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かみてん  作者: チムチム・マイン
調停者の園
36/37

"火"

「おろさないと……蓄えが底をついちゃう。僕は全部自分でしなきゃない。誰の力も借りずにたった一人、自分の意思で生まれてきたから」


 月の界面から枝へと移動する赤い石。その実りがあまたの竜に横取りされる様子を見てノーが言った。一方のアリスは竜と交わり、次々と重なり合って結合を果たしている。


「アリストテレスがマナを蓄えて精霊になろうとしている。精霊になれば、その勢いのままにここをも奪ってしまう。あの時気付いていればこうはならなかった。注意を怠ってしまったんだ……僕がもっと強かったら……」


 いきなりノーが手首を押さえて痛がり出し、手首には傷が浮かび上がる。傷は次第に深く広がり、羊水が血に染まる。その途端、界面の複雑な揺らぎが大小様々な無数の波紋に分離したかと思うと、それぞれの中心に収束し、逆行した赤い石が界面を浸透してノーに向かってきた。それはあたかも映像を逆再生にした光景で、時間が巻き戻っているように見えた。あるいは、四方から石を投げつけられているようにも。


「痛い!実がぶつかる痛みじゃない……だったら痛いのはなぜ?……そうか、手首に傷があるからだ……それはなぜ?……釘で刺されたからだ……それはなぜ?……言われも無い罪をかぶったからだ……それはなぜ?……マナを広めようとしたからだ……それはなぜ?……」


 石がノーにぶつかるたびにコン、コン、という音がこだまし、石は結晶化する以前の状態となる。手首の生々しい傷を中心とした羊水の渦が光沢を呈し始め、そして、金属が出現した。胎児からすると大き過ぎる金属の杭が。僕は慌てて杭を引き抜いた。未完成ゆえに不完全な杭は重さを伴わず、引き抜くこと自体は簡単だった。


「傷よ、癒えるんだ」


 僕がマナを唱えると傷は治癒し、杭は消失した。


「邪魔しちゃいけない。傷の治癒は、還元を終えて、連想と忘却が動的平衡に至ってからでも遅くない」


 ノーが不機嫌そうな顔をしながら不満を漏らす。


「頭が締め付けられるように痛い!……それはなぜ?……同一の問題に頭を悩ませているからだ!……それはなぜ?……その答えこそが自分にとって大切だからだ!……それはなぜ?……」


 再びノーが自問自答を始めると、無数の赤い石が、渦巻く羊水の流れに抗えずに巻き込まれていく。羊水の体積が増し、見えなくなるほど遠くまで月の界面が押し広げられる。あぶくの中から岩が現れ、その表面にはコケが生え揃い、土の地面からは背の低い草が吹き出す。土・草・花・岩・丘・空が、急激に成長しようと相互に位置を探し求め、押しつ押されつ形を変える。組み合わさったり解体したりするのが一段落し、風景が落ち着きを取り戻した時、そこは広々とした草原だった。遠くにはかろうじて螺旋階段が見え、そしてまた別の方向には世界樹クロスリズムツリーの根の一部らしきものが見られる。地表のとある場所だろう。ワープだなどと呼んでみたところで言い足りない。計り知れないエネルギーの規模、そのダイナミックさは、いうなれば天地の創生、世界創造と呼んだ方がふさわしい。


 僕はノーの小さな体を胸に抱いた。


「ああっ!! あたしを助けようとしてくれたお方! そう、あなた! あなたを探していたの。だって、煙のように消えてしまうんだもん!」


 空の声に目を向けると、不服そうな竜にまたがる真っ赤な髪の少女。


「原則的に、異形は人間に非協力的なんだ。アリストテレスが異形の扱いに慣れていない今がチャンスだよヨセフ」


 アリスは自身のマナを知っている胎児を強く恐れ、篭絡ろうらくできそうだと感じた僕に目をつける。


「あなたはヨセフっていうのね!……あなたを見ていると分かる。あなたはとっても誠実で、そのうえ律儀で使命感が強い。きっと色んな事に利用されて損をしているわ! “ヨセフ!” あなたのやりたい事が否認されたり、望んでもいない何かに縛られたなら、あたし、どこへだってあなたを迎えに行く! あなたの力になりたい! “ヨセフ!” 感情に従って欲求に素直になるのよ!」


