monochrome
世界から色が消えた。それも一人の視界からではなく、世界中いたるところで。物体にも物質にも、実体にも本質にも変化はない。何かのはずみである日突然、世界から色が無くなったのだ。色とはつまりリアリティだった。色のない夢のように、脈絡もなく世界は回る。昨日はゾンビが出たし、一昨日は怪獣が出た。世界がエラーを起こしたとか、神が発狂したとか言われているが、本当のところは誰にもわからない。それならばせめて、目の前の事態に対処しよう。彼は走り出す。何かを忘れている気がする。それなのに、思い出せない。目が覚めた後、夢の内容を思い出すように。それでも彼が止まらないのは、忘れたものを探しに行くため。忘れたことを忘れる前に、過去を取り戻すため。明日になれば、消えてしまう。だからせめてその前にと、彼は前進する。あるいは、景色が後退していたのかもしれない。進んでいる保証はどこにもなかった。どこにいるのか、どこに向かうのか分からない。分からないまま、景色は流れていく。彼の速度は、既に時速300キロを超えていた。街はもはや、ただの光の線だった。後ろから追いかける影が一つ。敵だ。速い。追いつかれる。追いつかれる訳にはいかない。敵の進路上に横移動し、妨害を試みる。が、敵はスピードを緩めない。勢いよく衝突し、空中に撥ね飛ばされる。世界が少しずつ減速し、ついに止まった。そして、落下へと転じる。着地をしくじれば、きっと無事ではすまない。前屈みに落ちてゆく。着地の瞬間、両足で地を蹴り跳躍する。前方に跳ねた勢いで敵に体当たりするが、当たらない。ここまでは彼も想定していた。回転して受け身をとる。そのまま振り切ろうとするが問題が一つ。信号が赤なのだ。本来なら止まるべきところだが、彼にはそうするほどの余裕はなかった。構わず走り抜ける。1秒後、全身に鈍い痛みが走った。どうやらトラックに轢かれたらしい。意識が暗転する。目が覚めるとそこは異世界だった。早く、元の世界に戻らねば。彼は「異世界転生」というものを知っていた。人語を解する猿達と戯れる、そんなのは真っ平御免だ。どうすれば帰れるか、現代知識を総動員して思案する。何としても帰らねばならない。そしてトラックで轢いた運転手に、文句を言わなければならない。彼は必死に考えるも、
「わからないの?」
突然話しかけられたので、面食らってしまう。いつの間にか、背後に少女が立っていた。彼女は何かコスチュームのようなものを身にまとい、現実離れした雰囲気を持っている。非現実的であるはずなのに、不思議と彼女は色を持っていた。
「まだ分からないの?色がないのは、あなた自身」
「何を言っている?色がないのは世界の方だ。お前か?お前が、色を奪ったのか?色を取り返せば、世界は元に戻るんだろ」
「色が消えたのは、あなたの中の世界。そして世界中いたるところで、同じ現象が起きている。だから、世界に色がないというのも間違いじゃない」
「結局、何が言いたいんだよ。どうしたら、色を返すんだ」
「返すもなにも、奪ったのは私じゃない。そして、取り戻すのも私じゃない」
「嘘をつくな。なら何故色がある」
「取り戻したから。閉じてしまった世界で、自分の色を見つけたから」
「自分の色?見つけるにはどうしたらいい」
「思い出して。自分の軸になっていたものを」
何も、思い出せない。何かしなければならないことがあった、もやもやとした感情だけが積もる。自分が何をしていたか、思い返してみる。誰かを恨んでいた気がする。そして、何かをした気がする。何をした。気がつくと、手にはナイフが握られている。
「ああ、俺は」
視界が闇に染まっていく。悲鳴が聞こえる。生温い感触がする。身体中から、血が流れ出てゆく。その場に倒れこむ。人間の身体には4リットルの血液が流れているというが、その十倍でも足りないほどに流血していただろう。そのとき彼は、血の海に溺れていたのだから。どこまでも、沈んでゆく。誰かが手をとる。何かが体に撃ち込まれた。水が引いてゆく。体を起こし目を開くと、世界は色を取り戻していた。いつのまにか普通の服装になっていた彼女が口を開く。
「どう?」
「色が戻ったよ」
「それは、よかった」
言ったきり彼女は黙って、ただ佇んでいた。ふと疑問が浮かぶ。
「君が、助けてくれたのか?」
「まあ」
「どうやって?」
彼女は答えない。
「ある人を助けに行きたい。君と往けば、できるだろうか」
「わからない」
「できるかもしれない、ってことだよな」
「嘘でも、できないって言うべきだったかな」
彼と彼女は歩き出す。
