"母"
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「アンナ?」
クシュン。リジーに名を呼ばれた。つい水竜の上でウトウトしてしまったわ。
「しっかりしてよ、もう」
油断の多い私にリジーが腹を立てた。でも、眠たくもなるわよ、ここのところずっと泳ぎっぱなしで、しばらく寝られていないのだもの。
「皆だって疲れているのよ? あなただけじゃないわ。それより荷物は大丈夫よね!?」
ハッとした私は抱鞄の中身を点検し、楼閣の長に献上する荷物を確認した。水竜の幼生、カルコス鏡、アモルファス数価表、女王水のレプリカリオリ、水銀柱、不動態感作計、よかった全部ある。
「大丈夫! ごめん!」
リジーはけだるそうに首をふり、やれやれとでも言いたげな素振りだ。
私達は、爺やのご子息の奇病を治療する手掛かりを求めてこの地域にやってきた。隊長をはじめ仲間はみんな、長居すると変形するこの地域特有の現象と関連があると睨んでいる。ただ、兄様はこの見解に対して違う見方をしていて、兄様言わく、“彼らの言葉には特別な力が宿っている”との事。兄様は“土を運べ”と言われて土を運ばずにいた人が、土を運べない体になる瞬間を目撃したのだ。私はこの現象にすごく興味があったので、周りの反対を押し切って今回の任には自ら志願した。
それに、この地域には精霊や赤い石が伝説として伝わっている。おそらくガセなのだろうとは思うけれど、単なる言葉の一致とみなすには奇妙な偶然にも思える。なんにしても、壁よりも根側の発達途上域で苦行に励む僧侶達の生態は、もともと調査の必要があったのよ。
そうこうする間に、私達は巨大な螺旋階段を見つけた。空中に固定された青い水晶がおりなす壮大な構造物。聞かされていた場所におおむね一致する。私達が水竜の羽休めをさせていると、突然魔女の攻撃を受け、怯えた水竜が私達をおいたまま逃げてしまった。魔女は黒ずくめの手下を引き連れていた。僧侶達は素直で従順だと聞いていたが、まるで様相が違う。懐疑的で攻撃的な彼女達とは、交渉どころか話し合いの機会を持つことすらままならなかった。隊長がどうにか融和をはかり、“大舟”に案内された私達は、水竜を逃がしてしまった償いの意味と友好の証として、赤い粉を受け取った。言われた通りに吸ってみると、この世のものとは思えない快楽が得られた。忘れられない幸福が身を浸す。とんでもないお宝、すんごい収穫よ! 都に持ち帰れば兄様達も目から鱗だわ! 製法を聞き出せなかったのが大きな失点、なんとしても調べ出さなきゃね。
赤い頭巾の魔女が、楼閣の長の直属の部下であると分かったため、献上する品々を手渡し、そして、都に帰るために騎乗できる生物を用意してもらう事になっていた。しかし、火竜の到着を待っている間に、赤い粉をめぐって仲間が問題を起こし、その約束は反故にされた。私達には労働が課せられ、都からの救援を待つ以外に何もできなくなった。
赤い粉の誘惑に耐え切れず、仲間が一人、そしてまた一人と事件を起こし、ついにリジーや隊長までもが連れ去られてしまった。私は、ジャンクションにたむろする人達を観察する以外にする事がなくなった。用事もないのに集まったかと思えば、踊り回ってお祭り騒ぎ。はしゃぎ倒す以外には賭け事にしか興味が無い。かと思えば、土貸しの命令通りに土を運ぶ事に必死になる。主体性の無い奴隷のように無意義な労働に人生の大半を費やしている。そんな彼らに欠かせない娯楽、それが赤い粉だ。私は、この粉の危険性に気が付き始めていた。私も、あの閃光のような快楽を求めて何度か試してしまったが、この粉は人格を急速に退廃させる。私にも、幻想体験に類似した刺激をきっかけに、突然、全能感と喪失感がフラッシュバックするようになった。欠乏の無い感覚を一度味わってしまうと、生体を構成する最小単位の階層から、完全の観念への同化を渇望する。抗えない根源的な欲望の記憶により、認識は全て抑圧と結びつき、粉を吸っていないと鬱屈とした不快がつきまとう。何に代えても粉を手に入れる事だけが生きる目的となり、それ以外の事には価値が見出せなくなる。
「ちょっとずつちょっとずつ、そう、気が付かないくらいちょっとずつ、おかしくなるの。そして、もう、取り返しがつかないくらいどうしようもない」
