8話
戦いの果て、寧々は……
「良い? 寧々。寧々は少しポケッとしてるから、ちゃんとお母さんの言う事を聞くのよ?」
「うん! 分かったよ、お母さん!」
「本当に分かってるのかしら、この子ったら……心配だわ」
「大丈夫だよ~? うわわっ!」
「あー、ほらぁ! 言わんこっちゃないんだから……」
「うわーん! 痛いよぉ!」
「ほら、見せてみなさい、寧々」
「膝擦りむいたぁ! 血ぃ、血ぃ!」
「こんなの絆創膏貼ってりゃ治るわよ」
「わーん! 痛い~!」
「仕方ないわねぇ、ちちんぷいぷいっ! 痛い痛いの~……お父さんに飛んでけ~」
「……ぷぷっ。何でお父さんに飛ばしたの~?」
「お父さん強いでしょ?」
「うん、おっきくて強いよ!」
「だからよ。寧々の膝擦りむいた痛みなんて、お父さんには屁でもないわ」
「おー! お父さんスゴいねぇっ」
「……お母さんも凄いわよ~? 寧々の痛いの、飛ばしちゃったんだからねっ」
「お母さんもスゴ~い!」
あぁ、夢だ。これは小さい頃の夢。ここまでは色んな内容があるけど、最後は決まって、いつも同じ……私を強く抱き締めて、お母さんは優しく言うんだ。涙混じりで、名残惜しそうに。
「寧々? 生まれてきてくれて、ありがとうね。お母さんもお父さんも、寧々が幸せなら、何にもいらないわ。大好きよ……寧々っ」
ゆっくりと目を開ける。見慣れた天井。私の部屋、私のベッド。時間は早朝四時。まだ暗い外から、新聞配達のバイクの音が聞こえる。カーテンの隙間から漏れる朝焼けの光が、何処か寂しい。ぎゅうっと胸が締め付けられるようだ。
「……起きよう」
ムクりと起き上がりベッドの端に腰掛けると、ズキズキと頭が痛い事に気付く。
――私は昨日、どうしたんだっけ?家に帰って来て、それから、ご飯作って……
「あれ?」
思い出していると、私の頬を涙が一筋流れる。その涙が意味する事を、私は瞬時に理解してしまった。
――あぁ……あぁそうだ。
ベッドから降りて部屋のドアを開ける。階段を降りて一階へ。そして、階段降りて直ぐの部屋の扉を正面にして立ち止まった。
「……お母さん。もう、入っても良いよね」
当然返事は無い。当たり前だ。この家には、私しかいないのだ。お父さんは出張で海外だし、お母さんは……
ドアをノックせずに開ける。驚くほど軽々しく開いたドアの先から、カビ臭い空気が流れ込む。一歩足を踏み入れ、入り口付近のスイッチを押す。
「……お母さん」
照らし出された部屋の中は、行き場の無い机やら書類が入った段ボールやらで埋め尽くされている。無論そこには、人の影も形も見当たらない。埃被った部屋の中を、久しぶりに電力の通った蛍光灯が照らす。僅かな、本当に本当に僅かな希望は、残酷な現実を私に突き付けるのだった。
「そうよね……そうに決まってるのよね」
視界が歪む。頬を伝う涙が止めどなく、ボタボタと床を叩き始める。認めたくない。認めたくないけど、あえて私は言葉を口にする。他の誰かをではない。自分自身を納得させる為に。
「……お母さん。私が中学に入る前に、死んじゃったもんね……!」
吐き出された言葉は誰もいない部屋に吸い込まれて消えていった。その言葉は、確かに私の心に刻み込まれた。二度とこんな事が起きないように。私が前に進む為に。
母が死に、なおも私の前に現れていたのは……いや、母を作り出していたのは、きっと私自身だ。母を作り出し、それを盾にする事で、私は自分の心を守っていたのかもしれない。
お母さんから言われた。お母さんが駄目って言ったから。お母さんが、お母さんが……そう言っていつも私は逃げていたのだ。そしていつしか、私の中のお母さんは化け物になってしまったのだ。
「本物のお母さんは、そんなんじゃないのに……!」
私の作り出したお母さんは、この部屋に入る事を許さなかった。この部屋に入れば、きっと私はもっと早く、現実に帰れたはず。
檜山先輩達のお陰で私は色んな事を思い出せた気がする。モヤに掛かったみたいだった頭がスッキリして、別人になった感覚すらしてくる。
「……私、もっと強くなる。本物のお母さんが心配しないように」
流れる涙を袖で拭ってグッと前を見据える。埃被った机の上にある家族写真が目に入り、その中のお母さんが笑い掛けてくれた気がした。二歳くらいの私を抱いているお母さんは、何処までも優しい笑顔で、深い愛情を私に注いでくれていた……いや、今も注いでくれていると、信じている。
「行ってきます、お母さん……!」
電気を消し、扉を閉める。顔を上げ、気を抜くと流れてしまいそうな涙を堪える。本当のお母さんの自慢の娘であるように、力強く前を向いて生きて行こうと決めたのだ。泣いてなんかいられるものか!
