天使との出会い
-神は人間の姿をしている-
くしゃみと同時に目をさますと、キリスは褐色の土の上にいた。見たことのない異色の花々、見渡す限りの花畑、ここはどこだろう? 祝福された柔らかい包容力に満ちた空間、訪れたことがないにも関わらずこの懐かしい感じ……キリスはすぐに直感した。
-天国-
「ふー」
体を起こして空を見上げ、長い時間をかけて息を吐いた。外の新しい世界と体内を初めて交通させる赤子のように。あるいは、越えてはならない境界から、かろうじて還ってきた患者のように。
突然強い風が、びゅうっと吹きつけ、キリスは顔面を打ちつけられた。
「うわっ!」
上半身をのけぞらせたその時だった。
「待っていたわ、あなたが目覚めるのを。さあ、いきましょう」
背後から女性の声が聞こえ、白い何かがキリスに向かって伸びてきた。状況が分からなかったため、とっさに身を起こし、警戒しつつ立ち上がってその存在と向き合った。白い髪で白い肌の女性が、柔らかそうな純白のワンピースに身を包み、背中に生えた真っ白い翼を折りたたんでいた……と思いきや、白い翼は後ろの花々の見間違いであった。普通、女性に翼なんて生えていない。
「さあ、付いてきて。あなたは選ばれたのだから」
天使のような女性はにっこり微笑むと、唖然とするキリスをよそに歩き始めた。神秘的だった。未だかつて、これほどまでに純白な生き物を目にしたことがあっただろうか。
天使は花畑を進んでゆき、キリスも後を追う。花畑はどこまでも続くように思われた。天使は不意に足を止め、顔を上げて指を差している。大きな石段が規則正しく並んでいる。一つ一つの石段は棺ほどの大きさの水晶であり、青色で透き通っている。一つ奥の石段は、一つ手前の石段よりもほんのわずか斜め上にずれ、関係性が連続して秩序を形成していた。それは階段だった。緩やかなカーブで輪を描いて螺旋を形作っている。そのあまりの大きさに向こう側の弧がぼやけるほどだ。行き着く先を見ようと視点を上へ移したが、終点は空の霞へと消えている。
「あなたはこの階段を登り切らなくちゃならないの。それが、あの方の思し召しだから」
天使はキリスの目をまっすぐ見ながら言った。キリスは黙ってうなずいた。本当の天国はここではなく、螺旋階段の先にあるという事なのだ。
キリスの覚悟を見てとった天使は微笑み、慎み深く石段を登り始めた。キリスは呆然と眺めていたが、すぐに我に返った。置いていかれると思って焦り、急いで天使の後を追って登り始めた。厳粛な水晶の石段は深い海の色を湛え、中空で一定の空間を占有している。一段一段の落差は大きくないが、石段の放つ無言の圧力に足がすくんでしまう。この威圧感にも似た迫力に、創造主の威厳が感じ取れ、果たして自分に踏み越えてゆく資格はあるのか、という気持ちにさせられた。
段々地面が離れていく。慎重に登ろうとするあまり、足を踏み外す恐怖で視界が揺らぐ。そうこうする間にも天使との距離は開く一方だ。キリスは意を決し、思い切って駆け出した。足を踏み外して落ちてしまえばそれまでだ。それよりも天使を見失う恐怖の方が大きかったのだ。不思議な事に、走った方がバランスが取りやすかった。倒れる前に軸足を新たに踏み出す。勢いが付くことで安定感が増し、次第に恐怖は小さくなった。大きな風が何度か吹いたが、なんなく踏みとどまり、ゆったりした服がバタバタとはためいただけだった。なんだ、こつさえ掴めば簡単じゃないか! 案外楽に踏破できる予感に、キリスの胸は昂ぶった。
ようやく天使に追いつき、息を切らしつつ問いかけた。
「こ、ここは、一体、どこなのですか?」
天使は優しい笑顔で振り返り、登り出してから初めて足を止めた。
「あなたは分かっているはず。あなたの想像通りの場所よ」
「天国に至るための避けられない道のり……」
天使は、キリスの肩についたチリをつまみとってくれた。
「さあ、登りましょう」
天使はキリスの息が整うのを待った。キリスは空を見上げ、階段がどこまでも続いている事を確かめた。その時ふと、漠然とした不安がキリスを襲った。のんびりしていると何かが手遅れになるのかもしれない。
「もしかして、急いだ方がいいのですか?」
「ええ、時間は限られています……けれど、焦っても良くないわね」
天使は後ろ手に組みながら言った。そして、意外にも少しいたずらっぽい表情をしたかと思うと、はにかみながら続けた。
「乱暴な手段に出てごめんなさいね。びっくりしただろうし、怖かっただろうけれど、階段を登りきる運命にあるあなたが、登り始める前から、躊躇ったり怖気づいたりしてはならなかったの」
天使は一呼吸おいた。
「急いでここまで駆け登ったけれどどうかしら。始めこそ足がすくんでためらわれたわね。だけど、どうかしら? 下を振り返らずに駆けてきて。あなたは気付いていないかもしれないけれど、最初の困難を克服したのよ」
-勇気とは、恐怖を退け 足を前に踏み出すこと-
天使は、足元に広がる光景に腕を伸ばし、手の平を広げた。
「今はもう怖くは無いでしょう? 見て。怖いどころか、とっても綺麗でしょう?」
キリスは、天使から最高のプレゼントを受け取った心地で花園を見た。確かにそうだ、一心不乱に登ってきたためか、怖いという感情はすでに消えていた。花園を見渡す余裕が生まれ、虹の高さからの眺めに感動した。淡い色合いの、檸檬色ともオリーブ色とも小豆色ともつかぬ異質な花園、しかし、それは間違いなく美しかった。慣れ親しんだ法則とは別の、馴染みのない何か別の条件によって組織化された花園と、その一輪一輪の花弁の組成に思いをはせ、幻想的な気持ちがした。
「とっても綺麗だね」
キリスの本心を確かめた天使は、再び歩を前に進めた。