2
「あっちい~…!!」
レキがさも暑そうな声を出した。会議室Cには、冷房がない。ドアを開けた瞬間こちらにやって来るむせ返るような空気を、春彦はもろに浴びた。一気に汗が噴き出たような気がする。
「とりあえず窓開けようぜ、窓!」
と叫びながら、レキが窓へと駆け寄る。錆びたカギに少々手こずってから、窓を全開にした。近くなる蝉の声と、室内に勢いよく入り込む生ぬるい風。その風は乱雑に積み上げられていたプリントに直撃し、プリントの束が床へと崩れ落ちた。何枚かはしばらくひらひらと空中を舞った後、春彦の足もとにまで落ちてきた。
「うっわー!すっげーメンドイことになった!」
レキが面倒くささ丸出しの声で叫んだ。
「…いいんじゃないのか、このまま放っておいて。どうせこのプリント、使わないんだろ」
「…なにお前、会議室が汚いままでもいいのかよ」
「そりゃ嫌だが、拾うのはもっと面倒くさいね。気になるならお前一人で掃除しろよ、レキ。窓を開けたのもお前だろ」
「…。」
レキはしばらく、春彦の方を睨んでいた。
「うっわなにこれ!!泥棒でも入ったの!?」
会議室に入ってくるやいなや、リナが叫んだ。床一面に散乱した、黄ばんだプリント。窓から入ってくる風がカーテンをバタバタと揺らしていて、「犯人はここから逃げました」と言わんばかりの演出になっていた。
「風の仕業だっつうの。俺の所為じゃねえし」
「あんたたち、よくこんなきったない部屋にいられるわね!!ほら、片づけなよ」
「俺は別にこのままでもいい」
と開き直るレキ。
「まあ、気になったやつが片づければいいんじゃないのか」
と春彦。
「信じらんない!」
リナは机の上にドカッと自分のカバンを置くと、しゃがみこんでプリントを拾い始めた。
春彦はドアの方を見た。ユウの姿が見えない。
「ユウは?」
「あれ、言ってなかった?」
リナがせっせとプリントを集めながら言う。
「ユウは今日、学校に来てないわよ」
「へえ…。珍しいな」
自殺部は春以降、結局毎日のように放課後に集まっていた。バイトをしているレキは休むことも多かったが、ユウと春彦は皆勤だった。リナはたまに「用事があるから」とユウに伝言して、休むことがあった。
リナとレキならともかく、ユウがいないとは珍しい。
「ユウのお母さんの命日か」
レキが思い出したように言った。春彦は驚いて、レキの方を見る。
「ユウの母親、亡くなってんだよ。今は母方のおばあちゃんと一緒に住んでんの」
「そうなのか…」
そのまま、沈黙。リナがプリントを拾い上げる音が、やたらと大きく聞こえる。せっせと集めるリナの後ろ姿を見ていたら、さすがに不憫になってきた。
「手伝うよ」と言って、春彦はしゃがんだ。
「シオンお前!!裏切ったな!!」
「別に。拾いたくなっただけー」
春彦は笑いながら、足元にあるプリントを集めていった。額から汗が落ちて、プリントに染みを作った。今日は本当に暑い。
集め終わったプリントを、リナに手渡した。
「はいはい、残りは私が綺麗に積み直しとくから。どうもありがと」
と言いながら手を伸ばすリナ。手を伸ばしたせいで、長袖ブラウスの袖が少し下に落ちた。
そこから覗いたのは、何本もの茶色い線だった。
「…!」
春彦はその線に見覚えがあった。そうか、リナは…。
「リナ、見えてんぞ」
指摘したのはレキだった。リナは自分の腕を見て、ああ、と苦笑した。
「増えてんじゃねえのか、傷」
「そんなことないわよ」
「嘘つけ。この前までそんなとこに縦線なんてなかっただろうが」
レキとのやりとりを、春彦は無言で見守りづける。どこで突っ込めばいいのか分からない。そんな春彦の様子を見て、レキは苦笑した。
「シオンのリストバンドの中身と、同じようなもんだ」
言われて春彦は、自分の左手首のリストバンドを握った。その下にあるのは、ナイフでえぐるように切った傷跡。
春彦はリナと同じような傷跡を、自分の手首に見たことがあった。茶色く色素沈着した傷。時間がたてば白くなるだろうその傷を。春彦の方を見たリナは、少しだけばつの悪そうな顔をしてから笑った。
「私もね、自分の身体切るの。それだけ」
淡々としているのに、深く感情のこもった声だった。