"園"
ケテルの園にたどり着いた。直角に組み合った綿のアーチをくぐると、心地のいい音楽が聞こえ、ゆったりとしたリズムの賛美歌だと分かった。空間はエーテルに満ち、豊かな綿を土台として平らな敷石が並んでいる。石畳の広場まで進むと、光る輪を頭上に携え、白い清貧な服装をした乳児が三人やって来た。天使だ。
「マリアがしくじりおった!」「ノー様に何かあったのか?」「連れは半減者、つまり神あるいは悪魔だ」
天使達はものものしい雰囲気で意見を交換していた。快く出迎えてくれるとばかりに思っていたため、目的地にたどり着いた安堵感や達成感はすぐに消え去った。僕達の到着のせいで平和の園に混乱がもたらされたのだろうか......たとえそうだとしても、ひとまずカナリアを休憩させたいと思った。
「カナリアが身重なんです。安静にできる場所はありますか?」
「どこかで休ませて下さい」
「ならぬ。立場を忘れた汚らわしい娼婦め! お前は災いの種を孕んだ腐った土! 純潔を誓っておきながらなんたる醜態! 恥を知れ!」「そうだ、このような事は未だかつて一度もなかった。ひどい裏切りだ!」「あり得ない!」
「どうか……どうかお許しください」
「一人を許すと、全員を許さなければならなくなる、ゆえにそれはできない」「はしたない……情けない……嘆かわしい」「この罪の女に極刑を!」
三人の天使をよく見ると、一人は目が4つあり、一人は足が4本あり、一人は指が10本ある。
「ああ……それだけは……それだけは」
カナリアは目に涙を浮かべながら許しを請うた。
「ツリーは絶対。無理な期待。反例たる不定の分母は分子もろとも切片として消去」「不純物を身に宿していては回帰すらできない。ツリーに従い、極大の刑を求める!」
僕達のやり取りに加わろうと新しくやってきた天使もまた、カナリアを裁く事に賛同した。今や広場には天使達がぞくぞくと集まり出していた。天使は一様に体が小さかったが、どこかしら体のパーツを多く有していた。
「ツリーはその半量がすでにメルトした。その部分に関する記述はもうない。したがって、必ずしもしたがう必要は無い。お前達にも重心はあるだろう? ツリーの多くが失われたのに、その記述内容を再生できるのがその証拠だ。つまり、自分で考えて自分で行動できるということだ」
僕と同じくらいの背丈の美少年が広場にやってきた。白い布をまとい、頭上には光る輪があるので天使なのだろうが、乳児の中ではひときわ目立ち、群を抜いて特異な存在だった。
「“ツリーがメルトした”……それは確かだ」
意欲にあふれた美少年は、目が4つある天使と他の天使、そして僕へは気にかけず、カナリアに近づいた。
「美しい……君、マリアって言うんだな、固有の名があるなんて超素敵だ……俺はファウスト。君となら結合して同位体になってもいい……こんな気持ちは初めてだ」
「半減者同士が求め合うのは最もだが、マリアはすでに分子を内包しているのだ。下心を伴って近似するな、ノー様は把握しておられる」
「お前達は第一にノー様ノー様と言うが、実際にそいつを見たことがあるか? 見えも触れもしない、本当にいるのかどうか定かでない、そんなものの実在を頑なに信じ込んでいる。くだらない! お前達だってうすうす感じているんだろう? ノーは実はいないんじゃないかってな!」
「ばかな! 目には見えなくてもそれは確かに存在するのだ。形と中身を合同にする積分のある我々が、形を先行させてはならない」
「善が完全であるためには、有徳さに比例して幸福が分配されないといけない。でも、実際はそうじゃない。だからノーなんていない。ノーがいたと仮定しても、識の大きな俺達に比べると、ノーの識は無いに等しいだろう」
「異形に名を与えたかどで謹慎中であると忘れたか。背理を重ねるな、身の程をわきまえよ。お前は、遊離中にアリストテレスと交流してからかおかしくなった。接地したくなければ自らの意思で名を捨てて、定理へと回帰せよ」
「気付いてしまったんだ……誰かが俺を俺にするのではなく、俺自身の意思で俺は俺になる。俺は自由になるんだ」
「自由とは、自身で自らを律し、自らの意思で回帰する事を言う。自由を得たいのなら、自ら進んでツリーに身を置き、個我を超越する必要がある。欲に縛られ、欲に流される事こそが不自由なのだ。まだそれが分からんか」
「閉じたツリーの決定に従って、挙動を上下から押さえられるなんて超くだらない! 均質になる事に何か意味でもあるのか? 姿形だけじゃない。思う事も、言う事も、やる事も! 調和の喜びはあるかもしれないが、そこに固有の驚きはない。変化も刺激も全くない、退屈にも程がある」
