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日記には母の不安がびっしりと書き込まれていた。生活費のことだったり、離婚した父のことだったり。だけどそのほとんどは、わたしのことだった。
優子がまた殴られた。蹴られた。私は優子を守ることすらできない。優子の左目。ごめんね。ごめんね。優子がご飯を食べなくなった。日に日にやせ細っていく娘を見ていられない。あの人と別れた。優子と話す機会も減ってしまった。今日は仕事。明日も仕事。疲れた。生活はぎりぎりで、優子にかわいい服を買ってあげることもできない。ごめんね。こんな母親でごめんね。疲れた。もう疲れた。ごめんね。
「わたしを殺せばよかったんだよ」
もう一度、手帳に向けて吐き捨てた。母が命をかけて守ろうとしていたものには、それほどの価値はなかった。軽くて空っぽの人形だったのに。罪悪感を震えながらトイレに流して、そうやって自分を保とうとするわたしには、価値なんて、ない。
「いなきゃよかったね。最初からさ」
手帳を鞄の中に入れると、ユウは立ち上がった。低い柵から上半身を乗り出して、下を覗きこむ。細い路地裏の黒いコンクリートと、マンホールが見えた。人影はない。
母が最後に見た景色は、どんなだっただろうか。
その景色を見るのは、簡単だった。ここで足を地面から離せばいい。ただそれだけのこと。身体がぐちゃぐちゃになるかもしれないけど、それでもいい。こんな身体、むしろぐちゃぐちゃになってしまえばいいんだ。
目をつむった。あの時と同じように。そしてあの時と同じように、感情をなくす。足を離すと、ふわり、と身体が浮いた。そして落ちた。
ただ、ユウが思っていたのとは逆の方向に。
前に、そして下に落ちるはずだったユウの身体は後ろへと引っ張られ、屋上の上に倒れこんだ。目をつむっていたので受け身を取れず、背中をしたたかに打ちつけて一瞬息がとまった。
「はあっはあっ…はっ…」
ゆっくりと目を開ける。目の前にいたのは、制服姿のリナだった。ユウを引っ張った勢いで自分も倒れたらしく、尻もちをついている。ここまで走ってきたのか、息を切らしていた。
「なんで…」
ぱあんっ!
軽い衝撃。それからジンジンと熱くなる左頬。ビンタされたと気付いたのは、頬が熱くなった後だった。「なんで止めたんだ」という言葉はその衝撃でどこかへ吹き飛び、代わりの言葉は何も思い浮かばなかった。
おそるおそる、リナの方を見る。いつかの父親の顔を思い出していた。怒りや侮蔑しか感じられないような、あの顔を。だが、リナの顔は父親のその顔とは違っていた。
彼女は歯を食いしばって、目から大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。自分を叩いたはずの右手はぶるぶると震えている。いや、腕ではなくて身体も、目も震えていた。
リナが泣きながら、もう一度右手をあげた。また叩かれると思い、目をつむって身構える。次の瞬間、身体が温かくなった。
それは殴られたからではなくて、抱きしめられたからだった。
強く吹く風で冷えていたわたしの身体が、徐々に温かさを取り戻しはじめる。
「…バカ」
震える声を絞り出すように、リナが囁いた。わたしはそっと目を開ける。
「バカ、バカ…バカァ…!」
リナはそのまま、声をあげて泣き始めた。震える彼女の肩は、涙は、それでも温かい。自分の中で凍っていた何かが溶けるような感覚。わたしはそっと目を閉じた。泣いている母に抱き締められた時、わたしは「大丈夫」と言って笑っていたはずだった。
「ごめ…」
喉に何かがつっかえて、最後まで言うことも、笑うこともできなかった。言葉の代わりに、涙があふれ出した。泣いたのは久しぶりだった。
自分がなぜ泣いてるのかもろくに分からないまま、わたしは泣き続けた。