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第一話「父の住所」

ガタン、ゴトン。

窓から差し込む光の筋に、細かな埃が浮かんでいる。

電車が揺れるたび、ゆっくりと流れが変わる。上へ浮くもの。斜めに落ちるもの。光の外へ出たものは見えなくなり、また別の埃が、その中へ入ってくる。

長谷結衣(はせゆい)は、扉の脇に立っていた。

胸元まで伸びた黒い髪が、揺れに合わせてわずかに動く。毛先までまっすぐに整った髪に光が差すたび、なめらかな艶が走った。

窓の外を、家並みが後ろへ流れていく。

建物が陽を遮る。

結衣の横顔に影が落ちた。

また光が戻る。

黒く見えていた瞳に陽が入り、その一瞬だけ、濃い茶色が浮かぶ。

ガタン、ゴトン。

クリーム色の袖を光が通る。

少し遅れて、明るい茶色のパンツの上を影が滑った。

また光。

また影。

窓の外では、街が流れ続けている。

結衣はそこを見ていた。

肩に掛けた鞄の中には、一枚の紙が入っている。

昨夜、自分で住所を書いた。

スマートフォンにも残してある。

それでも、紙にも書いた。

ガタン、ゴトン。

結衣は鞄の上から、その紙のある辺りに指を置いた。

今日は、父に会いに行く。


電車が速度を落としていく。

ガタン、ゴトンという音の間が、少しずつ長くなる。

窓の外を流れていた街がゆるみ、やがて止まる。

ドアが開いた。

ホームの空気が入り込んでくる。

結衣は鞄を肩に掛け直し、人の流れに混じって電車を降りた。

駅を出ると、十月の陽射しが思ったより明るい。

歩道に落ちた人の影が、足元から短く伸びている。

結衣はスマートフォンを取り出した。

目的地までは、ここから十分ほど。

父のことを調べ始めたのは、一週間前だ。

藤城健二(ふじしろけんじ)。

検索欄に名前を入れても、出てくるものはほとんどない。

いくつかの古い記録を辿って、ようやく見つけたのが、日野市にある小さな画廊のページだった。

そこに父の絵が一枚、載っている。

画廊では、父の作品を何点か預かっているらしい。

念のため、その住所は昨夜、紙にも控えておいた。

結衣は画面を閉じる。

大通りを離れ、細い道へ入った。

車の音が遠くなる。

住宅の間に小さな店がいくつか並び、その先に、白い看板が見えた。

黒い文字で、画廊の名前が書かれている。

結衣は足を止めた。

ガラス越しに、壁に掛けられた絵が見える。

ここだ。

扉の前まで行き、手を伸ばす。

指先が取っ手に触れたところで、一度止まった。

それから扉を押す。

小さな鈴が鳴った。


鈴の音が、狭い店内にひとつ残った。

外より少し暗い。

白い壁には、何枚かの絵が間を空けて掛かっている。油絵の具と、古い木の匂いがした。

結衣が扉を閉めると、奥で紙の擦れる音がする。

「いらっしゃいませ」

棚の向こうから、白髪の男が顔を出した。

六十代の終わりくらいだろうか。くたびれたえんじ色の長袖シャツに、何の変哲もない黒いチノパン。胸元には、細いチェーンで眼鏡が下がっている。額を横切る皺だけが、やけに深い。

