたが、モモはその手を握って立ち上がる。意外だった、モモは結構綺麗好き、というより汚いものが嫌いなところがある。土といわゆる死骸とを触ったこの手を握るとは、思わなかった。
放り投げてあったかばんにネクタイと上履きを無造作に詰め込んで、モモの手をとったまま出口に向かう。ふと、後ろを振り返ると、なんだかここに来た時よりあの大木の影の色が濃くなっているような気がした。この短時間でそんなことは、絶対にありえないのだけれど。
「じゃあ、あの、俺こっちだから。ばいばいモモ」
「うん」
会話がなく気まずい帰り道。早口にそう言って、クマは分かれた道を左に曲がった。ずっとつないでいた手を離すと、汗ばんだ手に風が心地よかった。真夏のカップルたちは、別れ際にいつもこのささやかな爽快感を味わっているのだろうか。道を真っ直ぐ歩いて行くモモを見ると、クマとつないでいた左手が土で汚れていた。
七月二十一日午前七時十二分。天気は鬱陶しいほどに、快晴。
夏は日の出が早いといっても、この時間公園にはまだ誰もいない。そう思ってクマは、昨日のあの場所へ自転車を走らせていた。夏休みの初日。ノースリーブから伸びるむき出しの腕に、容赦なく襲う紫外線。お気に入りのアーティストの曲を口ずさみながら、人のいない道を暑さを切るように走っていた。
公園のフェンスの前に自転車を止めると、見慣れた背中が目に入った。クマと同じノースリーブのその姿は、たぶん寝巻きなのだろう。この距離でもわかる、あの不健康な細い腕は間違いなく、モモだ。
「モモっ? 何してんの、こんな朝っぱらにこんな所で」
驚いた。誰もいないと思っていたのに人がいたことも驚きなのに、まさかそれがモモだなんて。駆け足で近寄ると、モモはゆっくりこっちを向いた。まだ眠そうだった。
「これ」
いつもより低いトーンで、モモは短くそう言った。その目線の先を見て、思わず声が漏れる。
「あ……っ」
昨日ヒナの死骸を埋めた穴が、掘り返されていた。というより、荒らされていた。子供なんかの仕業ではないことは、死骸が綺麗になくなっていることからも容易に想像ができる。おそらく猫だろう。
クマは昨日、死骸を埋めたときのことを思い出した。あのとき、ぺちぺち土を押しつけて埋めるのではなくて、軽くかける程度しかしなかったのだ。もっとしっかり埋めておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。
「あんなにちゃんと深く掘ってたのにな。猫ってしぶといな」
「あ、いや、俺、しっかり埋めなかったから……だからだと思う」
「は? なんで、あんなに真剣に掘ってたのに?」
「……かわいそうだったから。土って冷たいし重いからさ、ぎゅって埋めちゃうの、なんかかわいそうで」
かわいそうだと思って、埋めようと穴を掘っていた。かわいそうだったから、手を抜いて土をかけた。けど結果的にこんなことになるなんて、余計にかわいそうなことをしてしまったんじゃないだろうか。昨日のモモの言葉が、クマの頭に浮かんだ。エゴイスト。
「結局食われる運命だったんだ、あの死骸。お前はそれをちょっと先延ばしにしただけ、無駄なことしたな」
モモは、荒れた土を乱暴に足でならしていった。
「かわいそうなことした」
「あのな、もう死んでんだから。痛いも悲しいも何もないんだぞ。人間だって、死んで二十四時間経ったら物として扱われるんだ。いちいちお前の感情で計るのはやめろ」
帰るぞと、短く言ってモモはクマの横を通って行った。モモの首筋に、汗が浮かんでいるのをその時知った。
「モモ」
数歩前にいたモモを呼び止めると、振り返らずに足を止めた。
「俺のこと、最低って思うか?」
「思うよ。最低」
セミの声が、耳鳴りにように響いている。だけど不思議なくらいに、二人の声はお互いの耳にすんなり聞こえた。雑音なんて、これっぽっちも聞こえない。痛いくらいに、それは透明だった。
「けど、けどモモだって、あのヒナのこと気になったんだろ。昨日俺に散々言っておいて、結局自分だって気にしてたんだろ。だからこんな朝早くに、ここに来たんだ。それは、お前の言うエゴじゃないのかよ」
モモがゆっくり振り返った途端、セミが全員ピタリと鳴き止んだのは、たぶん気のせいじゃない。クマの心臓がどきどきいっていたのも、気のせいじゃなかった。振り返ったモモは、人形みたいに綺麗な顔をしていた。だけど、怖いくらいに無表情だった。昔田舎のじいちゃんの家に行った時、リビングにあった鹿の剥製が、あんな表情をしていた。ビー玉のような目と、硬そうな皮膚、絶望の向こうにいるような、近づけない雰囲気。同じだった。
「そうだよ、よく分かってるじゃないか。お前が考えてる通り、俺は朝っぱらから走ってここに来たんだ」
クマの目をじっと見て、モモは言った。
「どっちだと思う?」
「……何が」
「どっちが、最低だと思う」
俺かお前か。モモは少しだけ微笑んで、公園を後にした。一人取り残されたクマは、昨日と同じようなくらりとする立ちくらみに襲われた。視界が一瞬、ずんと色を失くしダリの絵画のように長かったりぐねりと曲がったりする。世界の素性を、そこに見た気がした。
あの冷たい木陰に埋まっていたヒナを思い出す。生まれてすぐ熱い地面に落ちて、飢えと孤独のなか何を見たんだろう。もしモモが言ったように、猫に食われる運命だったのなら、なんのために生まれた命だっていうんだ。人間があのヒナのためにしてやれたことで、なにか正解なんてあったんだろうか。それとも、関与しようということ自体が間違っているのか。熱に浮かされた頭では、なにもまとまった考えなんて浮かんでこなかった。何もかもが正しくて、何もかもが間違っている、そんなまるでどこかの文学者めいたことを一瞬考えて、なんだかひどくばからしくなった。
何もない、明るすぎるこの公園で、あの場所だけが暗かった。
セミがまた、せきをきったようにわめき出す。始まったばかりの夏のなかで、それはひどく黒く、眩しく光っていた。
つたない短編、読んで下さって感謝です。分かりにくい部分や抽象的な箇所多々あってすみません。これからも「人間」を描けるよう精進したいと思います。