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滴り落ちる赤がコンクリートに落ちて、小さな模様を作った。
それを見て我に返る。途端に、蝉の鳴き声が近くなった。かすかに聞こえる水しぶきの音と、ホイッスルの音。少しだけひんやりとした影の中。
ぽたり。
自分の左腕から滴り落ちた血がまた一つ、地面に模様を作る。ぼんやりした頭で、腕の傷を確認する。思ったより深く切れている。それ以外に、特に思ったことはなかった。
夏の体育は毎年恒例の水泳で、私はうんざりしていた。水着どころか、半袖を着れるような腕でもなかった。別にこの傷を晒してしまったって構わないけど、詮索されるのは鬱陶しい。結局体育の時間はすべて見学することにした。
光を反射する水。響くホイッスル。人の声。水の音。蝉の鳴き声。蒸し暑い空気。
いつ限界が来たのかは覚えていない。とにかく、その場にいたくなかった。トイレに行くと嘘をついてプールサイドをこっそりと抜け出してきた。
リナはあたりを見渡した。ほとんど一日中影になっている、少しひんやりとした体育館裏だった。無意識のうちにここまで来ていたらしい。確かにプールサイドから一番近くて人目に付かない場所はここだが、どうせならトイレの個室にこもって切ればよかったのにと苦笑した。
腕を見下ろす。赤く染まった腕に、無数の線。ああやっぱり汚いな、と思う。水着姿の皆の腕はとてもきれいだった。腕だけではなく、いろんな意味で私は汚い。
右手に握っている血に染まった剃刀を見る。お気に入りのピンクの剃刀は、いつも持ち歩いていた。ただ、手当の道具は持っていない。
とりあえず腕と剃刀を洗わないと。あと、止血。リナはフラフラと歩き出した。体育館横の細いスペースに、水道があったはずだ。放課後には部活動のために使われているその水道も、この時間帯には使われていない。そこで腕を洗って、なんとか止血して、プールサイドに戻らないと。
体育館裏から横に出ようと、角を曲がったリナは絶句した。水道のそばに誰かいる。しかもそれは、見たことのある顔だった。
人一倍小柄な彼女は、整った顔に眼帯をしているせいか、ひどく目立っていた。いや、目立っているのは顔だけじゃなく体型もだろう。彼女はとても細かった。昼食の時間になると教室を出て行って、授業前に戻ってくる。人見知りが激しいのか、クラスではほとんど話さない。学年の間でも、結構有名な子だった。
彼女はこちらを見て、そのまま固まった。そんな彼女の様子を見て私はようやく、自分が腕の傷を晒したまま歩いていた事に気付いた。慌てて腕を背中の方に持っていくが、今更だ。
何を言われるのかは予想がつく。今までいろんな人間に言われた言葉。
「気持ち悪い」
「かわいそう」
「頭おかしい」
だけど彼女は、そのどれも言わなかった。
「…とりあえず、洗いなよ」
ひどく落ち着いた口調だった。私は思わず、彼女の腕を見た。半袖を着ている彼女の腕はやっぱり細くて、だけど傷なんて見当たらない。
彼女も私も黙った。蝉の鳴き声がうるさい。既に見られてしまったんだから、もういいや。私は水道に近づいて、栓をひねった。暑さの所為で、生ぬるい水が出てくる。その生温い水に、自分の左腕を晒した。透明な水は赤くなって、排水溝へと流れて行く。血は止まる様子もない。
ぬるかった水が冷たくなり始めたころ、私は彼女の方をもう一度見た。彼女は片目で、私の方をじっと見ている。その眼から、感情は読み取れなかった。
「…どうしてここにいるの?」
訪ねたのは私の方だけど、私が訊かれてもおかしくない質問だった。だけど彼女は確か、気分が悪いとかで保健室に行っていたはずだ。
「嫌いだから」
彼女は小さな声ではっきりと言い放った後、付け加えた。
「教室も保健室も」
「…ふうん」
気の利いた返事が思い浮かばなくて、適当な返事をする。流れる水の音が、妙に心地いい。
「血はとまったか?」
彼女が立ち上がり、こちらの方へやってくる。どうしようかと思っている間に、傷口を覗かれた。
「深いね」
見たままの感想を、特に感情こめずに言われる。隣に立った彼女は、やはりかなり小さかった。
「怖くないの?」
私は思わず、彼女に訊いた。彼女は私の方を見上げて、それからまた傷へと視線を戻しながら言った。
「人よりは見慣れてる」
「そうじゃなくて」
私は彼女の細い腕を見ながら、少しだけ声を低くして尋ねた。
「私のことが怖くないの」
その声は思った以上に震えた。
「おかしいとか思わない?こんな…」
「痛そうだとは思う」
彼女は相変わらず小さな、だけどこちらにも聞こえる声ではっきりと言った。
「だけど怖いとかおかしいとかは思わない」
「…おかしいでしょ?」
「おかしくない。…それか、そう思うわたしがおかしいのかもな」
私は何も言えなくなって、黙り込んだ。彼女は自分の左手を眼帯の上に乗せて、何かを確認するように言った。
「痛くないのか?」
「…痛くないよ」
「うそ」
断言的な口調で、彼女は言った。だけど本当に痛くない。私は自分の左腕を確認した。いまだに血の止まっていない左腕は、やはり何も感じていなかった。
「本当よ。痛くない」
「痛いのはきっと、腕じゃないんだよ」
彼女は私に向かって真っ白ハンカチを差し出してきた。私はそのハンカチと、彼女を交互に見比べる。彼女は私の目を見たまま、動かなかった。私はもう一度ハンカチに視線を落とす。こんな綺麗なハンカチに、私の汚い血をつけるなんてできない。
ためらっている私の腕を、傷口に触れないように彼女は掴んだ。そして、傷口の上から何のためらいもなしにハンカチを巻き始めた。白い布ににじむ赤。 私の腕は震えていた。
「本当に痛いのは、腕じゃない。痛がってるのは、心の方」
彼女はハンカチをぐっと縛ると、私の左手を包み込むように両手を軽く添えた。
「…そんなこと、ないよ」
私は笑った。つもりだった。
「痛くないよ。どこも」
「…だったらなんで、泣いてるの」
私は笑えていなかった。私は泣いていた。本当に震えていたのは声でも腕でもなくて、それはきっと私の心だった。
「血が止まらないようなら、保健室に行った方がいい。私は保健室が苦手だけど、先生はいい人だから」
彼女はそう言うと、校舎へ向かって歩き出した。
「…坂東さん!」
私はようやく、彼女の名前を呼んだ。彼女が振り返る。
「あの…」
振り返った彼女を見た途端、何を言えばいいのか分からなくなって口ごもった。
「ハンカチなら別にいい。あげる」
彼女は私の顔を見ながら、ほんの少しだけ微笑んだ。それでも何も言わない私に、小さな声をさらに小さくして言った。
「…このことは言わない。誰にも」
再び歩き出す彼女を、ただ見つめた。濡れているはずのハンカチが、温かかった。