疑念
一行が歩いていると進行方向に人影があった。粘り気のある泥を全身にまとっていたために、今しがた沼の底から這い上がってきたかのような風貌である。亡者だ。
「誰か助けてくれ! 見えない! 目が、目が! 誰か‼ 僕は、こんな所では終わるわけにはいかない。僕には野望がある。遣り残したことがあるんだ! 足らない! まだまだ全然足らない‼」
亡者となってすっかり印象は変わってしまったが、森に足を踏み入れる前に出会ったカラスだと、キリスはすぐに気が付いた。
「カラスさん落ち着いてください。そして、足元を見てください」
目が見えるようにするための助言にカラスは耳を貸さず、白目を剥きながらやみくもに突き進んできた。
「“ツァラトゥストラ”、やめろ!」
モスキートがマナを叫ぶとカラスはようやく足を止めた。
「カラスさん、足元を見るんです」
遥か遠くを見上げて上転していた眼球が元に戻り、視点が定まった。
「本当だ! 言われなければ気付かなかった! こんな簡単なことなのに! 上を見過ぎて足元が見えないだけだったのか。クックックック。なんて馬鹿だったんだろう! クックックック」
カラスが自虐的に笑い出すのと同時に、木陰に隠れていた女性が姿を現した。体中に焦げ跡がある。アリスに火をつけられて階段から落ちたはずのチキだった。
「カラスさん、無事でよかった!」
森に足を踏み入れる前に出会った全員が合流した。四人にキリスとカナリア、そして森の中で出会ったカッコーの計七人……。
「……本当にそう思うのなら、盗んだりんごをどうして僕の方に投げたんだ! そのせいで亡者に襲われた! よくも囮にしてくれたな!」
「そんなつもりじゃなかったんです! 信じてください!」
チキは気弱そうに涙ぐんでいる。
「まあまあ」
怒るカラスをモスキートがなだめた。一同はカラスが落ち付くのを待った。カラスは徐々に落ち着いた。
「……モスキート、アヒル。君らも同じ境遇にいたんだな……おかしいとは思わないか? 落ちたと思ったら、マンドレイクの森だ。つまり赤髪の悪魔と相対した時には、僕達はすでに幻の中にいたってことだ……精霊は目から得られる認識をも操る事が出来るらしい」
「ああ、その事には、こっちでも気付いたぞ」
「さっき精霊に、一人が犠牲になるか、あるいは複数が犠牲になるかといったなぞなぞを聞かされた。言おうとしている事がよく分からなかったけれど、僕の解釈はこうだ……赤い石を手にしつつ、その事を隠して独り占めしようとしている者がいる。今僕達が取り組まされているのは、石を独占しているその真の亡者が誰なのかを見破るゲームであって、その一人を見つけられなかった場合、他の者がこの森から出られる保障はない……あの寓意的なトロッコの話は、つまるところそういう意味だろう?」
「……そこまでは考えなかったな」
「僕達は皆、石を手に入れるために森に入った。それなのに、一人、石には興味がないと言い切った白々しいやつがいた。僕はそいつが一番怪しいと思っている」
カラスは急にキリスを指差して言った。
「疑問があるんだ勇者様。なぜ勇者様は階段から落ちたんだ? 赤髪の悪魔にはずいぶんと気に入られているように見えたんだが」
「僕は登ってきました。これまで一度も落ちてはいません」
カラスは眉をひそめ、気色の悪い物を視界に入れて後悔する時のように、嫌悪感で顎を振るわせた。
「勇者様は落ちていない。登ってきた……ふーん」
カラスは繰り返した。アヒルは腕を組む。
「精霊は、聴覚だけでなく他の感覚をも思いのままにできるという事がはっきり分かっているわ。精霊は私達を弄んでいるのか、それとも、私達を試している。仮に、精霊が言っているようにこれが試練だった場合、本物と偽者を区別する力が問われている可能性がある……」
「勇者様が……実は勇者じゃない?」
チキがキリスの頬を突きながら言った。
「ちょっと待って」
キリスに向けられた疑いが急速に大きくなったため焦った。
「勇者様は亡者ではない……と思うぞ」
モスキートはキリスを観察していたが、キリスと目が合うとすぐに目をそらした。チキがキリスの体をまさぐり始めた。
「僕はさっきまで盲目だった。治してもらっておいてなんだけど、どうして、盲目の治し方を知っている? 自身が盲目を経験したからじゃないのか?」
「……どうしてだかは分からないけれど、足元を見れば見えるようになる気がしたんだ……本当にそれだけです!」
キリスは説明に窮してうろたえたため、一行の猜疑心を深める事となった。
「赤髪の悪魔は精霊による視覚操作である可能性が高い。問題は、僕達が一体どこで精霊の力の及ぶ領域に突入したのか、という事だ。果たして、勇者様に会った後だろうか」
一行の疑いが完全にキリスに集中した。殺伐とした雰囲気の中、モスキートが提案した。
