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携帯が何度も何度も震えている。鞄の中で何度も唸るそれを、ユウはようやく拾い上げた。日は大分傾いている。冷たく乾いた風が、勢いよく吹き抜けた。
電話をかけてきた相手がリナだということは、電話に出る前から分かっていた。ただ、通話ボタンを押したとたんに何を話せばいいのか分からなくなった。何も言わずに黙りこむ。手元にある、黄ばんだ手帳に視線を落とした。
「…ごめん」
ようやくそれだけを振り絞ると、ユウは電話を切った。
『ごめん』
何度も言われたその言葉を、リナたちに。そして、母に。
お父さんにはきっと悪い魔法がかけられているに違いない。そんなことを考えていた。いつもはとてもいい人だった。わたしにも母にも優しかった。だけど毎日数時間、悪い魔法がかけられる。するとお父さんは普段は見せないようなとても怖い顔をして、母と自分に暴力をふるった。そして魔法が解けると、泣きながらわたしたちに謝った。ごめん、ごめん、すまなかった。泣きながら土下座する父親を、暴力された回数と同じくらい見た。
母は父のもとを離れようとしなかった。わたしを手放そうともしなかった。父が泣きながら謝る姿を見て一緒に泣いて、そのあといつもわたしに謝った。ごめんね、ごめんね。お父さんはそのうちきっとこんな事しなくなるから。ごめんね、ごめんね。
母が泣きながら謝る姿は、見るのも辛かった。だからいつも「大丈夫だよ」と笑顔で返していた。少しでも母を安心させたかった。父の暴力で左目が潰れたその時も、わたしは泣きながら笑っていた気がする。大丈夫だよ、大丈夫だよって。
だけど母は、わたしの左目が潰れてからは今まで以上に謝る回数が増えた。
ごめんねごめんね。女の子なのにごめんね。綺麗な顔だったのにごめんね。ごめんね…。
その頃から私は、食べることをやめた。
大丈夫だよ。左目が潰れたって、スタイルが良ければ大丈夫だよ。痩せてれば大丈夫だよ。ねえ、わたし大丈夫だよ。
ユウは嗤った。わたしはなんで、こんなにゆがんだ答えしか出せないんだろうか。
ユウが小学5年生の時、両親は離婚した。DV、という言葉をユウが知ったのは大分後のことで、この頃にはまだよく理解していなかった。ユウは母親に引き取られ、小さなアパートでの二人暮らしが始まった。
ただ、それも長くは続かなかった。
あまり食事をとらないユウを、母親はいつも心配そうな目で見ていた。ユウはそれでも大丈夫だと言い続けた。母親は朝早くから夜遅くまで働いていたため、食事のことはユウ自身でコントロールしやすかった。朝ご飯を少しだけ食べて、後は抜いていた。体重はどんどん減ったし、髪の毛も抜けた。それでもやめられなくなった。
その日母親は出掛ける前に、寝ている自分をゆすり起こした。いつもなら起こさないようにそっと出て行くのに。ユウは半分寝ボケていたが、その時のことは何故か今でもよく覚えている。
「行ってくるね」
「うん」
「…ごめんね」
母は最後まで、ごめんと言った。
その日の夕方、母はビルの屋上から飛び降りた。
強い風の吹く屋上は、予想以上に寒かった。母の死んだ夏の日は、寒くなかっただろうかと考える。夕方の屋上で、母は最後に何を考えていただろうか。
ごめんね、だった気がする。だとしたら不憫だ。
黄ばんだ手帳を開く。小さな手帳に几帳面な母の文字で書かれた日記には、やはり何回もごめんねと書かれていた。
母が死んだ時、遺書やそれらしいものは何も残されていなかったと祖母から聞いた。だけどそれはただ隠されていただけで、本当は日記が残されていた。祖母が隠し忘れたこの日記を発見したのはつい最近で、それまではこの日記の存在すら知らなかった。
中身を読んで最初に思ったことを、もう一度声に出した。
「わたしを殺せばよかったのに」
その声は強く吹く風に流されて、消えた。