 アリスの注意がそれた隙にドランカンが暴れだした。ドランカンは口から火を吐き、渦となった炎が僕達を襲った。どうにか直撃をまぬがれたが、渦は土をえぐって巻き上げ、黒い煙とあいまって視界を悪くする。ドランカンは緩慢だったが、執拗に僕達を捉えようとした。燃えるものは片っ端から焼き尽くしていく。草原は荒野となり、火の渦がえぐった地面には、爪跡のような傷が残された。


「蛇は地を這いずり回らなきゃない!」


 ノーがそう言うと、ドランカンの翼がもげた。竜の首にしがみつくアリスは、竜をうまくコントロールして受身をとらせた。翼を失ってもなお力をもてあまし、動きたくてしょうがないといったようにやみくもに暴れる竜は、アリスによって操作され、こちらに向かって這いずってきた。アリスは竜を乗りこなし始めている。僕は、ノーを抱えながら逃げ続けるのは危険だと感じた。


「傷よ治れ! 痛みよ、飛んでいけ!」


 頭周りの流血が止まり、傷口が塞がるにつれてノーの表情が和らいだ。


 ドランカンや荒野などの一切のものが液体のように混ざり合ったかと思うと、陽炎かげろうのようなもや状の影を跡に残すだけで、溶けるように消えてしまった。温かい羊水に満たされると同時に体が浮力を、月にかえってきたのだと分かった。


 溶質が豊富になったからか、月の中で実り育つ赤い石の成長が早い気がする。滲んだ血は、新たな種結晶の核となる。


「僕、この赤い石を知っている。重心だよね。人々の胸の内にある物じゃないの?」


「ちがう、胸の内にあるとは限らない。“痛み”という名の、実在を証明する感覚が宿る場所にこそ重心は実るんだ。“痛い”という事は、そこに今、存在する証拠だから」


 僕は半分くらいしか理解できなかった。


「つまり、人々の胸の中にある事もあれば、僕達の目の前にある事もある、という事?」


「ちょっと違う……痛む場所が真実の今なんだ……いくら言葉を尽くしてみても、どうせ分かりはしないけど」


 その時、巨大生物の足音のような、ズシンという低音が衝動を伴って立て続けに聞こえてきた。地表の火山が連続して噴火したようだ。


「執念深くてやっかい極まりない。かつてアリストテレスの影響によって活性化した物が、ここにきて有機的な活動を再開している」


 海底から姿を現した6つの活火山は円環状にならび、まるで儀式を思わせるように等間隔に配されている。噴火口から流れる溶岩は海の水を干上がらせ、はつらつと躍動するその姿は蛇を思わせた。火柱によって打ち上げられた地表の異形達がアリスの元へと集い、爆発的な勢いでアリスの元にマナが集まる。


 地表に目を凝らすと、思い思いの形態となった異形があふれんばかりにみとめられる。翼を持つ生物は、はじけるように飛翔し、翼を持たない生物も、みなぎる生命力のままに、生まれたての大地を我が物顔で疾走し、競い合うようにして噴火口に向かっている。翼を持たない生物は、翼を持つ生物を求め、意思を同じくする者同士が、行きずりに共有を果たす。


「天使は呼ばないの? 力になってくれるんじゃないの?」


「天使は呼ばない……それはなぜ?……濾過ろかされかねないからだ……それはなぜ?……天使は騙されやすいからだ」


 アリスはもはや少女ではない。アリスを中心として集結した多様な外見の異形の中には、階段を構成していた者も含んでいた。園にいた天使の何人かがアリスに寝返り、自ら進んで己の肉体を差し出している。力がもっと大きな体を求めて万物を吸収し、間に合わせの骨格が構成され、一つしかない目が特徴的な、どことなくアリスに似た風貌の巨人が組み上がった。ねじれた山羊やぎの角・蝙蝠の翼・蝙蝠の尻尾を有している。巨人は発光する指先を月へと近づけた。


「他者の痛みを自らの感覚と同期し、その原因を追いかける過程で、過去のある場面を再現する。でもあんたに一つだけ教えておいてあげるわ。過去を省みるだけで、何かが変わるわけじゃない。実際にやってみなくちゃ分からない事が、たっくさんあるの」