「なあ、考えがあるぞ。恥ずかしい話、ここにはマナがこぼれた人間が何人もいる。あれが幻覚だったのかどうかは確かめようがないが、このままだと、不公平感のせいで団結なんてできるわけがない。でも俺達は言わば、苦難を共にする運命共同体。だから、マナの交換からやり直さないか?」
議論から取り残されたカッコーが何かを言いたそうに口を挟む機会をうかがっていたが、四人はキリスへと注意を向けているため気が付かない。
カラスはキリスをにらみつけ、いかなる不自然さをも見逃すまいとしていた。キリスが亡者だと決めてかかっている。
「僕達4人は全員階段から落ちて合流した。それなのに、僕達より先にいるはずの勇者様が下から登ってきたんだ。僕達の立場になってみてくれ」
「そうよ、自分だけマナを明かさずに、なおかつ全員のマナを知っているのは勇者様ただ一人だけ」
アヒルが同調した。
カラス達はマナの共有者であり、もはや身内同然だった。
「マナを教えてくれれば信頼できるわ」
チキもカラス達に賛同し、節制なく絡み付いてきた。キリスは追い詰められた。
カッコーがボリボリと頭を掻いた。
「関係者でないのに口を挟んで申し訳ない。君達がキリス君に促しているのは、今ここで、共有者の誓いをたてるということなのかな……視聴覚に干渉を受けているこの場所では、軽率だし無意味に思える。一時の気休めにはなったとしても、得をするのは精霊だけではないかな?」
カラスはカッコーの存在に今初めて気が付いたかのように驚く。そしていくらか落ち着きを取り戻した。
「……分かっているよ、どうかしていた。言い訳じゃないけど、ここのところずっとムカムカするんだ。すまない……チッ、ああ忌々しい! こんな場所は早く抜け出さないと!……ところであんたは?」
「カッコーと申します。放浪者です」
お互いに軽い自己紹介を済ませ、7人は再び歩き始めた。
キリスは、4人のマナを知っている。それは偶然もたらされたわけだが、これを使えばどうなるかを考えた。例えば、彼らが従命を守るかどうかで、本人かどうかを確かめる一助にできるかもしれない。りんごをもいで渡してもらおうか。赤い石を探してもらおうか。本者のカナリアを探してもらおうか。精霊を倒してもらおうか……従命が取れなかったとしても、神罰の有無で本物か偽者かを見破る事ができる。
しかし、すぐに思い直した。
-理性は、人格をあらゆる行為の存在する目的自体とし、手段としてはならない-
人間性を欠いた選択はキリスにはできない。
腹が減った。りんごを食べなかった事を後悔した。腹を満たすことを強く欲していた。我慢の限界が近付いていた。気のせいか、肉の焼けるうまそうな匂いがする。足裏に金属の感触があった。キリス達は、あぜ道とほぼ同じくらいの幅の線路の上を歩いていた。蒸気機関車でも通るのか。ふと恐ろしいイメージがよぎる。トロッコが目の前に襲い来る。トロッコからは決して逃げ切ることが出来ない。それは亡者を地獄へと連れ去る火の車……
意識が飛んで膝が一瞬折れた。だらしなく垂れた涎をすすった。灯火がぼうっと灯り、不規則に揺らめく炎によって、奥の景色が歪められている。その歪んだ景色に呼応するように意識が朦朧とする。強烈に眠い、このまま倒れてしまいたい……と思いきや今度は急激に腹が立ってきた。何食わぬ顔をしている偽者のカナリアに腹が立った。本者のカナリアを奪った精霊に腹が立った。現状を打破できない自分の無能さに腹が立った。思い通りにならない何もかもが腹立たしかった。
しかし、腹を立てていたのはキリスだけではない。誰もがこの辛い状況の中ではピリピリしていた。
152個目の灯火に差し掛かった。鉄と油と煤の臭いがする。木々はほとんどなくなり、焦土と化している。地面が熱したフライパンのように熱い。りんごの木が生えていた場所には大きな枯れ木があり、ジャックが枝に腰掛けている。恐れていた事態が起こった。次の灯火が消え、進むべき道が照らし出されていない。
「そんな!」
一行はパニックに陥った。恐怖と怒りを露にしている。
「数々の誘惑を乗り越え、虚構と現実が混在するこの空間にあって、よくぞここまで辿り着いたね。でも時間切れ。お前達には考える時間は与えた。今こそ決断を聞かせてもらおう」
木になっていたりんごはすでに食い尽くされている。精霊は最後の一つのりんごをしゃりしゃりと食べ始めた。
「灯火よ、頼むからついてくれ」
モスキートが試すが灯火は灯らない。『灯火』はマナではないようだ。
「今まで教えていなかったけれど、灯火がつく条件を教えてあげるよ。重心を差し出すんだ。犠牲と引き換えに灯火はつく。ただし、灯火が必ずしもお前達を天国に導いてくれるとは思わないことだな。確かに森の外には出られる。だが、灯火は、お前達を地獄に導く、恨みと憎しみの火さ! さあ、決めろ。先人達と同じ轍を踏むかどうかを!」




