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電車を乗り継いで、ようやくたどり着いた霊園は、海が近くて景色が良かった。ここなら、姉も喜ぶだろうと思う。霊園のすぐそばにある花屋で献花を買っているとき、また携帯が震えた。今度はリナだった。
『ジェットコースター連続3回目!!今度はシオンも一緒に行こうね!!』
動く絵文字付きで、ハートまで付いていた。春彦は適当な返事をして、携帯を閉じる。電源を切ろうかとも考えたが、それはやめておく。
花と水を持って、姉の墓まで歩いた。坂を上っている最中にバランスを崩して、水が少し零れた。ズボンの裾が軽く濡れる。
「ズボン濡れちゃったよ、姉さん」
姉の墓の前で、苦笑しながら話しかけた。返事は、聞こえないけれど。
ビー玉の散らばった部屋で、姉はいつも通りベッドの上にいた。ただ、
その腹に、ガラスの破片が突き刺さっていた。
溢れ出ている血はどす黒く、姉が白い服を着ているせいか、妙に浮き出て見えた。
叫ぶことすら忘れて、その光景に目を見張った。何かの夢か、悪い冗談だと思った。そう思いたかった。
「……て…」
姉のうめくような声が聞こえて、我に返った。姉は生きていた。だとしたら助かるかもしれない。なんとか働いた頭が、救急車を呼ぶように指示した。春彦は急いで電話をかけに行こうとした。当時春彦は、携帯を持っていなかった。
しかし、
「…ころ、して」
姉の声がはっきりと聞こえて、春彦は足をとめた。後ろを振り返る。姉は、春彦の方をまっすぐに見ていた。姉はもう一度口を開くと、
「殺して」
震える小さな声で、だが確実にそう言った。
「…姉さん」
春彦は無表情で、姉の方を見つめた。もういいんじゃないのか、という言葉が頭をよぎった。姉さんは十分頑張った。だからもう、いいんじゃないのか。
カーテンの隙間からわずかに夕日が差している。自分は、光にはなれなかった。いつか、自分ではなくてもどこかの誰かが、姉を助けてくれるんじゃないか。そんな夢物語を捨ててしまったのはいつだっただろうか。
ゆっくりと姉の方に近づく。床に散らばっていたビー玉がいくつか転がって、壁に当たる音が響いた。やせ細った姉は、それでも綺麗だった。姉は春彦の方を見るとほほ笑んだ。
「ハル、綺麗。好き」
小さく、かすれた声だった。きっと話すのもやっとなのだろう。腹部に突き刺さったガラスを見ながら、春彦は囁いた。
「…姉さんの方が綺麗だよ」
その言葉を聞いて、姉はひどく沈んだ顔をした。春彦の本心は、そして想いは、最後まで彼女には届かなかった。春彦はポケットからハンカチを取り出し、姉の腹に突き刺さっているガラスに巻いた。自分の手が、切れないように。
姉に突き刺さっているこのガラスの破片をひき抜けば、きっと出血量は増えるだろう。そして姉は死ぬだろう。そしたら俺は人殺しだ。今ならまだ間に合う。救急車を呼べば、まだ助かるかもしれないのに。なのに俺は、
「殺して」
再び繰り返した彼女の声はひどく小さく、かすれていた。
「もういい、喋らないで」
ベッドの上に横たわる姉を、春彦は右腕で強く抱きしめた。左腕で、ハンカチを巻いているガラスの破片を握る。春彦の首に、枯れ枝のように細い姉の腕が絡まって来た。その腕は、まだ温かい。春彦は眼を閉じた。そして、左腕に力を入れて姉に突き刺さっていたものを引き抜いた。
鈍い音。生ぬるい触感。姉がわずかにうめく声。春彦の首に蛇のように巻きついていた腕に一瞬だけ力が入り、直後ふっと抜けた。
「…好き」
うめくようなその声は、どちらが発したものかは分からない。
光るガラスの破片と、ビー玉。滴り落ちる赤い血。そして透明の、涙。
空っぽになった姉のそばで、春彦は泣きながら考え続けた。俺も死ぬから。俺も、姉さんのそばに行くから。
姉の死は自殺として片づけられ、身内だけの葬儀はあっという間に終わった。父親はうんざりした顔で言った。
「なんでもっとちゃんと、あいつのことを見ておかなかったんだ」
春彦は父親をにらみ返した。お前に何が分かるんだ。何も、何も知らないくせに。
春彦は自分の部屋へ駆け込むと、引き出しから果物ナイフを取り出して、手首を深く切りつけた。鋭い痛みに歯を食いしばって耐えながら、呪文のように繰り返した。
「忘れないから。絶対に忘れないから。俺は、来年の姉さんの誕生日に死ぬ。それが俺からの、最後の誕生日プレゼントだよ。絶対に忘れない。この傷が、その証拠だから」
春彦のこの行動は自殺未遂として捉えられ、「実は春彦が姉を刺し殺したのではないか」という噂話まで流れるようになった。だが、春彦はそれを止めようともしなかった。自分が殺したようなものだと、思っていたから。