「世の中、そう簡単に自分の思い通りにいくと思わない方がいい」


「あたしは何をやってもうまくいくの! そういう星の元に生まれたから♪」


 僕はたまりかねずアリスに叫んだ。


「お前は一体何がしたいんだい?」


「一から十まであたしの気持ちを知ってるくせに、なんていぢわるなの!?」


「そのためだけに、どうしてこんな事をするの?」


「できちゃったから?」


 炎が地面を這い広がるのを防ぐために、ノーは雨を降らした。


「理性が無ければ、それはただの獣。燃え広がる前に、火は消さなきゃない」


「あたし達は火を通じて、目的のために道具を利用する知性を手に入れた。恐怖を克服し、逆にそれを手なづけることで動物から人間に進化したの。だから、あたし達を人間たらしめたのは、火なのよ」


「原初の世界では、水だけが唯一自分を正確に映す鏡だったんだ。水に映る自分の姿を自覚して初めて、客観的に状況を省みる理性が身についた。人間が人間として生まれた瞬間だよ。単純な本能のままに暴走するなんてそれはただの獣だ」


「人間が人間として生まれたなんて嘘よ! あたし達は、人間である以前に動物なんだから!」


 見苦しかった巨人の容姿が徐々に整い、妖艶で官能的な姿になった。


「それがお前の望む姿なのか?」


「うん♪ ありのままの姿を見て? 目を背けたりしないで? 醜くなんかないんだから」


「彼女は精霊の一歩手前だ。もはや猶予がない、もっとさかのぼらないと」


 界面の波紋が一点に収束し始めた。


「痛い!……それはなぜ?……わき腹に傷があるからだ!……それはなぜ?……刃物で深く刺されたからだ!……それはなぜ?……強く恨まれたからだ!……それはなぜ?……信頼されたのをいい事に騙したからだ!……それはなぜ?……」


 自問自答による世界創生が始まり、時間が巻き戻り始める。一直線にノーの元へと飛んでくる赤い石がぶつかると、木槌で机を叩くような音が響くと同時に固体は溶質となる。ノーの強力な想像力によって、イメージが実体化し始める。月の内部は創造と破壊が劇的に繰り返され、見覚えのある大理石が現れた。ここは瓦解する以前の塔だ。


「君は、相手のマナを禁止に使う珍しいタイプだ。自分にとって都合のいい事を他者に“させる”ためにマナを使う人は数多くいるけれど、何かを“させない”ためにマナを使う人は滅多にいない。そんな君の働きが肝心かもしれない……援助してくれない?」


「いいよ。僕にできることなら」


「君の協力を乞うほどに追い詰められている……僕はなんて無力なんだろう」


 面相が悪い男が三人、真っ赤な髪の少女を取り囲んでいる。少女は僕が見知っているアリスよりもさらにあどけなかったため、過去のアリスだと分かった。


「ちょっとやめてよ! 誰か助けて!!」


「ちょっとやめてよ?」「はあ?」「お前に可愛らしく助けを呼ぶ資格なんざねーんだよ! 泣きたいのはこっちだっつーの!」


「彼女が襲われている場面だ。だが、呵責による恐怖からか、三人は暴行を半端なままで終えてしまうがために、結果、彼女は軽症で済む。ここで、彼らの襲撃がきちんと成功していれば、今の彼女はない。君はこの三人に思ったことを言いさえすればいい……つまり“彼女を襲うな”とね。激昂した彼らは従命を取らないだろう。マナに背いた彼らは精霊による変形を受け、“彼女を襲わずにはいられない体”となる……火の効かない竜と化した三人ならば彼女を襲うのもたやすい。そうなれば万事解決だ。三人のマナは“ヒースクリフ”“セテムブリーニ”“スメルジャコフ”」


「“ヒースクリフ”“セテムブリーニ”“スメルジャコフ”、彼女を襲うな」


 悪漢が少女をまさに刃物で刺そうとしたため、ノーがマナを言い終わると同時に僕は叫んだ。ノーに頼まれなくても僕はそうしただろう、ノーの説明はよく分からなかったが。


 三人は驚いたようにこちらを見、そして、おとなしくなった。乱暴を働いていた手を止め、そしていぶかしげに僕達を観察している。長い時間が経った。三人はチラと目配せを交わした後、何も言わずに引き返していった。


