驚き
「うーん……あれ?」
俺は教室の隅の方で目を覚ました。昨晩は酒も飲んでいないのに、みんな酔っ払ったようになった。マスターが弾けもしないギターを弾きだしたり、ツカサがバク転しだしたり、真面目そうだったサトルでさえも、つまらないダジャレを言いだしたりした。
水で酔える特殊能力でもあるのかと疑うほどだった。まあ、俺も壁に落書きしてしまったから人のことは言えないが。
というか、サラがいない。他の人はソファーだったりで寝ている。アトリエにいるのだろうか。
そういえば今は何時だ?資金が乏しいから、金持ちの年寄りが多い朝に絵を売りに行きたいが……
もう9時を回っている。まずい。とりあえず昨日描いた絵を持っていつもの広場に行こうと思い、アトリエに絵を取りに行く。
ノックもせずアトリエに入ると、先客がいた。サラだ。サラが居たことには特に驚かなかった。サラは、キャンパスに貼ってある、どこかの白黒写真をじっと見ている。
「すまん、俺の絵を取ってくれないか?」
サラは聞こえなかったのか、写真をじっと眺めている。集中しているのだと思い、俺はサラの後ろにあった絵を取ろうと近づいて、驚いた。
サラがじっと見ていたそれは、写真ではなく絵に見える。この距離でも確実に絵だと言い切れないほどに写実的だ。しばらく固まっていると、サラが俺に気づいたようだ。
「……何してるの?」
「それ……絵なのか?お前が描いたのか?」
「……そうだよ」
なんでもなさそうに言うが、ものすごい絵だ。
鉛筆一本で描いたのだろうが、ピラミッドと海と雪山が、完璧とも言える構図で収まっている。芸術を金で測りたくはないが、売りに出せば何百万の値がつくだろう。
俺も少しは絵に触れてきて、描いてきたつもりだが、この絵の前には比較にならない。絵を取りに来たのも忘れて、その絵を見つめる。
「これ……どうやって描いたんだ……?誰に習ったんだ?」
切迫した雰囲気で問い詰めてしまう。それも仕方ない、と言えるほど俺には衝撃的だった。
「誰かに習ったわけじゃないんだ。……物心ついた頃にはこういうふうに描けてたから……」
「そういうもんか……。邪魔してすまんな」
自分の絵を持って逃げるように部屋から出る。みんなはまだ寝ている。
広場に着いても、頭の中はあの絵のこと、それに
サラのことでいっぱいだった。あんなに絵が上手いなら、少なくとも絵描きの間では有名になっていてもいいはず。だが、俺は知らなかった。
まあ、百年前に生まれているんだから、今俺より絵が上手いのは当たり前とも言える。でも、物心ついた頃からあんな絵が描けるか?
ロンガーたちはいつから記憶があるのか知らないが、遅くても十歳ぐらいだろう。十歳であんな写実的な絵を?
ほとんどありえないと言ってもいい。しかも誰にも習わないで?いや、もしかしたらロンガーたちはみんな絵が上手いのか?……わからない。
広場の隅で頭を抱えているやつの絵なんて、買う人はいなかった。帰りに図書館によって、生物や歴史、芸術の本を軽く読んでみたが、ロンガーは一度も出てこなかった。謎が深まるばかりだ。
家、もといアジトに着いたのは、十五時を回ってからだった。さすがにみんな起きていて、昼食を取り終わって各々が好きなことをしている。
俺は、ロンガーの二人に許可を取り、アトリエに入る。
まだまだ謎は解けない。それどころが深まるばかりだ。だが、それを一度放置して、絵と向き合ってみることにした。
描きたい絵はないが、とりあえず何か描こう。
そう思い、今日見た風景をひたすらに描くことにした。 誰もいない寂しい広場、初めて入った図書館、帰りに通った前の家。すっかり変わってしまった街を描くが、あの絵とは何か違う。
深み、というか感情というか、あの街に漂っていた寂しさが絵にこもらない。一世紀の重みはこれほど違うのだろうか。それとも、技術の差か。
しばらく描いていると、ノックの音が聞こえた。
「……ちょっといい?」
サラだ。
「ああ、大丈夫だ」
返事をするとサラが部屋に入ってくる。何かあったのだろうか。
「あのね……。けさ、あなた私の絵を見たでしょ?」
「ああ。……勝手に見て悪かったな」
やはりノックもせずに部屋に入ったのが悪かったのだろう。申し訳なく思っていると、
「いや、絵を見たことを怒ってるわけじゃないの。……あの絵の場所がわからないの」
あの絵の場所?あの風景画に描いてある場所がわからないのか。
「まあ、昔本か何かで読んだんじゃないか?」
「……実は、私たちは100歳より前の記憶がないの」
「記憶がない?」
ロンガーたちの幼児期健忘は100歳までなのか、なんて呑気に思っていると、
「私たちは、気がついたらこの街にいたの……。初めの記憶は、路地裏で姉と一緒に目が覚めたこと……」
どういうことだ?俺は困惑する。
「私たちは、親の顔も、どこで生まれたかも覚えていないの……。覚えているのは、お姉ちゃん、
言葉、そして年齢、自分がロンガーだということ
だけだった……」
いよいよ謎が深まってきた。全てが不思議だ。
混乱状態になりそうになっていると、サラが言う。
「私たちには名前もなかった。サラ、と言う名前は、マスターが何年か前につけてくれたの」
となると、イオリもそうなるだろう。
「いきなりこんな話をしてごめんね……。私たちの昔を知っている人がいないか探しているのだけど、あなたもきっと知らないでしょ?」
もちろん知らない。そのことはサラもわかっているようだ。
「手がかりは、どこかで見た風景……。この壁沿いに置いてある絵は、私が描いたどこかの風景なの。あなたが朝見たあの絵も、私がどこかで見た場所なのよ……」
サラが言った壁沿いの絵を見る。どれも現実の物とは思えないような世界が広がっていた。抽象画を写実的に描いているような、風景画のカテゴリーには間違いなく入らない絵がいくつかあった。
だが、知っている場所もあった。この国の首相官邸だ。この街が世界初の芸術特区に指定された後、大規模な工事があり、芸術的な建物になっている。その工事が今から五十年ほど前だから、遅くても今から五十年以内には、首相官邸を見たことになる。
だが、それをサラに伝えると、もう知っていたようで軽くうなずいただけだった。
他にも知っている場所がないか探していると、
ノックの音が部屋に響いた。
「おふたりさん、絵に熱心なのはいいがもう8時だぞ。そろそろ飯を食ったらどうだ?」
タケの声がする。思えば、今日は何も食べていなかった。
「わかった。すぐ行く」
サラも腹が減ったようで、絵の片付けを始めている。俺もそれを手伝ってから、アトリエを出た。