A「就活」
大学のキャリアセンターの説明会会場。
薄暗いホールに、スクリーンが映っていた。
「当社は、グローバル金融サービスの提供を通じて、顧客のニーズに応え続ける企業です」
説明者の男性はそう言った。新卒採用の担当者らしい。スーツがぴったりしていて、笑顔が作られているように見えた。でもそれが普通なのだろう。
会場の大半の学生が、ペンを握っていた。
俺の隣に座った女の子は、一字一句逃すまいと、一生懸命メモを取っていた。手が真っ直ぐで、背筋も伸びていた。その横顔には、真摯さがあった。
俺はペンを握ったまま、紙に何も書けなかった。
「グローバル金融サービス」
その言葉が、何を意味しているのか、わからなかった。
グローバル。金融。サービス。どれもこれも、俺の人生と何の関係があるのか。
そんなことを考えてしまったから、説明者の言葉は耳の中を素通りしていった。
隣の女の子は相変わらずメモを取り続けていた。
その時、俺は思った。
この子は、わかっているんだ。世界のルールを。社会のルールを。だから、自分の道が見えているんだ。
でも俺は、ここでペンを握ってるのに、何を書けばいいのか、わからない。
なぜ就職しなければならないのか。
その根拠が、わからない。
説明会はあと30分続いた。
スクリーンは、会社の数字や実績を映していた。売上高。従業員数。平均年収。オフィスの写真。若そうな社員たちが笑顔で並んでいた。
どれを見ても、「グローバル金融サービス」という言葉の意味は、増してこなかった。
だから、俺のペンは、相変わらず紙に何も書かなかった。
説明会が終わると、すぐに会場から出た。
トイレに行った。水を飲んだ。頭がぼんやりしていた。
会場を出た後、キャリアセンターの外のカフェに入った。コーヒーを頼んで、席に座った。
窓の外の風景を眺めていたら、座ったばかりの隣の席に、誰かが座ってきた。
「さっき説明会でしたよね?」
振り返ると、女性だった。元気よさそうな雰囲気で、笑顔で話しかけてきた。
「あ…そうですね」
「私も今から別の説明会なんですけど、ちょっと時間あるので。よかったら、情報交換しませんか?」
彼女は、テーブルの上に資料をいくつか広げた。
会社名。業界。福利厚生。年収。業界用語まで、彼女はいろいろな言葉を知っていた。
「私は、マーケティングに興味があるので、そういう会社を中心に受けてるんですけど。あなたは、どんな業界が好きですか?」
彼女の質問は、目線が優しかった。
俺は、その質問に答えられなかった。
その後、何社か説明会に行った。面接も受けた。
何社かは落ちた。
1社目の落選通知を見た時、心臓がしめつけられた。
落ちた。
それだけで、十分だった。
次の面接の前夜、眠れなかった。枕に頭をつけたまま、天井を見ていた。
あのカフェの女性は、どんな感じで面接を受けてるんだろう。
親には、どう報告するんだろう。
親。
その言葉が頭をよぎった。
家に帰ると、母が言った。
「説明会、どうだった?」
その質問に、どう答えるべきか、わからなかった。
だから、「まあ、頑張ります」と言った。
でも、本当は言いたかった。
「母さん、俺、やりたいことがないんだ」
「なぜ就職しなければならないのか、わからないんだ」
でも、言わなかった。
なぜなら、母の「頑張ってね」という笑顔が、それを許さないから。
2社目も落ちた。
3社目も落ちた。
その度に、焦りが増していった。
SNSを見ると、同じ大学の友人たちが、「内定もらいました!」と書いていた。
それを見る度に、心が沈んだ。
あいつより、俺の方がマシなのに。なぜ?
あいつは、本当にやりたいのか。それとも、親に言わされてるのか。
そんなことを、悪く考えるようになってしまった。
でも、それは、嫉妬だった。
面接の度に、俺は『いい子』を演じた。
「やりたいことは何ですか?」と聞かれて、「社会貢献です」と答えた。
本当は、そんなことを考えたことすらなかった。
でも、答えた。
「なぜこの業界なのですか?」と聞かれて、「成長性があると思ったから」と答えた。
本当は、「親が『安定してる』と言ったから」だった。
でも、言わなかった。
面接の度に、『言いたくないこと』を言わされるような苦しさが、心に溜まっていった。
それは、毎日毎日、自分の心を『ゴミ箱に捨てる』ような感覚だった。
その中で、その企業との出会いがあった。
説明会の時から、何かが違った。
「当社は、ITとデジタルの力で、社会をより良くすることを使命としています」
その言葉が、心に『刺さった』。
会場の他の学生の反応も違った。
みんな、一生懸命、メモを取っていた。
あ、この場所には、『本気の人』がいるんだ。
俺も、その『本気』に、触れたい。
その気持ちは、切実だった。
だから、その企業を『特別』だと思った。
いや、その企業を『救い』だと思った。
その企業の面接官は、確かに『違った』。
「最近、20代の人の中でこういう活動をしてる人、見かけませんか?」
その質問は、優しかった。
強制ではなく、『あなたの考えを聞きたい』という姿勢が、伝わってきた。
その時、俺の心は『開いた』。
この人は、俺の本音を聞きたいんだ。
この企業は、本当に『俺』を見てくれてるんだ。
その幻想は、甘かった。
というより、その幻想が『必要』だったんだ。
数社の落選で、心が『空っぽ』になっていた時に、その幻想は『水』のようだった。
だから、それに、すがった。
最終面接に進んだ時、俺は『全力』で『いい子』を演じた。
いや、その時点では、それが『演じること』だと、気づいていなかった。