「……あなたのお名前は?」


 僕に助けてもらったと思い違いをしたアリスが顔を赤くしながら尋ねてきたがそれどころではなくなった。ノーが吐血したのだ。


「誤算だ……君の言うことを三人が素直に聞き入れるとは思わなかった……僕はなんて運が悪いんだろう」


 腹部の損傷が激しいのか、白いパーカーが真っ赤に染まっている。


「傷よ治れ! 痛みよ去れ!」


 出血がおさまって空間がゆらぐ。苦痛を忘却したノーの周囲がその構成を変え始め、羊水の感覚が戻ってくる。


「ああっ! あたしの運命のお方!」


 アリスの声が過去に押しやられる。密度が異なる流体間の光の屈折により、遠くの景色がゆらいで見えるあの現象だけを残し、若きアリスは一瞬の濃淡となって消え去った。その代わり、発光する指先で月と接触している巨人が眼前に現れる。


「赤いマナはほとんどあたしの物♪ もう逃げ場が無いわね。安全なのは、ここだけってわけ」


 世界樹クロスリズムツリーが機能を果たさず、界面を通り抜けた赤い石は巨人に集まる。


「あんたは原因を取り除こうとしている。けど、あんたがどんだけ過去に干渉しようと、事実は変わらない。壊れた卵は元には戻せないのよ」


「そんなことはない!」


 ノーは月の外に水を召還したため、視界が飽和した。ノーが拒絶すると、水は撃力によって無数のくさびとなって巨人を拘束した。


「おろさなきゃない」


 ノーが再び拒絶すると、天地を結ぶ無数のくさびは環状に開いて地面を打ちつけた。開いた傘によって巨人は体幹と左足を残して四散し、巨人は地面に叩きつけられてはりつけにされた。


「召喚された火山によって干上がってしまったけれど、あそこは最初海だった。君に、元に戻して欲しいんだ。僕の傷を治してくれたのとおなじように」


 地面にはりつけにされた巨人を挟むように質量の壁が現れた。召還された二つの海は、切れ味のいい刃物で切られたように見えた。切り傷の中心の巨人は、海の底に閉じ込められる運命を前にした。海は僕のマナを待っている。


「傷よ……癒えよ」


 なんて怯えた目をしているんだ……。


 海は一つになったが、ギロチンが執行される直前に、巨人は磔から逃れ、その優れた脚力と飛翔力によって海から飛び出した。アリスと目が合った僕に一瞬の躊躇ちゅうちょがなければ、閉じ込められていただろうに。


「“太陽!” 焼いちゃって!」


 アリスはすでに自信を取り戻し、傘に散らされた体の断片は集合を遂げている。巨大な翼でゆうに空をかける巨人が発したマナにより、想像を絶する爆発が、月全部を取り込んだ。


 熱い! 月全体がぐらぐらと揺れる! 恐い! 僕は頭を覆って身を丸くした。しかし、ノーは平然としている。


「ごめんね、苦しいのは一瞬だけだから。ごめんね、すぐに楽になるから……識融合の爆発が僕を傷つけることはない……それはなぜ?……もともとここは存在せず、僕は何者でもないから」


 爆炎がおさまって視界が晴れた。月は熱によく耐えた。


「赤いマナはぜーんぶあたしの物♪」


 巨人は月の表面を指でなぞり、付着した赤い石を舌で舐めとった。


「あたし、精霊になってみたかったの。意外と簡単になれるものなのね。やっぱりやってみないと分からないわ♪」


「……」


「これであんたは外に出るしかなくなった」


「……僕は望まれていない。僕が外に出ることで不幸になる人がいるんだ……だから外に出られない」


「そんな事はないわ。あんたがいても誰も不幸にはならない。あんたはいてもいい。あんたは頭が良過ぎるから勘違いも激しくなるのよ。ほんの少しのマナだけで全貌が分かった気になってる」


