"樹"
無数の枝葉によって天が包まれている。天使の照射によって共有された映像の場所だ。葉は青い光を発し、空の色合いを作り出している。アリスの爆撃を受け、枝の多くは炭となって光が弱かったが、それでもなお美しさは保たれている。枝の付け根を目で追うと、枝同士が統合してより大きな枝になる。一見、その太さゆえに幹のように思えても、それもまたその先で、より大きな枝に統合される。
複数あると思えた木は全て、上下対称の一本の樹 -世界樹- の枝である。たくさんあるように見えるとしたら、それは見え方の問題であり、元来一つである物が持つ一つの側面に過ぎない。このような誤解は、僕達に“完全”の概念が備わっているから引き起こされるのであり、完璧な造形に接した際に生じる一種の神秘体験である。なぜなら、真に優れた物の全体と部分の間には、その本質と構造において驚くほどの類似を見るため、部分には常に全体が意識され、全体の様子が部分に現れるからだ。
登るにつれて空間が澄んできた。いや、目がよくなったのかもしれない。今までは曇っていて、よく見ることのできなかった物がはっきり見え始めた。たとえば地表とか。八方に望む山・川・海・谷・都市・砂漠……。僕は初めて世界全体を捉えた。世界は球体だった。僕は球体の内部にいて、様々な物が球面の内側に裏打ちしている。僕は階段を登る事によって世界の中心に向かっていたのか。
階段の先を見ると、赤紫色の物体へと続いている。祈りの手のように組まれた枝によって、庇護されている“月”。階段のてっぺんであり、また同時に世界の中心でもある“月”。月は原初の海であり、生命の源であり、全ての原因なのだと、森の中でカッコーが言っていた気がする。
この“月”と呼ばれる入れ物が、いや、その中にいる何者かが(おそらくノーだろう)、“月”に近づく者を拒絶しているのが分かる。目に見えそうなほどの圧倒的拒否の思念、接近をはばもうとする凄まじい圧力に、ふと油断すれば膝が折れ、誤って階段を踏み外せば球面まで“落下”するのは当然の帰結だろう。球の中心にいるノーによって、あらゆる物がノーから遠ざかる。世界の上下を規定し、地面と反発する力の大きさに応じて秩序を与える原理は、ノーが持つ大きな大きな力なのだ。彼が最上である理由……それは、何者をも寄せ付けない彼の精神にある。
僕は、登上を支える階段の意味を考えていた。そう言えば、ケテルの園でファウストが水晶にされていたなと思い出していると、赤い竜にまたがった少女が近づいてきた。気色の悪い異形を大量に引き連れている。
「やっとね、ギリギリ間に合った。ほら、こっちに来て? そんなとこにいちゃ嫌よ、またあたしと一緒になろ?」
そう言ってアリスは僕に手を差し伸べた。それは、僕を思いやっての救済の手ではなく、堕落へといざなうために足を引っ張ろうとする悪魔の手だ。
「あたしは、どうしてもあなたを生き返らせたい。だからこんなとこまで来たのよ?」
アリスは僕の無知に付け込もうとしている。意味ありげな事をほのめかして惑わそうとする真っ赤な嘘、それくらいは僕にだって分かる。僕は無視して歩みを早めた。あとわずかで月に到達する。
「お願い! あたしを置いていかないで!」
僕は先手をうつ事にした。
「“アリストテレス” これ以上樹を焼くな。そして、僕に指一本触れるな」
アリスの目から蛇口をひねった様に涙が溢れる。と思いきや、急に怒り始めたからか、髪が逆立ち涙は一瞬で蒸発した。
「ここまで来て、このあたしが諦めるとでも思ってるの?」
アリスは僕の足場を構成する水晶の階段をにらみつけた。
「マナを思い出すのよ! “ヒースクリフ”、“セテムブリーニ”、“スメルジャコフ”愛しい人を捕らえて!」
棺大の水晶が三つ、細かく震えだしたかと思うと、角と翼が伸び始め、体表には毛が生えそろい、みるみる間に毛深くなった。活動を再開した三体の異形は、久しぶりに体を動かすからであろう、ぎこちない動きでアリスに向かった。棺おけの中で寝そべっていたところを母親に見つかって叱られるのを恐れるがあまり慌てて這い出る無邪気な子どもの俊敏さで。