本当に、それが『自分』だと思い込んでいた。
「5年後、どうなりたい?」と聞かれて、「会社の成長に貢献できる人になりたいです」と答えた。
その言葉を口にした時、その企業への『幻想』は、完全に『現実』に変わった。
あ、この企業なら、大丈夫だ。
俺は、ここでやっていける。
その確信は、『落選の恐怖』から逃げるための、『逃避』だった。
でも、その時は、そんなことは、考えもしなかった。
内定をもらった時、心が『ふわり』と浮いた。
親に報告すると、母は喜んだ。
「頑張ったね」
その言葉を聞いた時、初めて『安心』できた。
でも、その『安心』の代価として、俺は『何か』を失っていた。
それが何かは、当時、わからなかった。
周囲から、「ブラックらしいよ」と聞いた時、俺は、その情報を『削除』した。
いや、『信じたくなかった』。
なぜなら、もし、それが本当なら、『俺の判断』が『間違い』だから。
そして、『間違った判断』をした『俺』を、認めたくなかったから。
だから、その企業の『いい部分』だけを、『メガネ』のように、かけた。
入社して、1ヶ月目。
営業訓練の教科書に書いてあった。
「顧客のニーズを引き出し、最適なソリューションを提案する」
でも、実際の営業先では、違った。
年寄りの夫婦に、「この商品は、あなた達の『老後を守る』ものです」と説明した。
でも、その『老後を守る』という言葉は、『嘘』だった。
本当は、『高額な利益を俺たちに与える』商品だった。
その時、心が痛んだ。
でも、上司は、そのシーンを見て、「いい説明だ」と褒めてくれた。
その褒め言葉が、余計に、心を『蝕んだ』。
3ヶ月目。
残業が多かった。毎日21時。時には23時。
帰りの電車の中で、母からのLINEを見た。
「今日も遅かった?無理しないでね」
その言葉を見た時、胸が『つぶれるような』感覚を覚えた。
母は、『安定した企業』に入ったから、『安心』してくれてるんだ。
だから、俺は、『安定』を失うことはできない。
だから、残業も、我慢しなければならない。
その『鎖』は、『愛情』の名の下に、俺を『閉じ込めた』。
6ヶ月目。
営業訪問で、年寄りの母親に、「この商品なら、お子さんに『迷惑』をかけずに、『遺産』を残せます」と説明した。
その時、その母親の『不安そうな顔』が、俺の『母親の顔』に『重なった』。
あ、俺は、この『母親』を騙してるんだ。
そして、俺の『母親』も、誰かに『騙されてる』かもしれない。
その時、初めて、俺は『社会』という名の『騙し合い』を、『体験』した。
1年目。
営業ミーティングで、上司が言った。
「今月の目標は、○○万円。頑張れ」
その言葉を聞いた時、何かが『引っかかった』。
いや、『引っかかった』ではなく、『合点がいった』。
この企業は、『社会をより良くする』ために、営業をしてるんじゃなくて、『売上を上げる』ために、営業をしてるんだ。
そして、俺は、その『売上』のために、『心』を売ってるんだ。
その瞬間、俺は『目が覚めた』。
いや、『目が覚めた』のではなく、『気づいた』。
『気づいた』のではなく、『認めた』。
何を『認めた』のか。
俺は、『騙す側』になっていた。
1年と1ヶ月。
俺は、会社を辞めた。
親に報告した時、母は、黙った。
そして、数秒後に、「何か理由があるなら、聞くけど」と言った。
俺は、何も言わなかった。
なぜなら、『何が正しいのか』わからなくなったから。
会社が『悪い』のか。親の『期待』が『悪い』のか。それとも、『俺の判断』が『悪い』のか。
全部が『悪い』のか。全部が『正しい』のか。
わからなかった。
辞めた後、3ヶ月が経った。
毎日、何もしなかった。
ベッドの中で、スマートフォンを見た。
SNSには、同じ大学の後輩たちが、『企業研修』の様子を投稿していた。
一人の女性は、「新卒研修、頑張ってます!」と書いていた。
その女性の『笑顔』が、『本物』なのか『演技』なのか、わからなかった。
でも、その投稿を見た時、変な感覚を覚えた。
あ、『俺』も、あのタイミングで、あの『笑顔』を投稿していたかもしれない。
その夜、スマートフォンを開いた。
採用サイトをいくつか見た。
最初に見たのは、『IT企業』のサイトだった。
「デジタルの力で、社会をより良く」
その謳い文句が、画面に『輝いて』いた。
俺の指は、『詳細を見る』ボタンに、伸びていた。
その時、俺は、『何か』を思い出そうとしていた。
でも、思い出さなかった。
いや、『思い出さなかった』のではなく、『思い出すことを、拒否した』。
指は、ボタンの上で止まった。
でも、次の瞬間、クリックしていた。
『説明会日程』が、表示された。
来月の15日。
その日程を見た時、『何か』が、『蘇った』。
でも、『何か』が『蘇った』ことすら、『認識しなかった』。
俺は、その日程を、『お気に入り』に登録した。
その時、俺は、『気づいていなかった』。
気づいていなかった、というより。
気づくことを、『拒否していた』。
『拒否していた』、というより。
『忘れることを、選んでいた』。
ベッドの上で、スマートフォンを『消した』。
俺は、その日程を『お気に入り』に登録した。
明日も、何もしないだろう。
明日も、『何もしない』ことを『選ぶ』だろう。
でも、俺は既に『選択』をしていた。
『次の説明会』へ行くことを。
『社会をより良くする』という言葉に惹かれることを。
『自分を騙す』ことを。
その『選択』の中で、誰が得をしているのか。
企業か。親か。社会か。
それとも、俺か。




