"大舟"と狂人ケラ
天国へと続く階段を登る運命にあると諭される主人公のキリス。その階段は、大きく弧を描く螺旋階段であり、どこまでもどこまでも上へと続く。狼男の脅威を退けるために派遣された黄金の騎士率いる“行進”に加わり、地上の土を“方舟”へと運搬する“土運び”達と共に、ジャンクション“大舟”を目指す。
「土を運ぶのは辛いし、バランスを欠いて踏み外すのが怖い。それに、中毒者と鉢合わせるかもしれない。でも、全員が全員、真面目に運んでいる。それもこれも方舟に住みたいからさ。中毒者からすれば、どこにマナの所有者がいるか分かったものじゃないからジャンクションには乗り込みたくない。けど、奴らだって本当に粉が必要となればお構いなしさ。だから方舟を目指すんだ。方舟は中毒者を退治する方法がいっぱいある。たとえば、方舟の下層には煤払いがいっぱいいる」
バッタは、方舟に住む人々の習慣についても事細かに教えてくれた。
一行は“大舟”の上層、つまりジャンクションの入り口に着いた。やはり水晶の階段はジャンクションから分岐している。騎士を先頭とした行進の列は甲板で解散し、土運び達は思い思いの場所へと向かって行った。バッタとキアゲハは、帆を支える柱のような形をしたモニュメントに向かって歩き始めた。テントウは「マナのご縁があればまたお会いしましょう」とだけ言って去って行った。キリスは感謝の気持ちを伝えた。テントウは後姿で謝意を受け止め、振り返らずに片腕だけ上げて返事をした。キリスはバッタを追おうとした。
「キリス?」
天使が呼び止めた。天使は階段を登ろうとしていた。
「忘れたの? あなたは、階段を登らないといけないの」
天使は、キリスとバッタのやりとりを聞いていなかったのかもしれない。
「けれど、バッタを放ってはおけないよ」
「なりません」
「すぐに戻ってくるから、待っていて」
バッタの物を取り返すだけだから、すぐに済むだろうとキリスは思っていた。天使は力なく首を振った。
「あなたもキアゲハね」
柱のモニュメントに向かうバッタとキアゲハに追いついた。レンガの道の脇では、全身が汚れた男性がこっけいなダンスを踊っており、それを取り囲む数人がヘラヘラ笑っている。
「次は、中毒者に下半身を食われたまま対抗する騎士の真似だ、ポチ」
男性は足を大きく広げ、上半身だけで格闘するフリをする。
どっと笑いが起こる。
「どうしようもない奴にマナを奪われると、ああして弄ばれるだけさ。マナかどうかはもはや問題じゃなくなる。マナの拡散が威嚇になるから」
転げまわりながら見えない敵と格闘する男性に、何人かが蹴りをいれた。
「やめませんか?」
キリスは男性を囲っている青年達に言った。青年達は怪訝な様子で振り向いた。視線を落としてキリスに気が付き、一番体格のいい青年が怒鳴った。
「俺達は、こいつをどう取り扱ってもいいんだ! いつ捨ててもいいし、人にあげてもいいし、もちろん痛めつけてもいい! どうしてかって言うと、こいつは俺の物だからだ! やめろって言うのならそうだな……お前がこいつの持ち主になればいい。誰か一人のマナと交換だ。そうすれば代わりにこいつを渡してやるよ。こいつは受難者で、使い物にはならないけどな!」
キリスは言い返そうとするが、キアゲハがすごい勢いでキリスの服を引っ張り、レンガの道を走った。青年達と十分に距離を取った後、キアゲハが急に服を離したので、キリスはよろめいてバッタにぶつかった。
「非があるのはマナを打ち明けた彼よ。彼は、こうなることを知らなかったわけじゃない」
青年の一人によって投げられた粉袋を、男性は動物のような仕草で拾い、愛おしそうに懐にしまった。
「当の本人が受け入れたのよ」
キアゲハは、男性から目を背けながら言った。
