"罪"
最終話です。
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石は、僕に記憶を見せ終わると砕け散って煤となった。アリスは、全てを見せ終えるまで耐えてくれた。僕はしばらく、星の引力に身を任せたままにした。
目をつむっていたが、周りが突然暗くなるのが分かった。おそらく雲の中だ。ノーとアリス、両者の戦いによって生み出された大量の蒸気なのだろう、湿り気を存分に含んでいる。そこにはまた、何者かの悪意を感じ取ることもできた。アリスを体感した僕は多くのマナを得、感覚が研ぎ澄まされていた。世界中の生き物たちの息づかいが聞こえるほどに。だからこそよく分かる、彼らが息を潜めている事もまた同時に。
穏やかにみえるのは表面だけ。
森にしろ海にしろ雲にしろ、その影に隠れた敏感な生き物たち。彼らは自らの気配を殺して警戒をゆるめない。王の座をめぐる覇権争いの予感。新たな王と新たな法の出現を察知し、いかなる変化をも見逃さないよう耳を澄ましている。力のあるもの同士は互いに牽制し合い、そうでないものは誰につくか、その相手を間違えないように、抜かりなく嗅覚を働かせる。
アリスの記憶が示す事実と、「かみてん」に記されていた内容、そしてこれまでの自分自身の体験が恐ろしく一致する。だとすると……。
カナリア。
僕の唯一の懸念だ。
だが果たして、そんなことが実際にあり得るだろうか? 悪い夢、真っ赤な嘘、間違った記憶であるに違いない。
いとしのカナリア。いつも癒しと安らぎを与えてくれる心の拠り所。早く君を抱きしめたい。この肌に君の温もりと柔らかさを感じたい。君の広く深い愛は分け隔てがなく、神秘的で美しい純白の髪は、見る者を浄化して高みに導いてくれるようだ。君は僕の意味、清貧にして高潔な一筋の光。一心に祈りを捧げ、僕の帰りを待つ君に早く会いたい。
「ケテル、僕に力を貸して」
僕は冠を召還した。ケテルは冠の名だ。エーテルが凝縮されたケテルは、命令しなくとも思い浮かべる通りの翼に変形した。
光が届きにくい黒雲の中、僕は土の道に降り立って翼を畳んだ。背の高い樹木のうち、花が咲き乱れて目立つ一本の木を前にした。りんごがひとつだけ実っている。久しくものを口にしていなかったと思い、その実をもいで食べた。苦い! かじったりんごの中身は腐り、炭のように真っ黒だった。驚いた僕はすぐに口から吐き出した。
道を外れた場所の白い姿に僕は気が動転した。枝が貧しい木の根元近くに、カナリアが倒れていたのだ。まさかここにいてはいけない。君はケテルの園にいるはずだ。
カナリアは一人でいたわけではなかった。カナリアの傍には長身で目鼻立ちが整った男、カッコーがいた。横たわって抵抗できないカナリアは、なすがままに蹂躙されていた。柔らかい傷口を抉るように唇が奪われた。体の外から重心をまさぐられ、蛇が体内に侵入する。
「自分には夢がある。世界中の人を笑顔にしたいんだ。笑顔になると救われるからね。それに、人を笑顔にできると自分も救われるんだ……もちろんカナリアちゃんの笑顔も見たい」
目を瞑ったまま黙っているカナリアにカッコーは言った。嘘だ! お前にはマナが無い。お前が口にするその世界とやらに、少なくとも僕達は含まれていない!
繰り返す運動の果て、カナリアに汚辱が注ぎ込まれた。絶頂に達した男は、薄ら笑いを横顔に浮かべ、清楚な美女をものにできた余韻に浸る。
“人の為と書いて偽りと読むんだ”
-殺せ-
心の中で声がした。
-人格を無視し、望まない関係を強要したこの男を殺せ-
汚れを知らないカナリアの、比べられない尊い価値を地に貶めた。純潔と貞操を踏みにじり、表層的な美の尺度で値踏みし、刹那の快楽と引き換えに消費したのだ。
カナリアが身じろぎながらカッコーに微笑み返した時、僕の頭に雷が落ちた。僕は骨だけを残して蒸発した。カッコーは逃げ出し、何もかも曝け出したカナリアが後に取り残された。
「……それは愛と呼ぶのです……」
打ち捨てられた無残な女が、目をつむったまま戯言を言っている。
裏切りだ! 君もずっと僕を騙していたのか!