街は静かだ。まともな都市機能は残っていない。電車もバスも、車の一台も走らない無人の街を歩く。道のところどころに、人が倒れている。
「彼等も、夢を見ているのか?」
「そう。共有幻想が壊されて、自分の色を失っている」
「共有幻想?」
「共有幻想というのは、そう、70億の世界を束ねる普遍性、とでも言うべきかしら」
「よく分からないんだが」
「青ってどんな色?」
「あの空の色」
「違う。それは、あなたの瞳に映った空の色」
「瞳に映さずに、どんな青が見られるっていうんだ」
「そう、見られないの。別の瞳に映した空が、そっくり同じ色になるはずがない。それなのに空の青さを共有しているのは、空が青いと信じて疑わないから」
「なんとなくわかった。でも、それをどうやって壊すっていうんだ?まさか、概念に触れるわけじゃあるまい」
「それが、できるから恐ろしい。奴は、シンは、世界を『糾弾』した。嘘にまみれた世界の色を、言葉の弾丸で射殺したの。まるで、ステンドグラスを割るように」
それは彼にとって信じられない話だった。現実が壊れたといえ、盲信することはできない。矛盾を感じ質問する。
「色が殺されたなら、なぜ俺達は空を見ている」
「色は死んでなんかいない。繋がりが切れてしまっただけ。そしてそのショックで、自分の色を見失っているだけ」
「じゃあ、どうすれば見つけられるんだ?」
「自分自身で見つけられないなら、見つけるのを助ければいい」
「でも、どうやって夢の中に」
「潜る」
「潜るって」
「ダイブ・イントゥ・インナースペース!」
彼女が叫ぶと、景色が光に包まれる。世界が変わる。彼女の服も変わる。そこは色のない世界。
「なんでそんな、どこぞの魔法少女みたいな格好なんだ?」
「憧れ、かな」
「なんで、一瞬で服が変わるんだ」
「精神世界に潜っているんだ、形は精神に左右される」
「じゃあ、俺もその気になれば魔法少女になれるってことか」
「見たくないけどね」
雨が降っている。灰色の雨が降り積もって、地表が海に変わってゆく。
「ここは、誰の中なんだ」
「足元に倒れてたでしょう、誰かは分からないけど」
「知らないおっさんの心の中か、見ていて楽しいものじゃないな」
「それは知らないおっさんに失礼じゃない?おっさんだから見捨てるとか、美少女だから助けるとか、そういうことじゃないでしょう」
「年下にやんわり窘められた悔しい」
「年下?」
「ああ。17ってとこだろ?」
「当たっているけど、だからこそ年下と言われたのが不可解ね」
「これでも俺は21だよ。童顔とはよく言われるが」
「童顔というより、立ち振る舞いが幼い」
「なんだと」
「それより今は、やるべきことをしないと」
「やるべきことって」
「心を救う」
「どうやって?」
「まずは、彼を探す」
一人の中年男性が、波に流されこちらに来る。気を失っているようだった。
「いた」
「そんな都合よく」
「精神世界の中心には、自分自身がいるものだから」
「それで、次はどうするんだ?」
「彼の色を探す」
「どうやって」
「本人に直接訊けばいい」
そう言って彼女は男の体を揺らし始める。何度か揺らした後に、男は目を覚ました。
「あなたの色は、どこにあるの」
「色?何を言っているんだ」
「あるいは軸と言ってもいいし、個性と言い換えてもいい」
「個性、か。悪いけど、そんなものは持ち合わせていないんだ。東京に来れば変われるなんて、幻想だった。どこまで行っても、何もない僕だ」
「そう」
向き直った彼女は言う。
「と、訊いても分からなかった訳だけれど」
「そういう場合は、どうするんだ」
「それはあなたが考えること」
「丸投げ?」
「そうとも言えるわね」
彼は思案する。流されて生きていたなら、彼はどこから来たのだろう。潮流を遡れば、原点に辿り着くことができるのではないだろうか。
「行こう、あっちだ」
それは、三キロほど歩いたところにあった。黄金色に輝く夕景、堤防の縁に座って談笑している。きっとその男の色は昔見た景色、海が綺麗だとかそれだけのことだったのだろう。自分でも気づけないほど、ささやかな色。それを見つけた男は、再び自分として生きてゆく。
二人は元の世界に戻る。目を覚ました男は、涙を流していた。それは自分を取り戻した喜びか、世界が崩壊した悲しみか。
「そういえば、名前を聞いてない気がするんだが」
「人に名を尋ねるなら、その前に自分が名乗るべきじゃない?」
「‥‥誉」
「私は、椎良。よろしく」
「よろしく、椎良」
「気安く呼ばないで」
「えぇ‥‥」
また、歩き出す。




