己が言葉は
『ずっと自分の気持ちを誤魔化したり、本音を隠したりするとね、嘘しか言えない人になるんだよ。あまのじゃくとは少し違う気がするかな。ありもしないこと、思ってもないことをぽんと口に出すような、そんな感じ』
薄茶色の髪の青年、誉はうっすらと笑った。彼の目はいつもより細められていて、ただでさえ暗い栗色の瞳はより暗く見える。
日頃少女が目にする彼は、ずっと穏やかに笑っていた。いつも誉を振り回している、彼の親友である鬼灯という男の前では、小言を零しながら困ったように笑っていた。
少女の隣に座る誉も、笑顔ではあった。
しかし、少女が今まで見ていた笑顔とは、全く違うもの。
少女は己の腰をぐっと低くし誉の顔を下から覗き見る。鳥目の少女には、俯く彼の表情は夜の闇でろくに見えず、彼が何を思っているかは伺えない。
『今してるお話も嘘なの?』
少女が問うと、青年はゆっくりと瞼を閉じてううん、と唸る。
変わらず笑顔を張り付けたまま、暫くの沈黙の後、彼は独り言のように答えた。
『どうだろうね。いま自分が言ってることが嘘か誠かなんて、もう判断がつかなくなってるんだよ』
彼は話終わるまで、終始表情を一切変えなかった。
誉。積み上げた嘘に、本来の自分を隠した男。
自らを守る為の嘘に、隠した自分を見失った男。
心情を一切伺わせることを許さない、笑顔という仮面をかぶった男。
少女は彼の言葉をなぞってはその都度唱える。
「どうせ嘘つきになるのなら、中途半端な嘘つきじゃなくて、」
彼のようになりたかった、とアサはぼやく。
アサはゆっくりと目を閉じ、静かに呼吸を整える。
相変わらず体は動かないままだったが、意識は冴えている。
「……己を成した業から目を逸らさず、受け止めろと?」
アサの言葉を肯定するかのように、目前の景色がゆらりと揺れ、変わる。
無機質な色の石を敷き詰めた部屋に、木製の机と、人一人が寝られる程の広さの寝具が置かれている。
机に置かれた蝋燭の灯火が、薄暗い部屋とそこに居た2人をほんのりと照らしていた。
『……わたしが、わたし自身と向き合えるようになるまで、待って頂けますか』
寝具に座った少女が、彼女に向かい深々と頭を下げる青年を見据え、言う。青年は『ああ』とだけ答えた。蝋燭の朧げな灯りでは、彼の表情は伺えない。
『今のわたしじゃ、きっとあなたの気持ちにちゃんと答えられないんです。だから、ごめんなさい』
『謝罪はいい。オレはいくらでも待つよ。お前がちゃんと自分と向き合えるようになる、その時まで』
『……ありがとう、ございます』
少女が俯き加減に言うと、青年は頭を下げた姿勢のままはぁっと溜息をついた。彼は何か言いたげに口をもぐもぐとさせていたが、諦めたように首を横に振り、ようやく顔をあげる。
青年の紅蓮の瞳が、少女の空色の瞳を見つめる。少女がこてんと首を傾げると青年は顔を盛大に歪めた。
『敬語』
『あ、その、すみません』
『謝らなくていいのに』
『…本来敬語使うべきはオレなんだが』
それはひとまず置いておくとして、と付け加え、青年は少女の隣へと腰を下ろす。寝具の軋む音が薄ら闇の中に響く。一方が少し手を伸ばせば、すぐに互いの手が重なりそうな程に距離が近い。
少女はひどく気まずそうな顔をして、青年に気付かれないように、ほんの少しだけ体をずらした。
『……あの、レオ。前にした、守護者の儀式を覚えてる?』
『覚えてる。お前が……なんか、こう、すごく綺麗な衣装着て、オレがその前に跪いて、やった奴だろ』
『うん。えっとね、前したときは、バタバタして……儀式の最後まで終えられなかったから』
『またしないか、ってことか?』
