x day
扉に鍵はかかっていなかった。ドアを開け、中に立ち入る。
「お邪魔します、とでも言えばいいのか」
「懐かしい」
「ここに、住んでたんだな」
「ええ。超能力で有名になるまでは、ここに住んでいられた」
「何か、あったのか」
「いろんな人が来た。テレビや新聞の取材に、果ては研究機関まで。そしてその誰もが、私達を利用しようとしていた」
「心、読めるんだもんな」
「あの子、純粋だから、嫌になっちゃったんだと思う。山奥に引っ越してからはそんな様子なくて、気づかなかった」
「多分、今も気づいてない」
「え?」
「椎良は、きっと勘違いしてる。あいつの目的は」
指を鳴らす音がする。
「まったく、厄介な相手だったよ」
シンだ。視界が暗転し、意識が朦朧としていく。
「つまり、姉ちゃんの弱点はお前なんだよ。共に旅をするうちに、共有幻想が形成された」
気がつくと、目の前には色のない景色。何も思い出せない。しかし、何かをしなければいけなかった筈だ。一面に広がる血の海に、彼は飛び込む。奥へ、奥へ。底に漂う藻屑。近づいてみると、それが死体だとわかった。死体の山、そのさらに奥に、何か光るものがある。それは暖かい色をしていた。思い出す。
「一瞬で色を取り戻した、つくづく厄介な奴だよ」
苛だった口調で少年は言う。それが誰か、彼には思い出せなかった。それでも、彼が憎むべき相手だということは覚えている。
「俺は、憎しみだけに生きてきた。大切なものを傷つけられて、それが許せなかったから」
「ふぅん、それで?」
「俺は、お前が憎い。憎いということは、きっと俺の大切なものをお前は傷つけた」
「暴論だね」
言うが早いか、別人のような動きで彼は少年に一撃を食らわせる。もはや彼に、理性の鎧などなかった。
「何が、起きた」
「思い出したんだよ、戦い方を」
「僕を、どうする気だ」
彼は答えない。
「僕を殺すのは勝手だけど、姉ちゃんはきっと悲しむよ」
「誰が悲しむ?知るか、俺はお前を許さない」
「そうかい、勝手にするがいいさ」
少年は諦めたように目を閉じた。
「って、前の俺なら言ったんだろうな」
ゆっくりと、目を開ける。
「なん、で‥‥」
「あの話には、続きがあるんだ。俺は、10年かけて復讐を果たした。俺の家族を皆殺しにした犯人を、この手にかけたんだ。そいつと同じ手口で。それでこれから何をしよう、そう考えた時に、わからなかったんだ」
「復讐は虚しい、よく聞く話だね」
「そんなんじゃないさ。俺は大した人間じゃない、ただそう言いたかっただけだ」
「その大した人間に、何ができる」
「やっと、また守るものができたんだ。彼女を悲しませないために、俺は戦う」
「彼女って、誰?」
「わからない。思い出せない」
「わからない誰かのために、よくそんなこと言えるね。そんな人、存在するかどうかもわからないのに」
「存在しようがしまいが、俺のすることに変わりはない」
「それは残念だ」
「残念?」
「残念に決まってるだろ、君のすることは達成されないんだから」
そう言って少年は、近くに倒れている少女に触れる。そのまま、彼女の中に吸い込まれて消える。行くしかない。彼はそう感じていた。
彼女が気づいた時には、そこは色のない荒野だった。人々は飢え、渇き、救いを求める。しかし彼女が向かうのは、救いを待つ人々とは逆方向。彼女は進む。自らの色を探すため。その原点に触れるため。
「お母さん」
「その力は、あなたたちにしかできないこと。人の心がわかるから、誰よりも優しくなれる。誰かの役に立つ、そんな人になって」
そう言ったきり黙って、二度と動くことはなかった。
「そうか、これが私の色」
「違うね、これは呪いだよ」
そこにはシンがいた。何故だか、色を持っている。
「なんてこと言うの」
「だって、そうでしょ。この言葉のせいで、姉ちゃんは誰かのためだけに生きるようになった」
「それでも、できることをしないなんて私にはできない」
「それも、いいのかもね。本当にその人が救われるうちは」
「何なの、その言い方」
