序文
それは、十月も残すところ一週間ほどとなった、ある夜のこと。ポッカリと浮かんだ満月が照らす道を、彼女は歩いていた。バイト先のファミレスからの帰りで、時刻は二十二時を少し過ぎたところだ。
彼女から見て右手にはドブ川が、左手には雑居ビルの裏の壁が黒く聳えるこの通りは、夜ともなると全く人気がなくなる。加えて街灯がなく、その分月明かりが煌々と降り注ぎ、ビルの裏口のドアノブや、黒く汚れた室外機、林立する不燃ゴミなどを、ボウッと浮かび上がらせていた。
当然、若い女性が一人で歩くには向かないのだが、F駅までの近道でもある為、早く帰りたい時にはここを使うようにしていたのだとか。
──そして、その日も、彼女は帰路を急いでいた。と言って、大した用事があったわけではない。ただ、好きなアイドルグループの出演するバラエティ番組を観たかっただけだ。
彼女はスマートフォンの画面に目を落としつつ、足早に靴音を鳴らす。秋の虫の声や表通りの喧騒、遠くで鳴る踏切の音と共に、一つの楽曲を奏でているかのようだ。
そして、繁華な駅前の灯りが数十メートルほど先に見えて来た時、近くの鉄橋を軋ませて、近鉄長野線の臙脂色の車輌が、駅へと滑り込んで行くのが見えた。彼女が慌ててスマートフォンの画面を確認すると、時刻は二十二時八分だった。
──あかん、あれを逃したら間に合わんくなる!
焦った彼女は、駅までの道を駆け出そうとした──その時。
突然、背中に鈍い衝撃を受け、大きくつんのめってしまった。
「えっ──⁉︎」
痛みに驚いて振り返ると、そこにいた人物は大慌てで踵を返して駆け出し、アッと言う間にその場から立ち去った。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。あっけに取られた彼女は、悲鳴すら上げられずに立ち尽くす。
彼女が辛うじてわかったのは、犯人は男であると言うことと、その右手に棍棒のような鈍器が握られていたことのみ──なのだとか。
僕と緋村がこの事件の調査を依頼されたのは、それから三日後のこと。依頼主は、殴られた女性の恋人で、僕たちの共通の友人だった。