少女がこくりこくりと二度頷く。青年は『分かった』と返答すると。夜遅いからと少女に毛布をかぶせ、蝋燭を消して部屋から出ていった。
少女はこども扱いされたことに暫く頬を膨らませていたが、自然に微睡み、そのまま瞼を閉じた。
ふと場面が切り替わった。
満点の星空の下に、空をそのまま映した澄んだ湖がある。湖畔は青々とした林に囲まれている。湖畔の一部に、石造りの足場が造られている。一種の祭壇にもみえる、そこに続く足場に風化しかけの石柱が立ち並ぶ。
石柱に打ち付けられた燭台のかがり火が、足場にいる二人の人物を照らしていた。
青年は跪き、その前に巫女姿の少女が立つ。
『クライネ王国軍・黒騎士団の1人、レオ=シェルト。私は巫女の為に、この剣と命を捧ぐことを誓う』
爛々とした赤い瞳と信念を据えた凛々しい声で言い放つ。いつもとさして変わらぬ服装に、いつになく固い言い回しがちぐはぐだ。
彼は利き手側に置いていた剣を鞘ごと手に取ると、柄を向けるようにして差し出す。
少女はそれを受け取る。這わせるように、白い指で鞘の端をつぅっとなぞった。彼女が触れたところから赤い紋様が浮かび上がる。
紋様が剣を覆い尽くすよう広がり、やがて収束する。
剣を返す前に、少女は細々とした声で青年に問うた。
『1つ、約束して欲しいことがあるのですがいいですか?』
『何でしょうか』
『この先、大陸全土に災いが降りかかることとなるでしょう。無論、クライネ王国も災禍に見舞われることとなります。貴方は巫女の守護者である前に、クライネ王国を率いてゆく将となるものです。国の民たちが傷つき、惑い、絶望に眩むことがないように、彼らを、王国軍総帥に託された彼のものたちを──あなたの剣で率い、守ってください』
これは本心で言ったこと。アサは自らの記憶と対峙しながらぽつりと呟く。
己という一人より、数多の民たちを。自らよりも、他の人を。それはアサが最も重んじる事柄であったが、その言葉は来る日に、彼を遠ざける為の口実でしかない。
それで多くの命が救われたとしても、不動たる覚悟を決めている青年の意志を踏みにじることに他ならない。
『─仰せのままに』
青年は、少女が差し出した剣の刃に、鞘越しの口づけを落とし剣を受け取る。それを再び石床に置くと剣は柔らかい光を発する炎に包まれ、真紅の宝玉があつらわれた黄金色のブレスレットへと姿を変えた。
跪いたまま、青年は言った。
『私は、貴女より賜った言葉を忘れることなく──貴女の御身の、その傍にあり続けると誓います』
青年の真っ直ぐな視線が、少女の方に向けられる。
前にいるのは、夢の中の青年とわかっているのに、反射的に彼に顔を背けた。
傍にあり続けるだなんて、とんでもない。
それが守護者としての誓いであったとしても、アサはとても耐えることができない。
「──時間を歪めた罪人が、貴方のような人の隣に居るべきではないわ。わたしは貴方と結んだ約束を破る。勝手なわたしを赦さないで、嫌いになって。そして、いつか、忘れて」
アサはぐっと胸のあたりを押さえる。胃の中全てを吐き出すそれとはまるで違う苦しさに、とうとう少女は膝を折る。同時にパシャリ、と水が跳ねる音。少し遅れて、2つの波紋。
そこに映る人影にも、自分がどんな顔をしているかにも、アサは気付かない。
「どうか、お願い、気づかないで」
本音と欺瞞がぐちゃぐちゃになって、混乱する少女を押し潰しにかかる。
あの誉も、こんな痛みをずっと抱えていたのだろうかと、ぼうっと考え、首を傾げる。
「──あれ?」
「あのひとの、なまえ、なん、だっけ──」
糸を切られた操り人形さながらに、少女は意識を手放した。