「例えば今回だって、ダイブして色を取り戻してあげても、壊れた世界に放り出されて迷惑してるかもしれない」
「それは」
「無計画に、無責任に手を差し伸べるのは、かえって迷惑になることもある」
「そんなこと、わかってる。それでも、見捨てることはしたくない」
「見捨てたからって、それでどうなるのさ」
「じゃあ、世界が壊れたままでいいって言うの」
「その考えが傲慢なんだよ。人間は、姉ちゃんに救われるほど弱くない。見たでしょ、もうあちこちに村ができてる。人間は、自分の力で立ち直れるんだ」
「でも、あんたがまた色を消すかもしれない」
「それはないよ。僕の目的は果たされたんだから」
「目的って、何なの」
「なんで、わかってくれないかな。母さんも父さんもいなくなって、僕には姉ちゃんしかいないんだ。二人だけの世界なら、僕だけを見てくれるよね」
「そんな、ことのために」
「なんでどこかの誰かを救って、僕は救ってくれないの」
「そりゃあ、ずっと一緒にいたいよ。でも、行かなきゃならない」
「なんで」
「行かなきゃいけないから。誰かを救わない私に、価値はないから」
「それが、呪いなんだよ」
「違う」
「違わないよ」
「違う」
「違わないって、思ってるから」
「違う」
「色が、まとわりつくんだ」
死体が腐ってどす黒い塊になる。それが、動き始める。蛇のように蠢くそれの不気味さに、声も出なくなる。それは彼女の足先から絡みついて、全身を覆う拘束具となった。重い。全身が鉛になったように身動きがとれず、立っているだけで精一杯だった。
「不思議だよね。人は心に触れられないのに、心は人を傷つける。まあ、僕たちのような例外もあるけど。その枷を壊してあげたいけど、その前にしなきゃならないことがある」
「何を、する気?」
「大したことじゃないよ、ただ邪魔者を始末するだけさ。人は心に触れられない、ここにいる限り奴は勝てないんだ」
そう言った瞬間、大波が来る。景色が血の海に変わってゆく。ドロドロと沈んでいく中で、彼女は思い出す。救うことは目的ではない、まして呪いでもない。救った世界で、やるべきことがあるのだ。ならば救うことは手段。それは矛であり盾であり、身を覆う鎧でもある。纏わりついたそれが、形を変えてゆく。黒い鎧に、赤い光が脈動している。それは強く気高い彼女の心、彼の色がそれを完成させたのだ。動ける。彼女は奥へと潜ってゆく。手を伸ばし、沈むシンをつなぎとめる。
「そうやってまた、見境なく助ける。そういうとこだよ」
「それでも、止まるわけにはいかない」
「なんで、そうまでするんだい」
「平和になった世界で、静かに余生を過ごす。そう、約束したから」
シンは、悟る。彼女の変化が、彼の影響であることを。
「敵わないや」
シンは、元の世界に戻っていた。すんでのところで脱出したのだ。彼女が手を伸ばしていなかったら、あのまま死んでいたかもしれなかった。それが良かったのか悪かったのか、当の本人さえわかっていない。
「シン、行くぞ」
彼は声をかける。
「どこにだよ」
「世界を元に戻す旅」
「ふざけるな、なんでお前なんかと」
「お前も心に触れられるんだろ。だったら、その力は必要だ。それに、野放しにしたら何をしでかすかわからない」
「もう、嫌になったんだ。このまま朽ちて死んでいくよ」
「そんなことしたら、椎良が悲しむ」
「それも、いいかもね」
そう言ったシンの腕を引いて、彼女は言う。
「シンには、近くにいてもらわなきゃいけない。いつか、シンの心を救わなきゃいけないから」
「本当に、残酷なことをするよね。大体、何もしなくても世界は元通りになるんだ」
「そんなの待ってたら、年老いて死んじゃう。行こう、一秒でも早く世界が元に戻るように」
「‥‥わかったよ、もう」
また、歩き出す。
「そういえば、さっき私の心の中で、なんで姿を見せなかったの」
「まあ、それはあれだよ。察して」
「言わなきゃ、わかんないから」
「‥‥あんな姿、人に見せるものじゃない」
「そう」