マナを奪われると悲惨だ。自分のマナの所有者に節制が無ければ、永遠に慰み者にされるのだから。
モニュメントの前に、細身で長身の青年が立っていた。長い髪をいくつかに結い、等間隔に魔よけのようなリングをはめた不思議な雰囲気の人だ。
「ケラ!」
バッタが声をかけた。
「バッタ! やっぱり僕の方が早かったね。キアゲハちゃん、よくぞ無事で。お互いに中毒者に喰われず、再びこうして会えて良かったよ」
キアゲハは気難しい顔をして腕を組み、ケラの好意を冷たくあしらってやり過ごそうとした。ケラは見た目は中性的だが、声で男性だと分かった。土嚢は背負っていない。
「客人か。私がケラです、よろしく」
「はじめまして、僕はキリスと言います。本当はもう一人紹介したかったんだけれど、階段で待っているみたいなので……」
「そうなのですか、それは残念。ところでキリス君、一つ聞いてもいいですか? かつてノー様が言った言葉ですが、この世界で最も不幸な人間は誰なのでしょう。考えても考えても中々答えが出ないのです。やはり受難者だとあなたもお思いでしょうか?」
突然の哲学的な質問に戸惑った。階段で一番初めに出会った薄幸の女性が一番初めに思い浮かんだ。間違いなくあの女性は不幸だった。一方で、中毒者に対する天使の反応をも思い出す。
「うーん、ある意味中毒者は不幸かもしれません」
「被害者よりも加害者の方が不幸だと? それはとても興味深い観点です」
ケラは珍しい物を見るようにキリスを眺めた。キアゲハは腕を組んでイライラしている。
「最愛の人を失ってしまった人ね、もちろん。けれど、ケラ、あなたみたいに、その問題に心を悩ませ続けている人も不幸で可愛そうよ。だってずっと他人の不幸を比べているのでしょう? 気が変になりそうだわ。楽しい事がないのね」
「一ついいですか? すごく困っていて、不幸を感じている男がいたとしましょう。しかし、彼の最低限の望みが、とても傲慢で、普通に考えて受け付けられないものだったらどうでしょうか。たとえば、世の全ての物を手に入れたい、とかね。彼は達成困難な目標を持ち、厳しい現実と自分の能力の差を常に認識して、もがき苦しみ、ある意味で困っていますが、この男は共感や同情に値するでしょうか? もちろん値しません。なので、私に同情するのは精神の浪費なのです」
「あっそう。じゃあ、同情をやめるわ。ねえ、バッタ行きましょうよ」
キアゲハがバッタをつつくが、バッタはケラを見据えている。ケラはキリスに歩み寄った。びっくりするくらい近い。
「いつだって方舟はお祭り騒ぎ。彼らは何を祝っているのです? すぐ隣では、踏みにじられた人々が、今まさに貧困で苦しんでいるというのに」
ケラはふぅ、とため息をついて続けた。
「狂っているとは思いませんか? 傍らで苦しむ人々から目を背け、内側の問題だけに取り組むその姿勢。私達がそれに気付いていないとでも思っているのか、あるいは、気付いてもすぐに忘れるかと思っているんです。私達は受難者だから、虐げられる事に疑念を抱いたり、悩み続ける忍耐力がないと、そういう思い違いをしているのです」
ケラは再びため息をついて “大舟”の入り口の方を振り返り、弄ばれている男性を眺めた。
「あの受難者は先刻マナを奪われた。私達は同士を一人失った。彼が中毒者に身を落とすのも時間の問題でしょう。あなたはそれでも平気なのですか?」
キリスは、どう答えたらいいのか分からなかった。“彼は酔っているの“とキアゲハがキリスの耳元で呟いた。
「粉のやり過ぎだわ」
「私は粉に酔わない。自制心がある」
「だったら自分に酔っているのね。出来の悪い舟にずっといると、自分に酔い始めるのよ」
キアゲハはケラと面と向かわず、キリスの方に体を向けていたので、まるでキリスに対して怒っているみたいだった。
その時、甲板上でおぞましい叫び声が上がった。