私は誰彼かまわず泣きついた。赤い粉への依存を断つために、途方もない時間をかけて大きな苦痛を乗り越えた。私はその過程で、今の夫と知り合って恋に落ちた。私が寛解するまで寄り添ってくれた彼と、生涯を共にしようと永遠の契りを交わした。
ただ、幸せは長くは続かなかった。いくら待てども都から迎えが来る様子はなく、指揮を取る兄様に何かあったのかもしれないと、私の不安は、膨らむお腹とともに大きくなった。
美しい故郷を見せたいと言うと、夫はなぜか猛反対する。自分はこの地域でしか暮らせないという思い込みからだろうか、そして、私が都で暮らしたいと言い出すのではないかという恐怖からだろうか。それに、私が尊敬していた隊長の話をすると夫は露骨に不機嫌になる。そんな関係じゃないのに……なんて嫉妬深くて器が小さいのかしら。みみっちい独占欲と、自信のなさの現れよ。つまらない事に一々(いちいち)拗ねて見せる夫がちっぽけな人物に思えた。そんな私の気持ちを見透かしてか、夫がほとんど帰ってこなくなった。魔女にたぶらかされていると思うと腹が立った。たまに帰ってきたと思っても、まるで精気を吸われた廃人のように目が空ろ、私を見向きもしてくれない。
私はいつもの髭男に髪束を手渡し、代わりに粉袋を受け取った。異国の出身だからか色が珍しいらしく、私の髪はとかく交換に役立った。私にも気晴らしが必要なのよ……奔放な水竜が戻ってくるのを期待するのは絶望的なので、いつかは心を決めて階段を下りなくちゃないという現実から目を背けて粉をやる。水竜が戻って来たらリジー達を助けて都に帰ろう、などという荒唐無稽な計画を妄想しては慰めとしていた。
粉をやりながら“さっきこんな人と会ったのよ”と、お腹の子どもに話しかける。謎めいた隣人の話、遠い異国の友人の話、夫から聞いた哀れな土運びの話……お腹の子が物語に耳を傾けているのが分かる。この地域に伝わる神話を話し聞かせている時、ふいに“そうだ、この子の名前は、ここの伝承に出てくる神様と同じ名前にしよう”と思った。私をここから連れ出してくれる、そんな希望を込めて。
私は次の粉袋に手を伸ばす。この子のためにも赤い粉はやめなくちゃ……分かっているのよ、こんなくだらない事をいつまでも続けているわけにはいかないって事くらい。そんな事は、心の中で、自分が一番、痛いほどよく分かっている。でも、私を、そこらへんの欲に弱い奴らと一緒にしないでよね。意志の強い私なら、その気になればいつだってやめる事ができるのよ、きっぱりとね。現に一度やめられたんだから。ふふん。そう、これが最後……
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「ハックション!」
赤い石を両手で抱えたノーが吹き飛ばされた。そこには困惑した自分の顔が映っていた。ノーを通して自分を覗くとは、鏡を前にしているような気分だ。いや、自分とはなんだったか。私はキリスとしてカナリアと出会い、階段を登ってきたんだ……そしてついに月へと到達し、赤い石に触れて他人の半生を実体験したんだった……私は……いや、僕はアンナではない。アンナは階段を登り始めてから一番初めに出会った薄幸の女性だ。
「赤い石には直接触れちゃいけない。浸透圧は石の方が高いんだから」
直接触れると意識が吸い込まれてしまうらしい。たしかにノーはゴム手袋をしている。
僕は月の内部に浮遊する、数々の赤い石を一様に眺めた。これが全て他者の人生なのだろうか……そう考えると、経験を共有してみたいという好奇心が湧き上がった。つい今しがた、曖昧となった自己の輪郭を失いかけたにも関わらず。
袖で手を守りながら赤い石に次々と触れてみた。物語は必ずしもハッピーとは限らなかった。でも、人々の事をもっと深く知りたかった僕は、わずかな意識を月に残しつつ、かたっぱしから覗き始めた。
布越しに触れると、当人中心の視座ではなく、自分を上空から見下ろすような距離感を保って俯瞰できると分かった。一区切り終えると月に帰ってキリスとしての意識と感覚を取り戻し、再び他人の過去へと没入するという事を繰り返した。ある時はマナを失った竜、ある時は花売り、ある時は緩衝者……他にも、回収者の妻、速記者、戦争孤児、しがない吟遊詩人、草の人、大道芸人の弟子、ストリートファイターなどなど、多種多様な生活を垣間見た。