「どうぞ。ゆっくり見てください」

「あの」

男が結衣を見る。

結衣は鞄からスマートフォンを取り出し、何度も開いたページを表示した。

「この絵なんですけど」

差し出された画面を見るため、男は胸元の眼鏡を持ち上げた。

レンズの向こうで、目が少し大きくなる。

「ああ、藤城さんの」

父の名前が、知らない人の口から出た。

結衣の指に、わずかに力が入る。

「藤城健二さんですよね」

「そうです」

男は画面と結衣を交互に見た。

「その絵なら、まだここにありますよ」

店の奥を指す。

一番奥の壁に、一枚の風景画が掛かっていた。

結衣はそちらへ歩く。

青とも灰色ともつかない空。その下に石造りの家が並び、細い道が奥へ続いている。

画面で見たものと同じ絵。

けれど、近くで見ると色が違って見えた。

重なった絵の具。乾いた筆の跡。石の壁に残された、細かな色のむら。

結衣は絵の前で足を止める。

父の絵だった。

小さい頃、何度も見ていた。

説明できるほど、何かを覚えているわけではない。

それでも、わかった。


「お知り合いですか」

男の声が背中からした。

結衣は絵を見たまま答える。

「父です」

少し間があった。

振り返ると、男は眼鏡を外しかけたところで手を止めている。

「藤城さんの娘さん?」

「はい」

「そうですか」

眼鏡が胸元へ下りる。細いチェーンが、くたびれたえんじ色のシャツの上で揺れた。

「これ、ご本人が持ってきたんですよ」

「父が?」

「ええ。ずいぶん前ですけどね」

結衣は絵へ目を戻す。

父がこの絵を抱えて、この店の扉を開けた。

その姿を思い浮かべようとする。

けれど浮かんでくるのは、小さい頃に見ていた父ばかりだった。

「今も、父と連絡取れますか」

「いや」

男の額に深い皺が寄る。

「しばらく顔を見てませんね」

「住所は……わかりますか」

男が結衣を見る。

すぐには答えなかった。

「両親が離婚してから、会ってないんです」

「そうでしたか」

男は胸元の眼鏡に手を触れる。

「ちょっと待ってください」

店の奥へ入り、しばらくして一冊の帳面を持って戻ってきた。

胸元の眼鏡を掛け、ページをめくる。

指先で一行ずつ追っていく。

「あった」

指が止まった。

「最後に絵を預かったときの住所なら、残ってます」

結衣は男の手元を見る。

「今も住んでるかどうかまでは、わかりませんよ」

「それでもいいです」

男は結衣をしばらく見てから、カウンターにあった紙を一枚取り、住所を書き写した。

ペン先が止まる。

紙が差し出された。

「ありがとうございます」

結衣は両手で受け取る。

見覚えのない住所。

それを鞄へしまい、扉の前まで行ってから振り返った。

「本当に、ありがとうございました」

深く頭を下げる。

「いやいや」

男は少し困ったように笑った。

「会えるといいですね」

結衣はもう一度頭を下げ、扉を開ける。

小さな鈴が鳴った。

画廊を出ると、十月の陽射しが目に入った。

スマートフォンに住所を入れる。

ここから歩いて十五分ほど。

結衣は住宅地へ向かった。

大通りから離れるにつれ、車の音が遠くなる。

塀や植木の影が、道の上を横切っている。

画面を確かめながら歩いていくと、やがて二階建ての小さなアパートが見えてきた。

薄い灰色の外壁。

外階段の手すりには、ところどころ錆が浮いている。

結衣は足を止めた。

スマートフォンの住所と見比べる。

間違いない。

一階の奥。

表札に、

藤城

とある。

結衣はその二文字を見つめた。

十年以上、会っていない。

今の父の顔を知らない。

何を話すのかも、まだ決めていない。

それでも、ここまで来た。


インターホンを押す。

室内で音が鳴った。

返事はない。

もう一度押そうとしたとき、扉の向こうから足音が近づいてくる。

鍵が回る。

扉が開いた。

出てきたのは、知らない女だった。

五十歳くらいだろうか。髪を後ろでひとつにまとめ、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。

「はい」

「あの……藤城健二さんのお宅ですか」

女の表情が、わずかに変わった。

「そうですけど」

結衣は一度、唇を閉じる。

「長谷結衣といいます」

女は黙っている。

「藤城健二の、娘です」

女が瞬きをした。

「……結衣さん?」

「はい」

扉を持っていた手が、少し下がる。

「主人から、聞いています」

主人。

その言葉が、結衣の中に少し遅れて入ってきた。

「あの、父は」

女は目を伏せる。

「主人は」

短く息を吸った。

「三ヶ月前に亡くなりました」

道路の向こうを、車が一台通り過ぎた。

音だけが遠ざかっていく。

結衣は、動かなかった。

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