「ああん! こっちじゃない!」
僕の放ったマナによって直接手を出せなくなったアリスは、足場を奪いつつ異形に僕を捕らえさせようとしたがその試みは裏目に出る。アリスは身動きが取れなくなりながらもなお次々とマナを言い放つ。階段を構成する青い水晶がどんどん異形になってゆき、僕は、生命を有し始める階段の背を渡り、月に逃げ込もうと必死に走った。
月に辿り着くと、表面に波紋の模様があるだけで入り口のようなものはない。触れてみるとしっとりと湿っており、そして弾力があった。ゲルのようなものか。引き返すことはできない。もはや選択肢は無かった。僕は体を押し込み、粘膜を突き破るようにして半ば強引に内部へと侵入した。
“月”の中は水の中。溺れた僕はがむしゃらにもがいたが、羊水のように温かい水が十分に体内を満たすと苦しくなくなった。徐々に落ち着きを取り戻した僕は、冷静になって月の内部を眺めてみた。月と外界は半透明の膜で隔てられており、膜の向こう側でアリスが異形達と一体になるのが見えた。
月の中心には未成熟な胎児がいた。おそらくノーだろう。ぼんぼんのついた乳白色のパーカーを着ている。黄色い長靴とゴム手袋が特徴的だ。傷でもあるのだろうか、腹部が血に染まっている。
「傷よ、治るんだ!」
僕は泳いでノーに近づき、傷に手をかざしたが拒まれた。
「僕の邪魔をしにきた君は……ヨセフだね。僕はノー。君を養えればと思うんだけど、そんな余裕は無いんだ、ごめんね」
「自分で自分を傷つけていたの?」
「違う。痛みを思いだそうとしていたんだ」
傷が疼くのだろう、ノーは背を丸めた。
「……僕は不完全なのに、そのくせ“完全”とは何か、“完全”というものがどんなものなのかを知っている。僕だって、“完全”になりたいと思っていた時期があったかもしれない。でも、“完全”なんてものはない。人生ってのはうまくいかないことの方が多いんだ。生活はつらい事が多いし、人間はほぼ確実に裏切る」
もう少しで赤ん坊になろうかと思われるほど小さな胎児が人生を語るのをはなんだかおかしかったが、本人はいたって真面目だ。
「アリストテレスが暴れているんです」
「違うよ、彼女はマナを集めて精霊になろうとしているんだ」
ノーが突然、その小さな手で自分のお腹を殴り始めたため、僕はやめさせなければならなかった。力づくでノーの自傷を止めるのはたやすかったが、僕は何かを見失った気がした。
「ある天使が、あなたが実はいないかもしれないと言ったので、会えるか心配だったのです。でも会えてよかった……その事の意味を考えていたんです……」
「君が僕と出会った意味? そんなものはないよ。僕がここにいる意味がないのと何も違わない……僕はいないかもしれない……そう考えて疑わない時期もあった。でもそれは違うかもしれない。今僕はここで、痛いと感じることができる。だから、痛いと感じる何かは確実に存在しているみたいなんだ」
すると今度は、自分の首を自分の手で絞め始めた。しかし、思うように力を入れられずにいる。ただただ苦しそうだ。
「どうして苦しもうとするの? なんのために?」
「理由があるわけじゃない、意味なんてないんだよ」
ノーは返事のために手を緩めた。話しかけ続ければ苦しみを和らげられるかもしれないと思った。
月の中では赤い石がたくさん実っている。小さな赤い石がだんだん大きくなって結晶となり、拳くらいの大きさに育ったものは、枝から果実が落ちるような勢いで月の界面に吸い込まれる。ちゃぽんっと小気味のいい音をたてながら表面には波が広がり、赤い石は世界樹に取り込まれる。
「止まっているよ」
僕は気を利かせたつもりで、なかなか界面へと落ちようとしない成熟した赤い石を指差した。
「おろさなきゃ」
ノーの返事を了解だと認識した僕は、ゆっくりと回転し続けるその赤い石を手で押した。直後、やってしまったと後悔した。うっかり生で触れてしまったのだ。




