問題編①
とある居酒屋チェーン店の座敷に、僕と緋村奈生は並んで胡座を掻いていた。それなりに繁盛した店内には、小さく区切られた畳のスペースが、整然と並んでいる。
席に案内してくれた女性店員が去って行くと、緋村の真向かいに座った男が、申し訳なさそうに口を開いた。
「悪いな、二人とも急に来てもらって。今日は奢るから、好きなだけ呑んでくれ」
そう言うと、彼──安藤は、メニューを開いてこちら側に向けた。彼も僕たちも、共に阪南芸術大学に通う二回生であり、学科は緋村が芸術企画学科、安藤が映像学科、そして僕が文芸学科だった。三人ともバラバラだが、まず緋村と安藤が授業で知り合い、僕は緋村伝いに彼と面識を持つようになったのだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えて──と言いたいところだが、まずは相談の内容を教えてもらおうか。引き受けるか否かはその後で決めさせてもらう」
緋村は普段どおりの不機嫌そうな口調で言う。基本的に皮肉屋で口が悪い彼は、すでに厄介ごとを押し付けられると決め付けているようだった。
「もちろん、初めからそうしてもらうつもりや。まあ、どのみち今日は俺が持つけどな」
安藤は苦笑する。僕たちとは違って社交的で異性にもモテそうな彼は、それなりに羽振りがいいようだ。
「ほんなら、さっさと本題に入ろか。今日二人を呼んだんは、俺の彼女のことで相談があるからなんや。彼女──ユカって言うんやけと──実はそのユカが、三日前に誰かに怪我を負わされてな。と言っても、背中に痣ができたくらいの怪我なんやが」
「暴漢に襲われたってことか?」
「ああ。なんでも、バイトから帰る途中、いきなり後ろから鈍器で殴られたんやと。突然のことで犯人の顔は見てへんそうやけど、取り敢えず、男やったことは確からしい」
「ふうん、物騒な話だな。でもまあ、大阪じゃそう珍しくないんじゃねえのか? 大都会なんだから、そんな事件日常茶飯事だろ?」
東京生まれ東京育ちのクセに何を言う。
どうやら、緋村はすでに乗り気ではないらしい。緩慢な手付きで、テーブルに放り出していた煙草の箱に手を伸ばす。
「そんなテキトーなこと言わんと、最後まで聞いてくれ。これでも、ホンマに困ってるんやから」
「悪いが、聞き役はこいつの担当だ。──そうだよな?」
煙草を一本咥えながら、こちらに振って来る。僕、こと若庭葉は呆れながらも、安藤の方に頷き返した。どこかの薄情なヘヴィースモーカーとは違って、人並みの親切心は持ち合わせているつもりだ。
「力になれるかわからないけど、取り敢えず話してみてくれよ」
「ありがとう、恩に着るわ。──で、単刀直入に言わせてもらうと、その事件の犯人を、二人に突き止めてほしいんや」
「それは……警察には届け出てないのか?」
暢気に紫煙を吐き出す緋村の隣りで、思わずそう訊き返した。
「いや、一応出したみたいなんやけど、あんまりアテにならなそうやねん。ほんの一瞬の出来事で、目撃者は全くおらんかったようやから」
「なるほど。──でも、どうして僕たちに? 他にもっといい人材がいそうだけど……」
「なんでって、君らの活躍を小耳に挟んだからやないか。聞いたで? 今年の夏の事件のこと。詳しくは知らんけど、二人が解決したんやろ?」
確かに今年の夏、僕たちはある事件に巻き込まれた。それも、陰惨な連続殺人事件に。──しかし、活躍したのは実質緋村一人だけで、僕は最後まで真相を見抜けなかったのだが。
その辺りのことは誤解だと否定したが、安藤は気にしていない様子だった。
「と言うことは、解決できたってのはホンマなんや。せやったら、やっぱり緋村たちに犯人探しを依頼したい。ガチで困ってんねん」
また「困ってる」が出た。──それにしても、恋人を襲撃された者の反応としては、少し変じゃないか?