負の感情に呼応して、粘り気のある泥と腐臭のする肉が僕のもとに群がり、欲望と憎しみが僕を増長する。僕を祭り上げ、腐った身体を進んで貢ぐ矮小な汚物が、体の中で淫らに溶け合い、うごめいているのが分かる。
-殺せ-
催した吐き気を抑えられず、おびただしい量のどす黒い血をびちゃびちゃとぶちまけた。僕の息がかかる場所を求めて、影でくすぶるだけの無知な羊がたかり、貪欲な亡者が大挙として押し寄せる。流血と腐敗を上回って体が拡大し続け、硬くなった首が分厚い黒雲を突き破ったが、膨張はなおも止まらない。
……原因は常に一つ。女が子を孕む原因もそうだ。あまりにも明らかな、その瞭然たる事実に今まで気が付かなかった自分……僕は一体なんなんだろう? 何のために階段を登ったんだろう……全ての根源となるその答えを知るためだけに登ったんだ。それも、君から教えてもらうために登ってきたんだよ?
……僕は一体、なんだったんだ? 君を信じ、慕い、崇拝に近い感情さえ抱いていた。あれは、僕の記憶だったはずだ。いや、ひょっとしたら違うのかもしれない……たくさんの記憶に触れ過ぎたせいか、もはや自分が誰なのか分からない。骨と化した虚ろな体を見てそう思った。はじめから何かがおかしいと、おぼろげにずっと感じていた。ここは嘘の世界で、本当の世界がきっと別にあるんだ。信じるに値しない世界は滅びる宿命にある……もう、何もかも終わりなんだ……
地殻が剥がれ、黒雲が僕をまとい始める。
自分が巨大化するにつれて小さなものが認識できなくなった。今まで見えていた雑多なものが取るに足らない差異に思えた途端、似たもの同士が統合し、区別がつかなくなったのだ。代わりに自分と同じ大きさのものが認識できるようになった。
首領が離反した後の残骸、半透明で銀鏡迷彩の精霊は、アリスが統合に失敗したせいで半身だ。むき出しになった声帯を震わせ、共振した者達の形を奪い去る。
“ぶおーーーーー!!”
舟の汽笛を思わせる重低音を放つは、同化をつかさどる形而上の存在。恒常不変のあり方を保つ力そのものであるところのこれは、真実性に触れることがその本来の機能であるような魂の部分によって初めて観想される。マナによって高められた識を持つ者に対し、階段を登り切った者だけが、これを思惟でとらえられるよう啓示できる。
“カナリアを守る”
かつての役目を果たそうと、形骸化した使命感に従う、それ自体には意味も価値も目的も持たない命令の集合体。自らが何であり、何をしているのか、その洞察を欠いた首のない全能者。地面にひれ伏し、許しを乞うようなその無為な形状にとどめを刺す。
“そうか、僕は精霊だったんだ”
同じ名前を適用する多くの物をひとまとめにして、その一組ごとにそれぞれ一つの実相を立てる働きにより成り立つ精霊は、その必然性から一つより多くあってはならない。同じものが、ある同一のものに対して同時に反対の判断をもつことは不可能だ。最上なるものが複数あるなんておかしな話、精霊は僕だけでいい。
精霊から噴き上げた血しぶきが欠けた月の形となる頃、僕は精霊のぶよぶよした皮と軟部組織を剥ぎ、筋とつながった腱を骨から引きちぎり、肉を乱暴に切り刻んだ。断片と化した塊を手際よく我が身に取り込んでいると、身を切る痛みが僕を襲った。
……なんだこの痛みは? 自分自身を傷つけたわけでもあるまいに……
痛みは僕を冷静にした。何も無いはずの空洞から液体が流れる。まさかまた泣いているのか僕は……だとしたら、それはなぜ?……力を手に入れた楽しさから?……信仰を裏切られた悔しさから?……体内を蝕まれる苦しさから? いや違う。黒く染まった手を見ながら、自分についた嘘を一様に調べる。復讐に燃え、衝動に身を委ねて貪れど、それだけいっそう虚しかったからだ。かつて最も蔑み、忌むべきと考えていた蛮行に暗い喜びを見つける自分を発見し、悲しかったからだ。
隠れて見えない辛さや苦しさを理解し、怒りや憎しみに滲む汚い欲望を受け止めてなお包み込み、不安を退けて相手の良心を信じることができる、そんな崇高な存在がいるものか。一切をひっくるめて許す事ができる、そんな崇高な存在が。
-温もりだけを信じるのです-
ふとカナリアの言葉が思い浮かぶ。
ああ、カナリア。僕は今でも君を愛しているのかもしれない……カナリア……君は本当に僕を騙し続けていたのだろうか……君は僕を騙しているわけではなかったのかもしれない。神聖が犯されている間、意識が無かったのではないか。自分が何をされたのか知らず、自分の体に起きた変化を知らなかったのではないだろうか。
君と一緒に階段を登ってきた事を思い出した。初めて出会った時の慈しみに満ちたあの眼差しを。初めて名前を呼んだ時に恥ずかしそうに桃色に染めていたあの頬を。初めて触れた時に濡れていたにも関わらず温かかったあの手を。
君は今も僕を信じて健気に待っている。信じていたがゆえに欺かれ、拭い去れない刻印によって傷物にされ、辱められ、その尊い価値が失墜させられたとも知らずに、それでも君は僕を信じてお腹の子とともに待っている。
父のいない可愛そうな子は、見放された不幸な運命などつゆ知らず、母が話しかける言葉に耳を傾け、希望に満ちた夢を見続けるだろう。なんて不憫なんだろう。なんて哀れなんだろう。
君はお腹の子を僕の子だと言った。少なくとも君はそう信じている。だったら僕も信じるべきではないか? 君は僕を必要としている。父のいない子とともに僕を必要としている……戻らなきゃならないんだ、僕を真の父だと信じて疑わない君の元に。守らなきゃならないんだ、君とお腹の子を。たしかに、お腹の子は僕の直接の子では無い。でも、神から授かった子なんだ!……子は僕が支えよう。僕が父になろう……。
カナリア……僕は君の元へ行く。僕が君の傍にいる。だからもう、処刑される恐怖も、身を隠しながら生活する不安も、謂れのない非難を受ける心配もしなくていい……僕も、君と共に生きていくから!君が無実だという事を僕は知っている。もし、君を罪人だと罵る者がいるのなら、僕は君と共に戦おう!
