代償
森から出られるというジャックの言葉を合図に戦いの火蓋は切って落とされた。マナで召喚された炎弾や突風が行き交う。ジャックに仕掛けるカラスに、背後からチキが火をつける。
「いいぞ! もっとだ!」
「やれやれやっちまえ!」
グロテスクな巨体から突き出た何本もの生首が、口々に一行を焚き付ける。亡者の一部がアヒルを求めた。アヒルが応戦すると、亡者の一部は皮膚が剥け、醜悪な臭いを漂わせた。
「偽者はお前だ」
カッコーが懐にしまっていたりんごを食いながら、カナリアを手にかけた。氷の槍で胸を貫かれたカナリアは無抵抗のまま地面に崩れ落ち、新しく灯火が灯った。
キリスの理性は麻痺した。これは、精霊の幻覚による精神攻撃である。カナリアは偽者だ。しかし、目の前で繰り広げられる光景が、絶対に現実じゃない、なんて言えたものだろうか。カナリアが本当に刺された可能性だってゼロじゃない。こんなものを見せられて、動揺しないわけがない。
「犠牲は決まった。灯火は灯り、道は示された」
ジャックの言葉はもはや一行の耳には入らない。争いは止まらない。今度はジャックとカッコーが手に持っているりんごをめぐって争いは続く。
無残に転がったカナリアの亡骸を前にし、蛇に締め付けられるように胸が苦しかった。息が熱い。体が急に膨張し、上半身の皮膚が裂けた。裂けた皮膚からは恐ろしい速さで鱗が生え揃う。額と肩の骨が割れ、内側から何かが突き出る。歯の隙間からは煙が漏れ、グツグツと何かがこみ上げて喉を焼き、とっさに首を押さえたその手には鋭い爪が生えていた。
-争うのをやめろ-
争いそのものを憎むキリス、悲願の言葉の代わりに出たのは低い唸り声。
深い悲しみの中で音が聞こえる。それはキリスを惹きつける。キリスはその声を理解しようとした。
-大丈夫よ、いつだってあなたの傍にいるわ。あなたに言った言葉を思い出して-
カナリアの声が聞こえる!
-カナリア、どこ? どこにいるの?-
かすれる声でありったけ叫んだ。キリスは我を忘れて探し回った。森に入る前、カナリアはなんて言っていたか。痛み、重み……そうだ、温もりだ! キリスは、誘導されるように灯火の前に立っていた。森に入る前、カナリアは温もりだけを信じろと言ったんだ! 迷いなく灯火に手を入れ、拍動する赤い臓器を傷付けてしまわないように慎重に掬い取った。温かい。カナリアの重心だ。キリスは火に包まれた。その温もりは、恨みや憎しみなどでは決してなく、慈しみそのものであった。カナリアの重心をあるべき場所に返そうと、彼女の体に向かった。キリスは全身をカナリアの温かさに包まれ、怒りが引いていくのが分かった。涙が止まらない。鱗はその大半が剥がれ落ち、肩から突き出た奇怪な運動器はすでに代謝されていた。膨張は止まり、元の自分に戻りつつある。
りんごの枯れ木の前でジャックに向かって言った。声はしっかりと出た。
「トロッコの問題を僕なりに考えていたんだ。僕が運転手だったら、線路に佇む作業員に、できるなら、僕の事を知って欲しい。葛藤があった事を、苦しみがあった事を知って欲しい。許しを請いたいから。恨まないで欲しい。だから、僕は伝える。そうせざるを得ない、どうしようもない境地に立たされたという事を認めてもらうために……あなたがトロッコの運転手なんでしょう?」
「お前は面白い発想をするんだね」
重心をカナリアの体に収めると、キリスを包んでいた温かな火が、傷口を介してカナリアに流れ込んだ。
「カナリア……戻ってきて……」
キリスの願いに呼応するようにカナリアの胸の傷は塞がった。そして、傷なんて初めからなかったかと思わせるくらい、なんでもないように身を起こした。しかし様子が変だ。よそよそしく身をよじり、見る見る間に髪が黒くなった。卑屈そうに脱力し、丸まった背中はだらしない。そのうえ、目は遠くを見るように空ろだった。
「カナリア?」
「そう、私はカナリア。私は罪を知ってしまった。殺す者と殺される者の間には、ある秘密が共有される……一方は能動的、一方は受動的との違いはあるものの」
柔らかくも凛とした雰囲気が失われ、もはや神秘性は微塵も感じさせない。ずいぶんと変わってしまった。しかしカナリアはカナリアだ。
「あなたが私を愛してくださるほどに、私の罪は重くなる」
皆がこちらを見ていた。亡者までもが黙って成り行きを見ている。争いはとっくに収まっていた。
「やっと、耳を傾けてくれる気になったかな。ではトロッコ問題の再開だ。『お前達はブレーキの壊れたトロッコの運転手。そのまま進むと作業中の5人がトロッコに轢かれて息絶える。ハンドルを切れば待避線に入る事が出来るが、そこでも1人が作業中だ。お前達はハンドルを切るかい?』 ただし、一つ付け加えさせてもらう。運転手である自らが線路に落ちてトロッコを止める、救世主を気取るのは無しだ」
「私はハンドルを切るわ」
アヒルがすぐさま言い切った。
「ここから出してあげよう。この繰り返しの呪いから解放してあげる」
アヒルが炎に包まれたかと思うと、次の瞬間アヒルの姿は消えていた。
「森を抜けられる羊は何匹かな」
「俺も切るぞ!」
「ハンドルを切る!」
「自分もだ!」
「切ります!」
モスキート、カラス、カッコー、チキが順々に炎に包まれ、アヒルと同じように消えていった。5人はついに解放された。
ジャックはキリスに顔を向けた。
「お前には一つ伝えておきたい事がある。俺はお前が気にいっている。だから、どちらを選んでも通してあげよう。森を抜けて塔に向かうと良いよ。というのも、お前が選んだ答えを正解にしようと思っているからだ」
言われた事の意味を理解するのに時間がかかった。けれど思考が追いついた。良かった、これで全員助かる!