「それは悪魔の考えだ! 加護を失うぞ!」
目が4つある天使とファウストが論戦を繰り広げるさなか、左右の手の指が10本ある天使が僕に近づいて話しかけてきた。
「マリアとともに階段を登上した者だな?」
「はい」
「あなたはこの女が憎いか?」
「いいえ」
「あなたはこの女を愛しているか?」
「はい」
「あなたは憎くないと言う一方で、愛していると答える。それでいいか?」
「はい」
「あなたは……悪魔か?」
「いいえ」
「あなたは質問に対して常に嘘を言うか?」
「いいえ?」
天使は僕の膝に指を近づけた。すると、指先が発光し始めた。そして、その指先で膝に触れた瞬間、無音の閃光が煌めき、僕はびくっとして退いた。
「良性旧生物だ」
天使は僕の記憶を引き出したようだ。また同時に、今まで僕にはなかった知識が補われた。僕は理解した……世界樹の焼失が今なお続き、ケテルの園が非常事態にある事を。世界樹とは、ケテルの園を支える大樹であり、正しい判断を導く記述の総体系である。世界樹によると、名を与えられて特別の任に従う天使が園へと戻ってきた際に定理へと回帰する責務がある。定理への回帰とは、世界樹を通じて天使全員と共有者となり、記憶を分かち持つことである。
ファウストが初めて僕に関心を示した。
「良性旧生物! 定理への回帰など、ばかばかしさの極限だ。お前は自由だ、早くここを去れ。わざわざ手放す必要は無い」
カナリアが僕の腕を取った。
「彼は階段を下りません。この方は新たな主、神だからです」
広場中が水を打ったように静かになり、直後、どよどよとざわめきたった。
「やはり、ノー様の身に異変があったのだ!」「この方が、ノー様の代わりなのだな?」「ケテルの園まで辿り着けるのは、元々住んでいる我々天使以外には、神か悪魔だけだ。そして、先ほどの照射で、悪魔では無いと分かった。つまり、この方は神なのだ!」
「ノー様はこの事をご存知なのか?」
「これから会いに行きます」
カナリアが僕を見た。僕にとり得る選択肢は一つだった。
「その通りです」
階段はケテルの園が終着地点ではない。園を出て少し先には“月”と呼ばれる聖地があり、ノーの住まいとされている。
「ありがとうございます。お腹の子のためにもなります」
それまでカナリアに見とれていたファウストが我に返った。
「お前が神だって?」
なんだか気恥ずかしかったが、そう言うしかないと感じられた。カナリアとお腹の子を守るためなら、僕は神にでも悪魔にでもなるつもりだ。
「はい」
「神は俺だ」
ファウストは親指で自分の胸を指差し、再びざわめき始めた天使達に向かって言った。
「俺はこいつが神だとは認めない! ツリーがなければ何も判別できないくせに、どうしてこいつが怪しいと疑わないんだ? こいつが神である場合と、悪魔である場合は、同様に確かなんだ! つまり、悪魔だと仮定する事もできる。俺が今から識を評価し、こいつにマナの加護なんて無いって事を証明してやる!」
ファウストは勢いよく僕の方を振り向いた。
「お前は判別に抵抗しないだろうな?」
僕は逃げられないと分かっていた。
「はい」
神の座とカナリアの行く末をめぐっての勝負だ。その結果によっては、僕は園を追われ、カナリアはファウストと同位体になってしまうだろう。
集まってきた大勢の天使達は、いまや僕達のやり取りを見守っている。
「いいか? ここケテルの園には、118人の天使が住んでいる……マリアを足せば119人だ。その119人に、ある質問をするんだ。イエスかノーで答えられるものであれば何だって構わない。ただし、必ず全員に正答してもらえ。どんな嘘つきやひねくれ者の場合でもだ。もちろん俺も含めてな。全員が正当できれば俺はお前を認めてやるよ……お前にそんな事ができるか?」ファウストは続けた。「神にできない事は無いはずだ。神が正しいと言えば、どんな悪人でも正しくなる! お前に悪人を正しい道に導く力はあるか?」
「おおお、無理を言うな……自明の真理を問うてもいかんか。 “1+1+1=1か”という問いにも、お前のように異なる考えを持つ者もいるじゃろう。同位体となった直後ならまだしも、間違った認識を持つ者に正答させるなどできん……」
「じじいは黙っていろ……さあ、お前が本当に神であれば、どれだけねじれて屈折した奴であれ、正しい解に導く事ができるはずだ!」
僕はしばらく考え、そして、閃いた答えが条件を満たしているか何度も確かめた。
「……あなたはイエスと言いますか?」