「僕だって外に関心がないわけじゃない。でも無理なんだ……僕は呪われているから、きっと体が耐えられない」


「そんな事、やってみないと分からないじゃない?」


「外に出てみたいと……どれほどこの身を恨んだ事か」


 界面が臨界に達し、月に亀裂が入った。


------


 ノーの出血が止まらない……いや、この血は僕か。どうしてか分からないけれど、そこに僕がいる。いや、君か。僕はノーだったんだ……記憶だけが僕が誰であるのかを規定する。本能が避けられない最期を悟り、あの頃を次々と思い出していたんだ。他者を信じ、希望を胸に抱きながら色々な物語に耳を傾けていたあの頃を。


 支えを失った月の外殻が僕に迫ってくる。深海の気泡が水圧で押し潰れるように、世界が凝縮して何もかもが一つになった。静けさと騒がしさ、冷たさと温かさ、渇きと潤い……それぞれが異なるものだと、正反対だと思い込んでいたそれらはみんな、結局同じものだったんだ。


-超常の存在-


 知っている気になっていただけだった。今になってようやく分かった。僕らはいつも一緒だったんだ。僕は栄養を受け取った。僕に潤いを与えてくれた。僕を生んでくれた。僕が楽しみにしていた物語に含まれる数々のマナが、僕の夢であり、僕の世界であり、僕の全てだった。僕をはぐくんでくれる、外界との唯一のチャネル……僕を傷つけようとしていたわけじゃなく、僕を苦しみから遠ざけようとしてくれたんだね……今になってようやく分かったよ。


 それは大きな音を伴ってやってきた。自分の骨が折れる音。これが本当の“痛み”……いつも物語の中で語られる外の世界を、ほんの少しだけでもいいから触れてみたいと、心の底で願っていたのかもしれない……それがようやく叶った。わずかな間だったかもしれないけれど、僕はたしかにこの世に存在できた……これが僕の望みだったんだ……。


------


 はっくしょん!


 僕は空中で目が覚めた。少女姿のアリスが僕の頬を手で挟んでいる。頬には涙が乾いた跡がある。


「アリス、お前の勝ちなんだね」


ふちを支えていないと水圧で世界がしぼむ、なんてノーの思い込み。ほら。やってみなかったら、いつまでも分からなかったのよ? ノーなんてのは幻想だった。初めからいなかった」


 彼の存在を想定しなくても、世界は何一つ変わることなくまわるとでも言いたいのだろうか。ノーはいなかった……いや違う。僕はノーに拒絶されたんだ……僕がノーを理解できなかったから。


 僕はノーの最後の力によって、月の外に放り出されていた。僕は月のあった場所を見た。祈り手の形をした世界樹クロスリズムツリーの枝が、ノーの唯一の居場所をつぶしている。その造形はまるで、現実を憂いた母親が、苦難の運命から我が子を救うために首を絞めているように見えた。


 斥力を放つノーに代わって影響を大きくした万有の引力によって、僕達はお互いに引かれ合い、そしてゆっくりと地面に落下し始めた。


「たとえばきれいな小鳥が寿命を迎えて枝から落ちても、自分自身をかわいそうだとは絶対思わない。自然は自らを哀れんだりしないの。最後にチューできてよかった……」


 そう言い残すと、アリスは灰となって粉々に散った。灰となって散ってもなお “やってみないと分からないんだから”と言っているのが聞こえるようだ。そこに後悔なんてあるはずがない。誰がお前をかわいそうだなどと思うだろう。誰が不幸だなどと思うだろう。


「アリス? “アリストテレス”戻って来て!」


 アリスは帰ってこない。神罰を恐れず、マナの掟を破って僕に触れたためだ。アリスが砕け散った原因は僕の命令だ。“僕に触れるな”という禁を犯したアリスは、竜を通り越して灰になってしまった。どこまでも自分勝手な奴だ。


「色々なことが一度に起こり過ぎて、僕はひどく弱っている! 今がチャンスだぞ! 今こそ勝手に戻ってきて、僕を思い通りにすればいいじゃないか!」


 今ほどお前を恋しいと思ったことはない。どうしてだろう。あんなにも嫌いだったのに、どうして僕は……。


 灰となって散った後には、赤い石が残された。僕は袖で目を拭い、そっと石に触れてみた。

ここまでお読みくださってありがとうございます。

次話が最終話です。

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