昼休み、教室の片隅、私の前にはいつも通り、由美の姿。開けられた窓からは爽やかな風が吹き抜け、四月終わりの心地良い春の匂いが鼻腔を刺激する。
「ねぇ、寧々」
私をまじまじと見つめた後、由美は首を傾げて言った。
「昨日さ、何かあった?」
訝しがる由美の問い掛けに、私は目を瞑って小さく笑う。憑き物が落ちるとは、まさにこの事。晴れ晴れとした天気の様に、私の心は希望に溢れてる。
「うん、やっと前に進めそうだよ、私」
自然と外を見て笑う。広がる景色が、色彩美しく瑞々しい。昨日までとは全然違って見える。街は、世界はこんなに明るくて眩しかったのか。
「……そっ。なら良かった。事情は知んないけどさ、寧々が元気なら、私も元気だっ」
ニカッと笑った由美につられて、私も二ヒッと笑う。
「あ、あの……宮原、さん? 良かったら、私達も一緒しても良いかな?」
笑い合う私達に、二人のクラスメイトが話し掛けてくる。私は思わず目を丸くしてしまった。
「……ほら、寧々? 誘われてるよ?」
由美から言われ、我に帰る。反応を待つクラスメイトにキチンと返事をしなければ……!
「あ、うん! もちろん! けど……良いの?」
「うん。今まで何でか話し掛け辛かったんだけど、今日はそんな感じしないからさ」
私はこの日を境に、クラスに少しずつ馴染んでいけた。由美が来る回数が減ったのは残念だけど、由美は由美で、クラスの中心人物になったみたいだ。本当に由美は凄い奴だなって思う。
由美にも当然感謝しているけど、私は気になる人達がいる。放課後にちゃんとお礼に行かなくちゃ……
時は進んで放課後。文化棟に足を運んでいた。これで三度目。いつもと同じく、背後から誰かがやってくる。その人の小さいけど耳によく残る声を思い出すと、自然と口角が上がってくる。
「あら? 寧々ちゃんじゃない。どうしたの?」
待ってましたとばかりに振り向くと、透き通る白い肌に赤黒い目、肩甲骨まで伸びた綺麗な白髪……檜山先輩が立っている。もちろん無表情で。
「檜山先輩! 昨日は、ありがとうございました!」
私は深々と頭を下げた。そんな私を見て、檜山先輩は目を丸くする。
「……意外だわ。てっきり責められるかと思ったんだけど」
「せ、責めるだなんてとんでもない!」
急いで頭を上げ、顔の前で両手をぶんぶんと振った。
「ふふっ。まぁ良いわ。折角だし、お茶でも飲んで行きなさい」
「はいっ! お邪魔しようと思ってました! お話したい事もあるので!」
昨日と同じく、檜山先輩は私を誘う。だが、昨日とは違い、腕も引かれていないし、私も自らついていく。オカルト部の部室に入ると、いかにもと言った丸テーブルに、神山先輩と田中先輩の姿がある。
「あぁ? 何だよお前、昨日の奴じゃねぇか? 昨日の今日でまた憑かれたのかよ?」
「宮原さん! どうぞどうぞ、座って座って」
「はいっ! お邪魔します!」
入り口側の椅子に座る。檜山先輩が直ぐにお茶を出してくれる。爽やかな香り。ジャスミン茶かな?
「それで? 話って?」
皆にお茶を出すと、檜山先輩が私に尋ねる。
「はい。実は……」
お三方の顔を見る。皆さんじっと此方を見つめている。その顔は優しく、私がこれから言う言葉を期待しているようにも感じられた。
「私を、オカルト部に入れてくださいっ!」
言った。由美には悪いけど、私を救ってくれた人達に恩返しがしたかった。
「だって。どうするの? 部長?」
檜山先輩は冷静にお茶を啜る。いつも通りの口調なのに、少し嬉しそうに聞こえたのは、私のうぬぼれだろうか。
「そんなん決まってるよなぁ!? 祓詞ぃ?」
田中先輩はニヤリと笑う。この人は口は悪いけど良い人みたいだ。
「あぁ! もちろんOKだよ、宮原さん!」
神山先輩は手でOKサインを作ってくれる。
「あ、ありがとうございますっ!」
私は椅子から立ち上がり、精一杯体をくの字に折り曲げる。
「へっ。それじゃあ、やっとくか!」
「よーし!」
「仕方ないわね……」
何だろう?三人が立ち上がり、私に向かって手を差し出した。
「「「オカルト部へようこそっ!」」」
――ふふっ。
「よろしくお願いしますっ!」
私は再び体をくの字に曲げ、それから顔を上げた。先輩達の笑顔が私の入部を心から祝福してくれていると分かり、凄く嬉しくなる。檜山先輩は微笑だけど。
――私、幸せになるよ。見ててね、お母さん。
高校一年の四月、新しい命が芽吹き、誰もが浮き足立つ季節。その月末に、私はオカルト部に入部したのだった。
「よーし! これで一件落着だな!」
「昭八、うるさいわ」
「ンだよ、お前は直ぐに俺を黙らせたがるなぁ!」
「まぁまぁ、落ち着いて。折角解決したんだしさ」
「部員も増えたし、良かったわ」
「うんうん。賑やかになると良いね!」
「そうだな!」
「……昭八一人でもう賑やかだと思うわ」
「あ? 何か言ったか?」
「いえ、何でも無いわ」
「まったくこの二人は、仲が良いのか悪いのか……何はともあれ、これからもよろしくね、皆!」