そう思っていると、緋村も同じようなことを考えていたのか、煙を吐きながら、
「お前、そのユカって彼女とうまくいってなかったのか?」
「え? ──どうして、そう思うんや?」
「別に、恋人が怪我させられたってのに憤慨してる様子が微塵もねえから、変だと思ってさ。──つうか、図星なんだな?」
「まあ、な。事件のちょい前くらいから、別れる別れないで揉めとったんや。俺から話を切り出したんやけど」
「なるほどねぇ。つまり、お前は彼女さんに疑われてるわけだ。だから、『困ってる』んだろ?」
「せやねん。あいつに言わせれば、スンナリ別れないことへの腹いせって言う動機があるんやと」
いい迷惑だとばかりに、安藤は肩を竦めてみせた。要するに、真犯人を挙げることで自分への嫌疑を晴らしたいらしい。
「けどまあ、ただ疑われるだけやったら、まだマシや。ホンマにうっとおしいんは、あいつの“呟き”やねん。ユカの奴、最近ずうっと俺の悪口を呟いとんのや。──俺がツイッター見とるの承知の上で、な」
「ああ、呟きってそう言う」
僕自身ツイッターやSNSの類は全くやっていないので、一瞬独り言が酷くなったのかと思ってしまった。
「あいつ、ちょっとでも嫌なことがあるとすぐ呟きよんねん。やれ『店員がつきだしを持って来えへん』とか、『どこそこの駅の駅員がふてこい』とか、『学食が混雑しててウザったい』とか──とにかく、しょーもないことばっかな。正直なとこ、別れよ思ったのもこれが原因や。誰かの悪口とか文句とか、見とる方まで嫌な気分になって来るやろ?」
確かに。些細なことでも腹が立つ──と言うのならただの短気で済むが、その感情をわざわざ衆目に晒そうと思う心理はわからない。そう言った文句は誰にも見せずに、大学ノートにでも勝手に認めていればいいのに。
「誰かにぶん殴られたのやって、そのせいに決まっとるわ。要は、アホなツイートへの復讐なんやないか──と、少なくとも俺は考えとる」
「と言うと、犯人に心当たりが?」
「まあ、二人ほどな。
一人はユカのバイト先の店長とかで、虻川って言うオッサンや。なんでも、悪口を呟かれとるのを知って激怒しとったらしい。そのツイートは俺も見たけど、明らかに盛って書いとる風やったから、余計腹立ったやろうなぁ。
んで、もう一人は俺らと同じ映像学科の峰尾って奴で、こいつも同じくネガキャンの被害者や。峰尾の場合は実習の班がユカと一緒なんやが、そこでヘマやらかす度にグチグチ呟かれとってな。元々ユカとは反りが合わんようやったのが、さらに険悪になったらしいわ」
つまり、目下のところ容疑者は二人──いや、安藤も含めるとすれば三人、と言うわけか。この時点では誰が怪しいとも言えないし、話を聞く限り被害者は敵を作りやすいタイプだったようだから、本当はまだ他にもいるのかも知れない。
「にしても、幾ら不愉快なツイートをされたからって、人の頭を鈍器で殴ったりするかな。傷害事件を起こすほどの動機たり得るとは思えないけど……」
「そうとも限らねえさ」と、緋村が拾う。「自尊心の強い人間たったら、本気で殺意を抱くかも知れねえだろ? それに、どんなことが犯罪の動機になるかなんて、正味わかったモンじゃねえからな」
灰を落とした彼は、不意に煙草の先を安藤に向け、
「それはともかく、そもそも事件はいつどこで起きたんだ? 三日前っつうと二十四日──満月の夜か」
「ああ、全部順番に話すよ。──けど、その前に、取り敢えず注文を済ませとこうか」
そんなわけで店員を呼び、それぞれ酒とツマミをオーダーする。
「ナマチュウ一つ」と言う安藤に続いて、「あ、じゃあ同じのをもう一つ」と、僕。あまり酒を呑むと言う習慣がない為、人に合わせることにした。
最後に、緋村が無駄に渋い低音で、
「カシオレ一つ」
意外と可愛らしい物を選んだ。