海も大地も世界樹も、呼び覚まされた死者も、水晶の階段も、ジャンクションも、蒸気も、何もかもが、重力場たる僕のもとに取り込まれてゆく。いまや世界中が凝縮し、あらゆる生命の記憶を手にいれた。かつて骸と化した僕は、みずみずしい肌と張りのある肉を手に入れた。ただ、全認知を元に、気概と情念を持ちつつ下すこととなった判断が、無意識に存在する何かによって阻まれ、学習された記憶通りの行動を帰結しない。つまり、意思に反して体が勝手に動いたのだ。僕の体がどこに行こうとしているのか、僕にも分からなかった。一度動き始めたら、止める事ができない。“自分”とは、意のままに動かし、かつ感じる事ができる領域に対する輪郭をいうとすれば、この大きな体は、すでに僕ではないのかもしれない。禁を破った肉体にマナは宿らない。欺瞞はマナの加護を失わせる。マナのない肉体は自分の体ではないのだ。
ゆっくりと、だが確実に、僕はどこかへと向かっていった。元々世界樹の根があった場所の綻びに、大きな頭を擦り付けはじめた。どうやら僕は、ここから出ようとしている。もしかしたら僕の体は、自らの消滅を望んでいるのかもしれない。たとえ一瞬であったとしても激しい憎しみに身を委ね、何もかもを壊したいと願い、一度でも言葉にしてしまったことを思い出した。もしかしたら、体が忠実にそれを実行するのを止めるために、少しでも遠くに行こうとしているのかもしれない。僕の一挙手一投足が、世界に悲劇と不幸をもたらすというのなら、その前に消えてしまいたかったのかもしれない……。
ただ一つ分かった事がある。この世界は嘘ではない。本当の世界が別にあるわけではない。しかも世界は、この世界たった一つだけなのだ。嘘や幻などでは決してない、紛れもなくたった一つの本当のこの世界。僕は、そのたった一つのこの世界の一部であり、それ以外の何者でもない。
僕はついに膜を裂いて外に出た。そして、とにかく進み続けた。ヒー、フー。痛みが波として襲ってくる。息が苦しい。懐かしい声が、乞い焦がれたカナリアだと分かった時、まぶしい光の中に取り出された。
グシュ。僕は何者かに抱きかかえられた。
「イエス様のお誕生だ!」
羊水でびしょぬれの僕は、体が冷える前に天使達に手早く拭き取られ、服を用意された。ぼんぼん付きの白いパーカーに黄色い長靴、そしてゴム手袋。
半壊して見る影が変わっているが、ここはケテルの園だ。僕はカナリアに産み落とされた。やるべき事がいくつもある。あんなに色んな事があった後なのに、頭の中は信じられないくらい判然とし、考えは明瞭だった。
「おお……なんて神々しい……」「我々の新たな主よ!」「おめでとうございますっ、おめでとうございますっ」
4本腕の天使に服を着させられた僕は、カナリアに優しく抱きしめられた。癒しと安らぎの香りがする。
「生まれてきてくれてありがとう、イエス。あなたを信じていました」
僕は今まで眠りながら、カナリアが話し聞かせてくれる物語に耳を傾けていた。そう、僕は名前が変わっただけ、他は何も変わらない。
「皆を救わなければならない」
最後までお読みいただいてありがとうございました!
「かみてん」はこれにて終了です。
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(次作の動力源になります)




