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トイレから出ると、廊下にリナが立っているのが見えた。よく見ると、自分の鞄を持っている。
「…大丈夫?」
リナの心配そうな声を聞きながら、手洗い場の蛇口をひねった。手で水をすくってうがいをする。そのあと、口元を洗った。
「シオンに見られたな」
わたしは苦笑しながら、ポケットから水色のハンカチを取り出した。お返しだと言ってリナがくれた白いハンカチは、こういう時には使いたくなかった。
「そうじゃなくて、顔色悪いよ」
リナが不安そうな顔でこちらを見てくる。リナの顔を見ることができず、何もないところを見ながら呟いた。
「大丈夫」
これで何回目だろうかと、心の中で自嘲する。
わたしが普段ほとんど食べ物を口にしないことを、そして、何かに耐えきれなくなると暴飲暴食してそのあとトイレですべて吐きだす事を、リナに知られたのはいつごろだっただろうか。そのことを知った時、彼女はまず私の身体を心配した。
「気持ち悪いとか、嫌だとか思わないのか。自分で食べた物を、自分で吐き出してるんだよ、わたし」
そう言った私に、リナはあっさりと言い返した。
「全然思わない。…そう思わない私の方がおかしいのかな」
そう言って、笑った。
「いつかのお返し」
便座に顔を突っ込んで、食べた物を戻してる時ほど、みじめな時はない。胃の中が空っぽになればなるほど、私の中も空っぽになっていく。食べ物を無理やり詰め込んだところで、自分は空っぽだった。
最初はただ、食べるのを我慢しているだけだった。食事をしている時が、一番お父さんに『魔法』のかかりやすい時だった。だからご飯を食べるのは嫌いだった。
それがいつからか、痩せるためへと変わっていった。ああそうだ。左目が潰れてからだった。母が毎晩泣くようになってから。わたしはなんとか、綺麗でかわいい娘でいようとした。たとえ左目が潰れても、大丈夫だと思わせたかった。そのために痩せようと思った。それだけだったのに。
食べるのを拒否して、怖がって。だけどそんなのがいつまでも続くはずがない。ある日突然何かの糸が切れたように食べて、そのあと太るのが怖くなって吐き戻した。あれが始まりだった。
やせ細った身体は、綺麗なんてものからは程遠かった。知ってはいたけど、食べるのはどうしても怖かった。
「何かあった?」
リナの声で、現実に引き戻される。駅へ向かう歩道にはあまり人影がなかった。
「…なにも」
「だけど最近、様子が変じゃない。シオンもそう言ってたよ」
「…そうか?」
鞄を握りしめて、それから抱え込んだ。中に入ってるものを見られないように。
「言いたくないならいいけど」
リナは明るめの口調でそう言うと、
「だけど抱え込まないでね」
と付け加えた。
「…ああ」
学校の最寄り駅が見えて来たので、わたしは定期券を取り出した。リナの家はこの近くなので電車には乗らない。駅まで一緒に歩いて帰るのが、いつの間にか当たり前になっていた。
選挙カーからの演説が響いている路上で、リナがその音に負けじと叫ぶ。
「気をつけて帰ってね!」
わたしは改札の方を見ながら、「ありがとう。じゃあな」と返した。
いつもは「また明日」と言っていたことを、その時は忘れていた。