「カナリアもハンドルを切るよね? 5人と1人なのだから」
「……人の運命を左右する事が、どうして私達に許されるのかしら……いくら考えても納得ができないわ。私にハンドルは切れない」
カナリアの予想外の答えに、キリスは面食らった。
「どうして? 精霊の話は聞いていなかったの? 一緒に森を出ようよ!」
「1人で息絶えるなんて、かわいそう。それに、犠牲になる命を選ぶなんておこがましいと思うの。自然の成り行きに逆らわず、元々の運命を受け入れるべきだわ。それに、その1人がもしあなたの大切な人だったらどうするの?」
「でも、でも!」
キリスは必死に考えた。カナリアを説得しなければならない。
「答えを」
ジャックがせかすと、どこからともなくゴロゴロ……という不気味な音が聞こえ始めた。お腹の鳴る音だろうか。違う。遠くで車輪が転がる音だ。地鳴りだ。
「1人よりは、5人の中にこそ、大切な人がいる可能性は高いとは思わない? 1人と5人なのだから」
キリスは必死に説得を試みる。
「私にはそうは思えない」
カナリアは強情だ。
「君はさっき、自然の流れに身を委ねて見守るべきだと言ったけれど、君自身も自然の一部だ。つまり、ハンドルを切ると判断する事も自然の流れの一部なんだ。だから、君は作業中の人の運命に責任を感じなくてもいいんだ。君の判断もまた巨大な運命の一部なのだから。つまり、君はハンドルを切るべきだ。だって、そうする事が望まれているから!」キリスはすがるように続けた。「きっと、その1人も分かってくれるはず!」
カナリアは黙ったまま、ため息をついた。
「5人を助けるためとは言え、1人の命を利用する事は出来ないわ……私は結局自分本位で、ただ、恨まれたくないだけなのかもしれない。私が加担する事で人が息絶える、その責任の重さに耐えられないだけなのかもしれない。5人いるのなら誰かがトロッコに気が付いて、全員で逃げ出してほしいと祈る以外にできないの。そう、5人もいるのですもの。きっと誰かが気付いて全員で逃げ出してくれると信じているわ」
実質的に、キリスは、カナリア一人を助けるか、カッコー達五人を助けるかの選択を迫られた。一人を見殺しにしないと言うカナリアを助けるか、それとも、より多く助けようとする五人を助けるか……。
「もうトロッコは迫っている。ハンドルを切る最後のチャンスだ」
「あなたは5人を助けるべき。私はいいの。でも嬉しかったわ、ありがとう」
カナリアは目をつむったまま言った。カナリアは、キリスがどんな判断をしても受けいれ、まして恨んだりはしないつもりだ。
問題を耳にした時からキリスの中では答えは決まっていた。それは正義のある人間であれば、皆一様にそう答えるであろう当然の答えである。しかし、目をつむって運命を受け入れようとするカナリアを前に、キリスは定められた答えを口に出来なかった。
長い沈黙の後、灯火が灯った。眩しい。道中目にした灯火の5倍の明るさはあるだろうか。
「ふう、時間切れだ。お前は判断せずに、保留にした。俺は今まで『ハンドルを切る』と答えなかった者を、森から通した事がない」
ジャックは被り物の中からキリスを興味深げに眺めた。
「初めてだよ、こんな事は。そして、予言が外れた事もね。本来なら、数を数えられるようになるまで森で迷い続けてもらう所。でも、俺は考えを改めよう。『より多くを救える者を救うべきだ』ってね。愚かな集団ではなく、たった一人の正しい人間の力になろうと決めたよ。逆説的だけれど、そうする方がより多くを救えると思ったから」
ジャックは何か大きな思い違いをしているが、キリスの事を肯定しているようだ。
「お前がエチカに危険視されている理由がなんとなく分かった。本来なら危ないとブレーキをかけるべきところを、ためらいなくアクセルを踏み込む……そんな特性すらあるのかもしれない……」
よく分からない事を呟いているが、何にせよ、ジャックの気が変わらないうちに先を急ぎたいと思った。
「『ハンドルを切らない』を答えとする。先に進むといい。決して振り返る事なく、前だけを見て突き進めば出られるよ」
「行こう」
キリスはカナリアと一緒にいたいだけだった。キリスはカナリアの手を取って歩き始めた。カナリアの手は冷たかった。キリスはカナリアの手を握りしめ、カナリアからもらった温もりを返そうとした。温もりを返せば、以前のカナリアに戻るとでも信じているかのように。
森の中で終始聞こえていた嘆きの合唱はすでに聞こえてこない。最後の灯火を横切ると、暗い森と土の道は、白い雲と水晶の階段に変わった。雲の隙間からは光が差し込み、じきに湿り気を含んだ雲塊を抜け出せるだろうと予感させた。
-ついに森を抜けた-
森から出られて心底ホッとしたのも束の間、開放感で浮かれたキリスの気持ちはすぐに絶望の底に突き落とされた。そうならない事をどれだけ強く願っただろうか。しかし漠然とした不安は現実となる。
つないでいた手の先には誰もいなかった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます!
ここで第二章前半”森編”は終わりです。次回からは第二章後半の”塔編”に移ります!
次回投稿は一週間後を予定しています。




